コリントの信徒への手紙一

2011年10月23日 (日)

「すべての点ですべての人を喜ばせるように」

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コリントの信徒への手紙一10・23~11・1

「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の利益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」

今日お読みしました個所に記されていることは、8章から続いてきた「真の神を信じる者たちは偶像に供えられた肉を食べてもよいか」という問いに対するパウロの答えです。結論的なことが今日の個所にまとめられています。

しかし、パウロが出した結論とはどういうものであるかといえば、非常に複雑なものです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。もう何を言っているのか分からない、支離滅裂だと言われても仕方ないような結論です。要するにどっちなんだと問い詰めたくなります。曖昧で、煮え切らない、優柔不断な答え方であると、そうであることを認めざるをえない感じです。

しかし、私自身は、パウロの出した結論に、非常に深く共感し、同意する者です。先週の特別集会の前の週に学んだ個所で「それでも決断は必要である」と語ったばかりです。しかし、わたしたちが現実の場面で下す決断は、実際にはすっきりしたものではないし、あっさりしたものでもないのです。そのようにも言わなくてはなりません。

なぜわたしたちが現実の場面で下す決断が、すっきりしたものでも、あっさりしたものでもないのか、その理由ははっきりしていると思います。それは単純な話です。わたしたちが日々の生活の中で共に生きている仲間は、真の神を信じて生きているキリスト者だけではないということです。

わたしたちの周りにはキリスト者である人もいますが、キリスト者でない人も必ずいます。それは牧師たちも同じです。牧師たちは、教会の人とだけ付き合っているわけではなく、教会以外の人とも必ず付き合っています。かなり厳しい言い方かもしれませんが、信仰を持っていない人とは一切つき合わないと言う牧師がいるとしたら、伝道する気が無い人だと言われても仕方がありません。教会の中だけに引きこもっていて、社会の人々と一切付き合わない牧師は、伝道の仕事を放棄している職務怠慢の罪を犯していると言われても仕方がありません。

もちろん伝道とはまだ信仰を持っていない人々に信仰を持ってもらうように勧め、決断してもらうことです。しかし、その場合に重要なことは、まずは、まだ信仰を持っていない人々との付き合いを始めることです。その人々との接点を得ることです。接点も無い人々に向かって、どうしたら信仰を宣べ伝えることができるのでしょうか。一度も話したこともない、顔を見たこともない、そのような相手との間に、どうしたらコミュニケーションが成立するのでしょうか。それはありえないことです。それとも、わたしたちは、そこに誰もいない空中に向かって説教するのでしょうか。それは空しいことです。

そして、わたしたちがよく知っているもう一つの事実は、だれ一人として、生まれながらに信仰を持っている人はいないということです。信仰は、親から子へ、子から孫へと、血を通して、自動的に遺伝するものではありません。我々自身の言葉と態度を通して、汗と涙を流しながら懸命に伝えなければ決して伝わらないものです。ですから、わたしたちにできる伝道とは、まだ信仰を持っていない人々とまずは知り合いになること、まずは付き合いを始めること、まずは接点を得ることです。それ以外に伝道の可能性はありえないのです。

いま私が申し上げていることをご理解いただけるのであれば、これから申し上げることも、きっとご理解いただけるに違いありません。これから申し上げることは、もしかしたら信仰的確信をもって生きる者たちの心を乱すことになるかもしれません。しかし、そのことを私はパウロから学んできたつもりです。それはこういうことです。もしわたしたちに伝道する気があるならば、わたしたち自身の信仰的確信に基づく言葉や行いをかなりの部分で我慢したり、譲歩したりしなくてはならない面が必ず出てくるということです。それをもし「妥協」という言葉で説明するのを許していただけるなら、わたしたちの信仰生活は、日々妥協の連続であると言わなくてはならない面があるということです。

今日の個所の冒頭にパウロが書いている「すべてのことが許されている」というのは、わたしたちキリスト者の信仰的確信です。わたしたちは真の神を信じる信仰によって、あらゆる迷信や偶像礼拝やタブーから解放されています。何を食べると呪われるとか、どちらの方角に頭を向けて寝ると祟られるとか、どこに入ると汚れるとか、そのようなことは全く起こらないし、ありえません。それは、信仰を持っている人だけがそうだということではなく、信仰を持っていない人も同じです。食べ物の呪いとか方角の祟りとか場所の汚れとか、そのようなものはそもそも存在しないのですから、それが起こるかどうかは、信仰を持っているかどうかに関係ないのです。はっきり言えば、そういうことがあると思い込んでいる人たちは、だれかに騙されているとしか言いようがないのです。

しかし、わたしたちが知っている事実は、次のようなことです。わたしたちが自分の信仰的確信に基づいて、このようなことをいくら語っても、訴えても、全く耳を傾けてくれない人がいるということです。取りつく島が無い人がいるのです。

しかし、それでは、わたしたちはそのような人たちにはもう何もできないのでしょうか。取りつく島が無いのだから、放っておくか距離を置くかしか選択肢はないのでしょうか。ある意味でそのとおりと言わざるをえない面もあります。そのことも事実です。しかし、放っておくことも距離を置くこともできない人がわたしたちの周りには必ずいるということも事実です。それはたとえば家族です。あるいは親しい友人です。わたしたちの人生の中には、「もうこの人とは付き合わない」と言ってしまえば、その後の関係を断ち切ることができるという相手も、いると言えば確かにいます。しかし、みんながみんなそうではありません。たとえ信仰が違い、立場が違うとしても、死ぬまで付き合わなければならない相手も、わたしたちには必ずいるのです。死ぬまで付き合うと言っても、いろんなレベルがあることも事実です。家族ならば、あるいは親しい友人ならば、「付き合う」どころか「愛する」ことが求められているのです。

今日私は二つくらいのことを言っています。第一に言っていることは、伝道とは、まだ神を信じていない人々との付き合いを始めることなしにはありえないということです。第二に言っていることは、神を信じて生きる者たちもまた、まだ神を信じていない人々と付き合うことを避けて通ることができないということです。「付き合うことを避けて通ることができない」どころか、その人々をわたしたちは「愛さなければならない」ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの信仰生活は同じ信仰をもって生きている人たちだけが集まって営むものではなく、異なる信仰や宗教や思想を持って生きている人々の中に混ざりながら営むものであるということは明白です。信仰を持たない人々を憎んで、呪って、切って捨てて、軽蔑しながら生きることが、わたしたちの信仰生活ではない。すべて正反対である。このように言わなくてはならないのです。

しかし、私は今日、まだ言っていないことがあります。それは本当は、真っ先に言わなければならないことだったかもしれませんが、あえて後回しにしました。それは、わたしたちは、いろんな信仰や宗教や思想を持って生きている人が複雑怪奇に入り乱れた世界の中にいながら、それでも真の神を信じる信仰を貫いていくことが必要であるし、そうすることが可能であるということです。

それは可能なのです。できます。それは不可能だと言っているのではありません。わたしたちに、それはできることです。ただし、そのときわたしたちのとるべき態度は、パウロが言っているとおりです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。こういう話になっていきます。

どういうことでしょうか。これから申し上げることは、誤解を生むような言葉かもしれませんが、事柄をはっきりさせるために、あえて言います。それは、わたしたちが自分一人でいるときと、あるいは同じ信仰を共有している信仰の仲間たちだけで集まっているときと、そうではない、異なる信仰や宗教や価値観や思想の持ち主たちと一緒にいるときとで、わたしたちの言葉や態度を変えることは許されるということです。はっきりいえば、わたしたちは、教会の中にいるときと、教会の外なる社会にいるときとで、言葉や態度において完璧な首尾一貫性をもっていないことがありうるし、そのような使い分けをすることが許されているのです。

もっとはっきり言っておきましょうか。わたしたちには、表の顔と裏の顔があってもよいし、二つの顔を使い分けてもよいということです。わたしたちが自分の生き方の首尾一貫性を追求することは、わたしたち自身の利益です。しかし、それを追求しすぎることによって、他人の利益を損なうことがありうるのです。わたしたちの信仰的確信やキリスト者としての生き方の首尾一貫性という点を重んじすぎて、教会の外側にいる人たちを傷つけるようなことがあるならば、伝道にとってはマイナスでしかないのです。

「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばせようとしているのですから」(33節)とパウロが書いているときの「すべての人」の中には、キリスト者である人だけでなく、キリスト者でない人も含まれています。そしてわたしたちの伝道はわたしたち自身の自己満足のために行うのではありません。信仰をもって生きることはこれほどまでに自由で喜びに満ちた人生であるということを、そのことをまだ体験していない人々に、何とかして分かっていただき、その人々と共に喜びの人生を始めること、それが伝道なのです。

(2011年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2011年7月24日 (日)

「いろいろ抱えながら楽しんで生きる」

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コリントの信徒への手紙一7・32~35

「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」

今日の個所にも引き続き扱われているのは結婚の問題です。ここに書かれているのは結婚に関するパウロの意見です。はっきり申し上げますと、この手紙の中でパウロが結婚について否定的な意見を述べていることは否定することができません。

しかし、私は皆さんを必要以上に不安な気持ちにさせたくありません。なるほどたしかにパウロは結婚について否定的な意見を述べています。しかし、彼自身の中にも、聖書全体の中にも、キリスト教信仰の中にも、結婚すること自体が罪であるという考え方は全くありません。結婚は、してもよいのです。それは神が許しておられることです。結婚は神御自身がお定めになった制度です。そして、パウロも結婚することを許しています。結婚してはいけないと禁止したことはないのです。

パウロが結婚について否定的なことを述べているのは、禁止しているのではなく、心配しているのです。それは先週の個所に書かれていたとおりです。「しかし、あなたが結婚しても罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」(7・28)。

パウロが言おうとしていることは、ある意味で単純です。また、実際に結婚した人たちにとっては、言わずと知れたことだとでも言いたくなるくらいの当たり前のことです。それは要するに、結婚には楽しい面ばかりではなく苦しい面もあるということです。結婚する人たちは、そのことをすべて承知したうえでなければならないということです。

ですから、私は先週の説教の最後に、パウロが書いていることは逆説であると申し上げたのです。

先週の個所には「定められた時は迫っています」(7・29)とか「この世の有様は過ぎ去るからです」(7・31)という言葉がありました。これはパウロの終末論であると言いました。終末の時が近づいている、その日はまもなく訪れるとパウロは信じていました。わたしたちにとって終末は、神のみもとに召されることであり、天国に受け入れられることであり、永遠の祝福と喜びのうちに置かれることを意味するのですから、悪い意味での破滅や破局を思い描く必要はありません。しかしたとえそうだとしても、終末は、地上に生きる者にとっては、やはり別れを意味するのです。そこに死別の悲しみが伴うのです。

結婚した者たちが味わう最大の苦しみは、心から愛した人と死別しなければならないときが来ることです。死別の苦しみは、愛が深ければ深いほど耐えがたいものとなるでしょう。その苦しみにあなたは耐えられますかという問いかけが、パウロの言葉の裏側にある。私はそのような意味で、パウロの言葉を逆説だと申し上げたのです。

ですから今日の個所に書かれていることも、逆説なのです。しかし、パウロが書いていること自体は全く反論の余地もない事実です。これを否定できる人がいるでしょうか。私は自信がありません。パウロは次のように書いています。「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます」(7・33~34)。

私は自信がないと言っておきながら、すぐに別のことを言わなければなりませんが、いま申し上げたことは、私が「どうすれば妻に喜ばれるか」といつも考えているという意味ではありません。もしそうであれば妻はもっと喜んでいるはずですが、そちらの自信もありません。しかし、あまり私の顔ばかり見ないでください。いま申し上げていることは、私の話としてではなく、一般論として聴いていただきたいことです。

パウロが言おうとしていることを別の言葉で言い換えれば、「結婚は独りで成り立つものではない」ということになるかもしれません。これも考えてみれば全く当たり前の話です。しかし、あまりにも当たり前すぎて忘れられてしまう可能性がある、実は非常に重要なことなのかもしれません。

独りで成り立つ結婚というものなどはありえません。しかし、結婚生活の中でしばしば問題になり、トラブルにもなるのは、どちらか一方が他方に対して横暴な態度をとるとか、あるいは自分の考えや要求を一方的に押しつけるときだったりするではありませんか。

そういうことと比べれば、パウロが言っていることは、はるかにましなことです。「どうすれば妻に喜ばれるか」と、一生懸命考える夫は、良い夫でしょう。そういう人がなぜ責められなければならないのでしょうか。多くの男性はこういう人に見習わなければならないはずです。もしそうであるならば、パウロが「どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う」人のことを責めているのかといえば、必ずしもそうとは限らないと考えることもできるはずです。あるいは、ここでパウロが「心が二つに分かれてしまう」ことは悪いことだと責めているのかといえば、必ずしもそうとは限らないと読むことができるはずなのです。

あるいはパウロは男性の側の話だけではなく女性の側に対しても、ほとんど同じことを繰り返しています。「独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」(7・34)。パウロがほとんど同じことを繰り返していますので、私も同じような言葉を繰り返しておきます。「どうすれば夫に喜ばれるか」と心を遣う妻は、良い妻でしょう。そういう人がなぜ責められなければならないのでしょうか。なぜそれが悪いことなのでしょうか。そんなはずがないのです。

しかし、それでも、パウロが言っていることは紛れもない事実であるということは全く否定できません。なるほどたしかに、わたしたちがいったん結婚生活ということを始めたら、何か一つのことに脇目もふらず、ひたすら集中するということができにくくなるでしょう。心も意識もありとあらゆる方面へと拡散していき、分散していくでしょう。学者肌の人や芸術家肌の人にとっては、何か一つのことに対する集中力を奪われることは、本当に困ったことだと認識してしまう可能性があるかもしれません。

ですから、パウロが書いていることも、いま申し上げたとおりのことかもしれません。「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」(7・35)と書かれています。

ここで気になるのは、最後の「ひたすら主に仕えさせるため」という文章です。パウロにとって要するに大事なのは「ひたすら主に仕えること」だけであって、そのための邪魔になるようなことについては、いっさい切り捨てるべきであると言っているのでしょうか。大事なのは、神だけであり、宗教だけであり、教会だけである。その大事なことを守るために邪魔になるようなものはすべて切り捨てるべきであり、全く捨て去るべきであると、そのようなことをパウロは言いたいのでしょうか。

そのようなことをパウロは書いていないということを、これまでわたしたちは学んできたはずです。少なくとも私は、そのような意味にパウロの言葉を読みません。

もしいま申し上げたような読み方をしなければならないのだとしたら、たとえば、すでに学んだ個所に書かれていた「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない」(7・12)というパウロの言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。あるいは、「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(7・13)という言葉はどうでしょうか。だって、結婚すると「心が二つに分かれてしまう」のでしょう?それはその通りだと思いますが、しかしもし「心が二つに分かれてしまうこと」が、悪いことであり、駄目なことであり、許されないことであり、「ひたすら主に仕えること」の妨害や障害でしかないということであるならば、未信者の配偶者とは離縁すべきでないと書いているパウロの言葉は、全く矛盾以外の何ものでもないではありませんか。

ですから、私は、パウロが書いている「心が二つに分かれること」を、彼がただひたすら悪い意味だけで書いているとは思えないのです。そうなってはいけないのだ、心や意識が分散するようなことに近づいてはいけないのだ、ただひたすら神さまのことだけ考えるべきであって、他のことは何一つ考えてはいけないのだと、そのような意味のことをパウロが書くはずがないと、私は信じています。そういう考え方は大げさすぎるし、極端すぎるし、あまりにも現実離れしすぎていて、非常に危険な考え方でさえあると思われてなりません。

そういうことではないのです。パウロはただ、ありのままの事実を書いているだけです。「結婚とは、そういうものです」と、淡々と事実を述べているだけです。結婚には楽しい面だけではなく苦しい面もある。集中力が必要なときも、あっちに走り、こっちに飛び回りしなければならないこともある。あのことも、このこともしながら、わたしたちは生きていく。その覚悟があなたがたにありますかと、パウロはこの手紙の読者に問いかけているのです。

結婚というどう考えてもデリケートすぎる問題について、あまり具体的な話をしすぎると必ず語弊が出てくるし、だれかが傷つくということが起こるので、なるべくなら避けたい面もあるのですが、一つだけお許しいただきたい話があります。それは牧師の話です。独身の牧師がいないわけではありません。しかし、神学校を卒業したばかりの若い独身の(現在の日本キリスト改革派教会の場合は、すべて男性の)牧師たちに対して、ほとんどの教会が、他の何をさておいてもまず最初に願うことは「早く結婚してほしい」ということだったりします。これも事実でしょう。

皆さんにぜひ考えてみていただきたいことは、その理由は何なのだろうかということです。パウロが書いていることを尊重するならば、「心が二つに分かれてしまう」ようなことを牧師たちが率先して行うのは間違っているということになるではありませんか。しかし、多くの教会は独身の牧師たちに「早く結婚してください」と言う。その意味は何なのでしょうか。

その答えを詳しく解説する時間は無くなりました。一つのヒントだけ申し上げておきます。教会に通っている皆さんは「あれもこれも抱えながら」生きているということです。そのことを理解できるようになるために、牧師たちも「あれもこれも抱えながら楽しんで」生きていく必要があるのです。

(2011年7月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2011年6月 5日 (日)

「人間の存在はこの上なく価値がある」

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コリントの信徒への手紙一6・12~14

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」

いま短めに読みました。この個所にはキリスト教信仰の核心部分が端的に表現されています。ここで問題になっていることを少し丁寧にいえば、神がわたしたちに与えてくださる自由(キリスト者の自由!)と、その自由を間違った目的のために用いてしまう人間の罪との関係はどうなっているのかということです。しかし、こういうことをさっと言うだけでは何のことかお分かりいただけるはずはありませんので、これから説明いたします。

「わたしには、すべてのことが許されている」という一文にかぎかっこが付けられている理由は、分かりません。このような言葉が旧約聖書かあるいは新約聖書のどこかに書かれているのかと思って調べてみましたが、見当たりません。どこかから引用したことを示すためのかぎかっこではなさそうです。しかし、書かれているとおりの言葉が聖書に出て来ないとしても、この「わたしには、すべてのことが許されている」という一言こそが、神がわたしたちに与えてくださる自由を端的に表現していると語ることができます。わたしたち、キリスト者は、全く自由なのです。

まさに書いているとおり「わたしたちには、すべてのことが許されている」のです。わたしたちには「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というタブーがないのです。あの日はいけない、この日はいけない。あの方向はいけない、この場所はいけない。そういうのが全く無い。あるいは、あれを食べてはいけない、これを飲んではいけない。そういうのも全く無い。他の宗教にはよくあるその種の拘束や束縛が、わたしたちキリスト者には全く無いのです。

そんなことはないだろうと、反発を受けるかもしれません。キリスト者こそが、あれもいけない、これもだめだと、そんなことばかり言ってきたではないかと。また、聖書の中には、あるいは、教会の教えの中には「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というような言葉がたくさんあるではないかと言われてしまうかもしれません。

なるほど、たしかにそうです。たとえば聖書には、有名なモーセの十戒が書かれています。皆さんがもっておられる今週の週報の最後の面にも十戒の全文を印刷してあります。「あなたは、殺してはならない。あなたは、姦淫してはならない。あなたは、ぬすんではならない。あなたは、隣人について、偽証してはならない。あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。」

たしかに、わたしたちには、すべてのことが許されています。しかし、殺してもよいわけではありませんし、姦淫してもよいわけではありませんし、ぬすんでもよいわけではありません。まさかそんなことまで許されているわけではありません。

しかし、もしそうだとしたら、わたしたちは少しも自由ではないと考えなければならないでしょうか。教会はいろんなことを禁止しているではないかと、反発されなくてはならないでしょうか。いやいや、ちょっと待ってくれ。いくらなんでもそういう理屈はないだろうということくらいは、聖書を毎週学んでいる人でなくても、常識で考えても理解していただけることではないかと思います。

詳しい事情を話しはじめますと長くなってしまいますので、途中の説明を省いた結論だけ申します。わたしたちが人を殺すということは、わたしたちが殺すその相手の自由を奪ってしまうことを意味します。また、それだけではなく、人を殺した人自身の自由が奪われることをも意味します。姦淫も、あるいは盗みも、偽証することも、むさぼることも、みな同じです。わたしたちは自由だ。しかし、その自由を間違ったことのために用いてしまうならば、その結果として、自分の自由も他人の自由も奪ってしまうことになるのです。

パウロが今日の個所に書いているのは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」のです。神がわたしたちに与えてくださる自由を間違ったことのために用いるならば、それは自分自身と他人に対して被害をもたらす結果を生むことは間違いないわけですから、その意味では、わたしたちは何をしてもよいわけではないのです。神がわたしたちに与えてくださる自由は、罪を犯してもよい自由ではないのです。

いまわたしは「罪」と言いました。パウロが書いていることは、結局のところ、神がわたしたちに与えてくださる自由と、わたしたち人間が犯す罪との関係である、と説明することができます。そうしますと、今度は「罪とは何か」についての説明をしなくてはならなくなりますが、それも長くなりますので、途中の説明を省いて結論だけ言います。

私の結論は、罪とは自由の正反対であるということです。このことは前に一度、お話ししたことがあります。わたしたちにとって自由が遊びの本質だとしたら、罪は仕事です。いま私は「仕事が罪だ」と言ったわけではありません。それは主語と述語が逆さまです。「罪は仕事だ」と言ったのです。昔のテレビドラマに「必殺仕事人」というのがあったではありませんか。人殺しのことを「仕事」と呼んでいるのです。国際的なテロを働くような人たちは、綿密な計画を立てて、ありとあらゆる可能性を想定して行動します。そうでなければ彼らの犯行は決して成立しませんし、失敗に終わるでしょう。

あるいは、姦淫を犯すこと、不倫を働くこと。こういうのも、最初は遊びなのかもしれませんが、そのうち必ず仕事になります。こちらにもあちらにも嘘をつき、こちらにもあちらにも隠しごとをし、結局どちらも重くなる。どちらかを捨てざるをえなくなるし、どちらからも捨てられる。多くの人を傷つけ、家族を傷つけ、自分自身を傷つけて、何もかも破壊する。

盗みも、偽証も、むさぼりもみな同じです。自分の犯した罪を隠すために嘘をつき、その嘘を隠すために、また嘘をつく。ピノキオの鼻はどんどん伸びていくばかりです。

仕事は罪ではありません。そんなことを言ったら怒られてしまいます。しかし、罪は仕事なのです。人間は汗水たらし、苦労して罪を犯すのです。しかしその結果は常に悪いものです。罪の結果が良いことはありえません。自分自身を不幸にし、多くの人を不幸にするだけです。そんなことのためにも、人間は汗水たらすのです。まるで馬鹿みたいな話ですが、いったん罪の電車の中に乗ってしまうと、途中で降りられなくなってしまうのです。

今日の個所でパウロが書いているもう一つのことは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。ここでパウロが「支配」という言葉で表現しているのが罪のことです。罪はわたしたちを自由にせず、むしろがんじがらめに支配します。電車の扉は、次の駅まで開かないのです。無理やり開けて、走っている電車から飛び降れば、死んでしまう。それほどに罪はわたしたちを支配するのです。乗ったら最後なのです。だから、わたしたちは、よくよく気をつけなければならないのです。

「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と続いています。パウロが「腹」という字を書くときの意味は、たいていの場合、狭い意味ではなく、広い意味です。「腹」は人間の欲求や欲望の象徴です。と言いますと、私はこの場から逃げたくなってしまいますので、このことをあまり強調したくはありません。しかし、ここでパウロが言いたいことは「食べすぎたらお腹が出っ張る」というような単純な話ではないと申し上げたいのです。

パウロがしているのは食べ物の話だけではありません。だからこそ、このあとすぐ、間髪いれずに「みだらな行い」の話が続いています。いわゆる三大欲求とは食欲、性欲、睡眠欲だと言われますが、睡眠の話をパウロはしていません。パウロがしているのは残りの二つの話です。人間が欲求や欲望を持つこと自体が悪いと言っているのではありません。わたしたちが人間であるかぎり、地上に生きているかぎり、そういうものと全く無関係に生きることは不可能です。その意味での避けがたさ、「欲求の不可避性」を指して、パウロは「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と言っているのです。

いま申し上げていることは日本では強調しておく必要があるかもしれません。クリスチャンというのは何も食べない人(?)であるかのように誤解している人がいないともかぎらない国の中では。

しかし問題は、そこから先のことです。ごく当たり前の話ですが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。自分自身を傷つけ、家族を傷つけ、多くの人を傷つけるほどの過度の欲求、過剰な欲望をもつことが悪いと言っているのです。そこまで行くと罪だと言っているのです。だからその次にパウロは「神はそのいずれをも滅ぼされます」と書いています。行きすぎた欲望追求は、神の厳しい裁きの座に耐えることができないのです。

だから、次の言葉が大事です。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」とパウロは書いています。「体」という字をパウロが書くときの意味も、たいていの場合、狭い意味ではなくて、広い意味です。わたしたちがよく言う「心と体」という区別を置いた上での「体だけ」の話をしているのではありません。そのような区別がパウロの考えの中に全く無いと言いたいのではありませんが、少なくとも今日の個所に「体」と書かれているのはもっと広い意味です。それはほとんど「人間の存在そのもの」を指していると言ってよいでしょう。

ですから、いま申し上げたことを踏まえていただいたうえで、パウロの言葉の中の「体」という字を「人間の存在」と言い換えていただけば、パウロの意図をよく分かっていただけるでしょう。実際に言い換えてみます。「人間の存在はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は人間の存在のためにおられるのです」。

いかがでしょうか。まだ日本語として分かりにくさが残っているようです。もう少し噛み砕く必要がある。それなら、これでどうでしょうか。

「わたしたちは、みだらな行いをするために生まれてきたのではない!

 罪を犯すことが人生の目的ではない!

 罪は人間の運命でも定めでもない!

 人生の目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことなのだ!(ウェストミンスター小教理問答1)

 わたしたちは、神を喜ぶために生まれてきたのだ!

 神は、わたしたちの存在を喜んでくださるためにわたしたちを造ってくださったのだ!」

わたしたちの存在は、神の目から見てこの上なく価値があります。だから、みだらな行いはただちにやめなければならないのです。

(2011年6月5日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2011年4月17日 (日)

「使徒の気持ち」

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コリントの信徒への手紙一4・7~13

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれていたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」

いま行なっている説教の方法は「連続講解説教」と呼ばれるものですが、このやり方で聖書を前から順々に学んでいくことには、良い面と、困ったなあと思う面とがあります。良い面は、聖書を隈なく学べることです。困ったなあと思う面は、読むのがつらいと感じる、読んでいてなんとなく胸騒ぎがするような個所でも避けて通ることができないことです。先週の説教の最後あたりで少しだけ予告しましたが、この手紙を書いているパウロとこの手紙の宛て先であるコリント教会の人々とのあいだになんらかのトラブルが発生していた、ということが、今日の個所を読みますと分かります。そういう個所であっても避けて通ることができないことが、この学び方の、困ったなあと思う面です。

以前、使徒言行録の学びをしましたときに私が申し上げたことを繰り返しますと、パウロという人はどうもかなり怒りっぽい人だったということは否定できません。ですから、もしかしたらパウロは、本当にただ自分の怒りにまかせて、乱暴な言葉を書きつけてしまっているだけなのかもしれません。しかし、そういうことが仮にあるとしても、それでもなおわたしたちが考えなければならないことは、本当にただパウロが怒りっぽかっただけなのか、それとも、パウロの側の堪忍袋の緒が切れてしまうほどにコリント教会の側に問題があったのか、果たしてそのどちらなのか、というあたりでしょう。

しかし、あらかじめ申し上げておきますが、今日の個所にパウロが書いている内容をわたしたちが正確に理解することは難しいです。はっきり言って、よく分からないことだらけです。分からないと言って済ませるわけには行かないかもしれませんが、とにかく伝わってくることは、コリント教会に対するパウロの怒りと悲しみの気持ちです。そうであるということだけは、はっきりと分かります。しかし、彼が書いている言葉の一字一句の意味はよく分かりません。そのように言わざるをえません。

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(7節)と記されています。ここで「あなた」とはコリント教会を指していると思われます。しかし、「ほかの者たち」が誰のことかは、よく分かりません。私の読み方では、コリント教会以外の別の教会のことではないように思います。なぜそう思うのかといえば、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者とした」と書かれているのは、コリント教会を別の教会よりも優れた教会にした、という意味ではないと思われるからです。

それではどういう意味なのでしょうか。これも私の読み方ですが、ここでパウロが「優れた者」と呼んでいるのは、要するに、キリスト教の信仰を受け入れ、教会に通っている人たちのことだと思われます。つまり、信者のことです。少し後に「あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています」(10節)とも書かれています。「信者は優れている」とか「信者は賢い」とか言いますと、信者でない人たちに怒られてしまうかもしれませんが、そのあたりはお許しください。そのように言っているのは私ではなくてパウロです。

それにまた、信者である人と信者でない人とが全く同じであるということも事実に反することですし、そんなふうに言う必要はないでしょう。わたしたちが教会に通っているのは教会に通っていない人を「わたしたちより劣っている」と見くだすためではありません。そういうことは、あってはならないことです。しかしまた、だからと言って、教会に通っている人と教会に通っていない人とは全く同じであるというようなことも、わざわざ言う必要もないことです。もし全く違いがないのならば、我々が今していることには何の意味があるのかと問わざるをえなくなります。

パウロが言っていることの意味もおそらくその程度のことです。自分よりも下の人を見くだすとか蹴落とすとか、パウロの考え方の中にあったとは思えません。しかし、パウロはその一方で、自分はコリント教会の人々を教えた教師であるということについての強い自覚と自負と責任とを感じているようにも思われます。パウロは彼らの先生なのです。先生が生徒の前で、少し上の立場に立って物を言うことはあるでしょう。「お前たちに聖書の御言葉を教えたのは、この私だよ。お前たちが今いろんなことが分かるようになっているのは、この私が教えたからだよ」と。

しかし、パウロはこんなふうに書いているからといって、コリント教会の人々に恩を売りたいわけではないのだと思います。そういうことではなく、事実を述べているだけです。しかし、その事実をすっかり忘れて、まるで先生から教えられる前から何もかも全部分かっていたかのように振舞ったり、先生をないがしろにしたり、挙句の果てに先生を攻撃したり恨んだりするというような態度を教え子たちが取りはじめるときは、先生としては「おいおい、ちょっと待ってくれよ」と言いたくなる場面も出てくるというような事情は、理解できなくもない話です。

ですから今日の個所は、どうやらそのような話なのです。しかし、まだ分からないことがたくさんあります。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれていたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」(8節)と書かれています。正確には分からないのは「既に大金持ちになっており」とか「王様になっています」という言葉です。キリスト教を信じれば、大金持ちになったり王様になったりできるのでしょうか。ないとは言えないかもしれませんが、因果関係は必ずしも明白ではありません。

そうだとしたら、これは比喩やたとえ話でしょうか。そうかもしれません。しかし、そうでないかもしれない。分からないです。はっきり比喩だと言えそうなのは「勝手に王様になっている」のほうです。しかし、比喩ではなく事実だったと思われるのは「既に大金持ちになっている」のほうです。なぜそう言えるかといえば、その後に書かれている「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます」(11節)とあることは、パウロにとっては紛れもない事実だったと思われるからです。その前に「わたしたち使徒は」(9節)とありますので、この文脈で「わたしたち」とは明らかに使徒のことです。今でいえば、狭い意味での教師、牧師、伝道者のことです。つまりパウロが言いたいことは、わたしたち使徒は貧しい生活をしてきたし、今も貧しい生活をしているが、あなたたち信者は大金持ちであると言っているのです。これはおそらく事実です。この事実をパウロは比喩で言い換えて、「あなたがたは…わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」と書いているのです。

もし私がいま申し上げたようにこの個所を読むことができるとしたら、これはどうやら献金の問題なのです。これは私が言っていることではなくて、パウロが言っていることですので、どうかお許しください。パウロの言葉だと思って聴いていただかなければ、わたしたちの間柄まで、おかしなことになってしまいます。しかし、これだけははっきりしていると言えそうなことは、狭い意味での教師、牧師、伝道者たちの生活は、もっぱら献金で支えられているということです。しかしパウロは、その点について教会に対して不満を持っているのです。「苦労して自分の手で(伝道以外の別の仕事をして)稼いでいます」と言わなければならないような生活を強いられていることに対して、お前たちの先生が苦労している姿を見てもなんとも思わないのかと苦言を述べているのです。

しかし、それにしても「最後に引き出される死刑囚」(9節)だとか「世界中の見せ物」(同上節)とか「愚か者」(10節)とか「世の屑」(13節)とか「すべてのものの滓」(同上節)だとかは、いくらなんでも言いすぎの感があります。たとえ自分自身のことだとしても「バカ」だの「クズ」だの「カス」だのと言わなくてもいいでしょう。しかし、このような一つ一つの言葉は、パウロが実際に置かれた厳しい立場や彼が味わった過酷な現実を考えてみますと、おそらく比喩ではないと思われるのです。比喩ではなく現実であると思うのです。少なくともパウロの側の実感はそうだったに違いないのです。

しかし、私はもちろん、まさか、今日の話をこんなところで終わらせるわけには行かないと思っています。ここで終わってしまいますと、今日は一体何の話だったのかという気持ちになるでしょう。まるで私が、パウロの言葉を借りて教会の皆さんに何かを言おうとしているかのようです。しかし、そう思われると困ります。何度も言いますが、今しているのは私の話ではなく、パウロの話なのです。

そして私は、実をいえばパウロも、このような一見かなり辛辣なことを書いていながらも、彼の心の中にあったのは喜びであり感謝であったに違いないと思っています。パウロは教師なのです。教え子たちが成長していくことを心から喜ばない教師がいるでしょうか。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」(10節)と言われているのは皮肉ではなくて喜びです。教師ならだれでも、自分自身よりも生徒のほうが上になってくれることを喜ぶはずでしょう。手塩にかけて育て上げた教え子たちが、いつまで経っても自分よりもでたらめなままの、自分よりも弱い、自分よりも軽んじられる存在のままであることを喜ぶ教師がいるのでしょうか。いるかもしれませんが、それは良い教師ではなくて悪い教師です。

このパウロの教師としての姿に、イエス・キリストの苦難の姿を重ねることができるように思えてなりません。わたしたちを救うために、わたしたちを幸せにするために、イエス・キリストはこの世のすべての苦難を背負ってくださり、十字架の上で死んでくださったのです。ぼろぼろのイエスさまが、人を助け、人を幸せにし、人を変えたのです。そのことは、パウロにもよく分かっていたのです。

(2011年4月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2011年3月20日 (日)

「神のために共に働く」

(MP3音声、公開中)

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コリントの信徒への手紙一3・1~9

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはずいぶん厳しいことだ、と言わざるをえません。「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができなかった」(1節a)と書いています。「できなかった」とありますのは、しようとしたが不可能だったという意味になるでしょう。「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節b)。「キリストとの関係では乳飲み子」とは、言い方を換えれば「まるで赤ちゃんのようなキリスト者」ということです。

このこと自体は批判的な意味であるとは限りません。わたしたちがキリスト教信仰を学び、体得し、自分のものにするために時間がかかります。そのこと自体は責められるべきことではないからです。もしそのこと自体が責められねばならないことであるならば、教会に通い始めたばかり、聖書を学び始めたばかりの人たちは、年がら年中、先輩たちから責められ続けなければならないことになりますが、そのような教会に通いたいと思う人はいないでしょう。

パウロ自身も、責めるつもりで、こういうことを書いているとは限りません。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」(2節a)とあります。これは明らかに、パウロがかつてコリントの町で初めて伝道したときの様子を描いています。早い話、まだキリスト教信仰について初心者であったあなたがたに初心者向けの話をしたと言っているだけです。赤ちゃんには赤ちゃん向けの食べ物をたべさせたと言っているだけです。それはいわば当然のことです。逆に、もしそうしなかったとしたら、初心者に対して難しい話をするだけだったとしたら、パウロは伝道者として失格です。難しいことを難しく語るのは簡単なことです。難しいことを噛み砕いて易しく語ることが難しいのです。

しかし、ここから先にパウロが書いていることの中には批判的な内容が含まれていると言わざるをえません。「いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです」(2節b~3節)。なぜこれが批判的な内容なのか。あなたがたはちっとも成長していないではないかと言っているのと同じだからです。あなたがたは相変わらず赤ちゃんのままである。年齢や体格の話ではありません。あなたがたの信仰が成長していない。キリスト教信仰を体得するために時間がかかるということなら分かる。しかし、時間はずいぶん経っているではないか。それなのに、なぜあなたがたの信仰は成長していないのか。ここから先は責めているのです。

しかし、たしかにパウロはコリントの教会の人たちを責めてはいますけれども、嫌っているわけでも憎んでいるわけでもありません。むしろ心から愛しています。彼らを心から愛しているからこそ、彼らの信仰がちっとも成長しないことが歯がゆいのです。今まで、あなたがたは何年教会に通ったのですか。あなたがたは教会で何を聞いてきたのですか。何を学んできたのですか。

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)とパウロは書いています。「肉の人」とは、パウロ自身の言葉で言い換えれば「自然の人」(2・14)です。つまり、それは「世の知恵」(1・20)や「自分の知恵」(1・21)や「人の知恵」(2・13)、あるいは「人の内にある霊」(2・11)で神を知ろうとする人のことです。しかし、そうすることはできないとパウロは考えています。神を知るために必要なのは「神の知恵」(1・21)であり、「宣教という愚かな手段」(1・21)であり、「神からの霊」(2・12)であり、「神の霊」(2・14)です。つまりそれは聖霊のことです。ここで先週私が申し上げたことを思い起こしていただけば、わたしたち人間、しかも信仰をもって生きている信仰者としての人間存在の中には「神の霊」と「人の霊」とが共存しているとパウロは考えています。しかし、共存してはいても、一方の力が他方の力よりも勝っているという状態があると言えます。いわば両者が天秤にかけられた状態です。これでお分かりいただけることは、パウロの言う「肉の人」とは、その人の中に共存している「神の霊」と「人の霊」のうちの後者としての「人の霊」のほうが「神の霊」よりも勝っている状態の人を指しているということです。

それはどういうことでしょうか。理屈っぽく説明すればいま申し上げたようなことになりますが、わたしたち自身の体験に基づいていえば、さほど難しいことではありません。わたしたちは、今日もそうであるように、とにかく毎週日曜日に教会に集まって聖書を学び、キリスト教を学んでいます。しかしこのあと、わたしたちは自分の家に帰っていきます。そして、日曜日の午後から土曜日までは、それぞれの家や職場や地域社会の中で生活します。もちろんわたしたちは教会にいないときも聖書や信仰を学ぶかもしれません。しかし、ある意味でそれ以上に「世の知恵」や「自分の知恵」や「人の知恵」を学んだり、身につけたりします。そのこと自体もわたしたちにとっては当然のことであり、誰かから責められなければならないことではありません。しかし問題は、そのようにしてわたしたちの心の中に、ある意味で共存してはいますが、別の言い方をすればごちゃ混ぜになっている、二つの知恵の関係はどうなっているのかということです。

たとえば、わたしたちの多くは毎日、新聞を読み、テレビを見るでしょう。とくに先週あたりは、夜遅くまでテレビを見ていたという人は少なくないでしょう。とくにテレビの場合は、何度も何度も同じ場面を映し、何度も何度も同じことを語ります。いつの間にかわたしたちは、テレビに映される場面やテレビの人が言っていることが真実そのもの、事実そのもののように教え込まれていくものがあります。しかし、これはあえて言わなくてもいいことかもしれませんが、テレビの人がわたしたちに聖書の教えとは何か、キリスト教信仰とは何かを教えてくれるわけではありません。しかし、そのようなことをわたしたちはほとんど気にすることもなく、特にそういうことを期待もせず、テレビを見続け、新聞を読み続けるでしょう。

それで、わたしたちは日曜日を迎え、このように教会に集まってきます。そして、はっと思い出すように聖書を開き、その中に書いてあることを読む。しかし、いま聖書を読んでいるわたしたちの心の中には、先週見たテレビの場面や人の声、新聞記事や読んだ本の内容がはっきりと残っています。おそらくこのような状態を、パウロならば「神の霊」と「人の霊」がわたしたちの中に共存している状態だと呼ぶでしょう。しかしそれは、ごちゃ混ぜの状態でもあるのです。

ですから問題は、わたしたち自身の、このごちゃ混ぜ状態の心の中で、「神の霊」が勝っているか、それとも「人の霊」が勝っているか、どちらなのだ、ということになるのです。ここで皆さんにぜひ安心していただきたいことは、ごちゃ混ぜ状態であること自体は問題ではないということです。もし今、皆さんが私の話を聞いてくださりながら別のことを考えておられるとしても、それは当然のことであり、仕方がないことです。わたしたちは絶えず、気が散った状態なのです。

昨日もこの説教を準備している最中に地震が起こりました。ぐらぐらっと揺れるたびに、気が散ります。あるいはまた、聖書をじっくり読まなければと机の前に座っている間に、何通メールが届き、何度携帯電話が鳴ったことでしょう。数えきれないほどでした。こういうときは開き直るしかないのです。わたしたちの心の中は、聖書のみことばと信仰の教えだけで埋め尽くされているわけではありません。ありとあらゆることが、ごちゃ混ぜになっています。そのことをわたしたちは、自分自身で受け入れ、認めるしかないのです。

しかし、そのことを受け入れ、認めたうえで、なおかつわたしたちが目指さなければならないことがあるとしたら、パウロから「キリストとの関係では乳飲み子」と言われなければならない状態から一歩でも二歩でも前進することです。キリスト者として成熟することです。「神の霊」と「神の知恵」が、わたしたちの心の中で、百パーセントにはならなくても大きな位置を占めるようになることです。

コリントの教会は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言っては、内部で分裂していました。パウロはコリント教会の初代牧師、アポロは二代目の牧師でした。松戸小金原教会の澤谷牧師と私との関係だと言えば、もっとはっきり分かるでしょう。幸いなことに、「わたしは澤谷先生に」「わたしは関口に」という話を私は一度も聞いたことがありません。どちらもつくべき人間ではないからですが、それは、この教会が信仰的に成熟している証拠でもあるのです。そのようなことを言う教会は、パウロから「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)と責められなければなりません。そのような人が一人もおられないことを、私は主に感謝しています。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6~7節)とパウロは書いています。これはもう、ほとんど説明の必要がないほど分かりやすい言葉でしょう。それでもあえて付け加えるとしたら、教師たちにも得意分野と不得意分野があるということです。植えるのが得意な人と、水を注ぐのが得意な人がいます。これは特に宣教師たちからよく聞く話です。宣教師の中には、人集めは得意だが、教会の組織や制度を整えていくのは苦手だと言う人がいます。そちらは日本人の牧師に任せます、と。それぞれの得意分野を生かして役割分担するしかないでしょう。そうすることこそが、「神のために力を合わせて働くこと」(9節)です。

しかし、教会では、誰が集めたとか、誰が育てたとか、誰が組織や制度を整えたかは問題ではないのです。だれの手柄だとか、そういう話はうんざりなのです。すべては神御自身のみわざなのです。そのことがはっきり分かるようになるために、信仰の成熟が必要なのです。

(2011年3月20日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2011年3月13日 (日)

「神の恵みを知る」

(MP3音声、公開中)

コリントの信徒への手紙一2・10~16

「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

わたしたちはいま、大きな悲しみと不安を抱いています。大きな地震で多くの犠牲者が出ました。事態はまだ流動的です。今日は予定していた小会・執事会をとりやめることにしました。それぞれの家庭に帰り、ご家族と共に今の事態を見守り、互いに励まし合っていただきたく願っています。

こういう日、こういうときに、私は何を語ればよいのでしょうか。今日開いていただいている個所にパウロが書いていることは、こうです。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました」(10節)。ここで「そのこと」とは、「隠されていた、神秘としての神の知恵」であり、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」(7節)のことです。それは何なのかといえば、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(2節)のことです。つまりそれは、救い主イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架につけられて死んでくださることによって、わたしたちの罪が赦され、救われたこと、つまり、世界の始まる前から神御自身がわたしたちを罪の中から救い出すために計画してくださっていた、救いのみわざのことです。そのようなことを、神はわたしたちに「“霊”によって」、つまり、聖霊をわたしたちの心の中に豊かに注いでくださることによって明らかにしてくださったのだと、パウロは書いています。

ここでパウロが教えていることは、やや否定的な言い方をお許しいただけば、神の御心というものは、神御自身がわたしたちの心を開いてくださるまではわたしたちには隠されているということです。もっとはっきり言えば、そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだということです。神が何を考えておられるかは人間には分からないものだということです。もっと分かればよいのに、と思わなくはありません。神はなぜわたしたちにさまざまな試練を与えられるのでしょうか。わたしたちはなぜ、これほどまでに辛い思いを味わわなければならないのでしょうか。神がおられるはずなのに。そうであるということをわたしたちは信じているのに。それなのにどうしてと問わない日は無いと思うほど、わたしたちの現実は厳しく険しいものです。

わたしたちにとって、神の御心というものがもっと分かりやすいものであり、だれでも受け入れることができるようなものであるならもっとよいはずなのに、現実はそうではない。そのことをパウロも知っています。パウロは単なる楽観主義者ではありません。この世の現実の厳しさや険しさを熟知している人でもあります。しかしパウロは単なる悲観主義者でもありません。なぜそのことが分かるのか。先ほどは否定的な言い方をしましたが、同じことを肯定的に言いなおせばお分かりいただけることです。そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだ。神の御心とは、わたしたちに隠されている神の神秘である。それはそのとおりです。神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださることがわたしたちの救いであるとか言われても、そういうことは誰にでもすぐに納得できる話であるわけではない。百歩譲ってそのようなこと(イエス・キリストの十字架がわたしたちの救いであること)が事実であるとしても、そのようなことがわたしたちの直面している現実とどういう関係にあるのだろうか。そのように問うたことがない人など一人もいないのだと思います。

しかし、パウロが言おうとしていることは、否定的なことではなく、肯定的なことです。そのようなさっぱり分からないことを、神という方はわたしたちの心の中に聖霊を豊かに注いでくださることによって、なんとかして分からせてくださろうとする方でもあるということです。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(10~12節)と書かれているとおりです。

しかしそれでは、わたしたちの心の中に聖霊が豊かに注がれるとはもっと具体的に言えばどういうことでしょうか。今お読みした個所に書かれている言葉でいいなおせば、聖霊とは「神の霊」であり、「神からの霊」です。そのような霊を、わたしたちは「人の内にある霊」、あるいは「世の霊」とは別のものとして神から与えられているのだとパウロは書いています。それは、神を信じる者たちの心の中には「神の霊」ないし「神からの霊」と「人の霊」ないし「世の霊」とが共存しているということです。わたしたちの心の中には、神が豊かに注いでくださった「神の霊」としての聖霊があるのです。しかし、それと同時に、神を信じる前から持っていたさまざまな考えや感情や判断としての「人の霊」ないし「世の霊」もあるのです。

それでどうなるのかというと、要するにわたしたちは悩むということです。わたしたちの心の中で「神の霊」と「人の霊」がけんかするのです。両者はたえず葛藤するのです。どれほど厳しく険しい現実を前にしても、わたしたちはその現実を単純な見方や単純な言葉でとらえることでは納得も満足もできない。悩みながら。苦しみながら。しかしそれでもわたしたちは、その現実へときちんと向き合い、とことんまで悩みぬき、苦しみぬくのです。

厳しく険しい出来事が起こったとき、それについて悩むことも葛藤することもなく、単純な見方や単純な言葉でとらえるとは、どういうことか。それはたとえば、乱暴で一方的で一面的な結論を出すことです。「神がおられるのに、なぜこのようなことが起こったのか」と問うことは無い。単純な結論の出し方の一つは「神はいない。この世界に神の救いなどありえない。だからこのような悲惨なことが起こった」というものです。このような貫き方で満足できる人がいるのかどうかは分かりません。しかし、実際には多くの人が神に救いを求めています。それがどのような神なのかは、多くの人々にとっては問題ではないのかもしれません。しかし、それでも、多くの人は祈るはずです。思わず手をあわせ、思わず目をつぶり、「助けてください、お願いします」と祈るのです。神も救いも、そのようなものはどこにも見当たらないではないかと思わず叫びたくなるような悲惨な現実を前にしても、そのときなお人は祈るのです。「神はいない」という単純で乱暴な結論では、人は満足できないのです。

しかしまた、ここで私は考え込んでしまいます。「神はいない」という結論で満足できる人はいないと、いま言ったばかりです。しかしその一方でわたしたちがよく知っているもう一つの事実があるということについても申し上げざるをえません。それは、悲惨な出来事を前にして祈る多くの人たちが、だからといって、その祈りをどなたにささげているのか、どのような方に向かって祈っているのかということまで知りたいということまでは、必ずしも願っているわけではないということです。「助けてください、お願いします」と多くの人は祈ります。その意味で祈りとは普遍的なものです。しかし、その多くの人が、必ずしも「神」の存在そのものに関心があるわけではないのです。今の苦しみから逃れたい、絶望の淵から遠ざかりたいと願う気持ちは真実です。しかし、だれがこのわたしを助けてくださるのか、その「だれ」が神なのか人なのか、あるいは神である場合はどういう神なのかということについてまでは、それほど深く知りたいと願っているわけではないのです。

今申し上げていることを、私はだれかを責めたり批判したりするつもりで言っているのではありません。私自身の心の中にもパウロが書いている意味での「人の内にある霊」ないし「世の霊」があるからです。そういう思いは私にもある。ですから深く共感することができます。よいたとえではないことを知りつつ申せば、お腹がすいている人に必要なものは食事なのだと思います。あるいは、お金に困っている人に必要なものはお金。いまお腹がすいている人を前にして、ごはんをたべていただくことを後回しにして、ただ聖書の教えだけをこんこんと説教することで良い結果を生みだすことは、ほとんどないでしょう。「助けてください、お願いします」と祈っている人を前にして、その人を具体的に助けることをほとんどしないでおいて、「助けてくださるのは神なのだから、まずはその神を勉強してください。まずは聖書とキリスト教を勉強してください。そうすれば、その中で教えられている神があなたを助けてくださるでしょう」と言い出す牧師がいたら、その牧師はおそらく失格者です。助けを求めているその人は「もう結構です。別のところで助けてもらいます」と、必ず言うでしょう。どう考えてもそういうのは順序が逆なのです。

しかし、今日の話も、ここで終わってはならないと思っています。今すぐに具体的な助けを必要としている人を前にして、その人の必要をただちに満たすことが重要であるということに深く共感することが間違いであるとは思いません。しかし、そこでなお、もう一歩先に進んでほしいと願うこと、あなたが思わず手を合わせ、目をつぶって祈りはじめるその方は「神」という方であり、「神」というその方は憐み深い方であり、かつ愛する御子イエス・キリストをわたしたちの救いのために十字架につけてくださったほどにわたしたちとこの世界を心から愛してくださっている方であるということを知っていただきたいと願うことを、躊躇したり遠慮したりすることも、わたしたちには不可能な話であるということを、申し上げなければなりません。

それが信仰なのだと思います。わたしたちはイエスさまが十字架のうえで叫ばれた言葉を知っています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」。神の御子が、父なる神の前で、ほとんど絶望に近い言葉を叫ぶ。しかしこれは不信仰ではありません。イエスさまは不信仰の極みに立たれたわけではありません。むしろこれこそ最大の信頼の表現です。イエス・キリストは御自身の体と心に、世界のすべての人々が究極的に悩み問いを引き受けてくださいました。神を信じる者だからこそ問う問いを自ら問うてくださったのです(神を信じない人は「なぜ神は?」とは問いません)。イエスさまがこのように問うてくださったからこそ、わたしたちにはなお生きていく希望があります。このイエスさまがわたしたちと共にいてくださるからです。

(2011年3月13日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年5月11日 (日)

「地上の教会の存在理由―ペンテコステ―」

http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-05-11.pdf (印刷用PDF)

コリントの信徒への手紙一6・19~20

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

今日はペンテコステ礼拝です。今から約二千年前、この地上にキリスト教会が誕生したことを記念する日です。今日確認しておきたいことは、この地上に教会が存在する理由は何かということです。教会とは端的に言って何でしょうか。わたしたちが毎週教会に通う理由は何でしょうか。

今日開いていただきました聖書の個所に書かれていますことは、ある一つの文脈の中で語られたものです。その文脈は、問題としてはかなり深刻なことです。事柄の核心は教会に属する人々の中で起こった人間関係上の道徳的な問題です。夫婦や家族の正しい関係を破壊する不貞や不倫の関係が、教会に属する人々の中で起こった。そのことが、教会全体に混乱や不信感をもたらしている。そのことを使徒パウロが、ある面では腹を立てながら、別の面では何とかしてその問題を解決し、教会全体の良好な関係を回復しようと願いつつ、問題の核心部分に踏み込んで厳しい意見を述べているところです。

15節あたりから読んでみますと、そのことがはっきり分かるように書いています。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体になる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。」

これは二千年前に実在した一つの教会の中で、実際に起こった出来事について書かれていることです。キリスト者の中に娼婦と呼ばれる人々と関係を結んでいる人がいる。それは本当に恥ずかしいことであり、神の前で犯された罪です。その罪がどれくらい重いものであるのかを説明するためにパウロが語っていることは、あなたがたの体は「キリストの体の一部」である、ということです。その体を「娼婦の体の一部」にしてもよいのか、と問うています。あなたがたが娼婦の体の一部になるということは、キリストの体を娼婦の体に結びつけることを意味しているではないか、ということです。

パウロが語っていることは、もちろん、言うまでもなく、あなたがたはそういうことをしてはならない、ということです。それは、あなたがた自身の体を汚すことであり、またキリストの体を汚すことである、ということです。

もう少し先まで読んでみます。

「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊になるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。

「あなたがたがキリストの体の一部である」と言われていることは、ただ単に体の一体性ということだけではなく、霊の一体性という点を必ず含みます。また「一部」という点を強調しすぎないほうがよいでしょう。「あなたがたはキリストの体である」と言い切っても構いません。あなたがたは、体も霊もキリストと一つになっている。そのような者なのだから、あなたがたはみだらな行いを避けねばならない、とパウロは語っています。

なぜ今、私はこのような聖書の個所を引き合いに出しているのでしょうか。今日お話ししていますことは、地上の教会が存在する理由は何かということです。

地上の教会は、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々の集まりです。しかし、今日の個所でパウロが明らかにしていることは、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きるとは、ただ単に、聖書というこの書物を勉強してわたしたちの教養の一部とするとか、キリスト教という歴史的宗教についての知識をもって生きるというようなこととは明らかに次元が異なる事柄であるということです。

私は今申し上げたようなことは無意味だとか無価値だと考えているわけではありません。聖書を勉強することも、キリスト教について知識を得ることも重要なことです。しかし、わたしたちが教会に通う理由、あるいはこの教会のメンバーになる理由、そしてそもそもこの地上に教会が存在する理由は、それだけなのかというと、決してそれだけではないと言わざるをえないのです。

勉強すること、知識を得ることも重要です。しかし、わたしたちの場合は、それだけで終わるわけではなく、強いて言えば、少なくとももう一歩先に進んでいかなければなりません。教会で学んだこと、教会で得た知識を、そのとおり実践するということを、少なくとも始めなければなりません。しかしまた、それだけでもありません。キリスト教の理論を実践するというだけでは、まだ主導権は自分の側に握られています。わたしが勉強したことを、わたしが実践に移す、というだけです。その場合の関心は、どこまで行っても、わたしの生き方という点に限定されています。厳しく言えば、自己中心的です。

しかし今日の個所でパウロが語っていることは、そのようなこととは明らかに違います。あなたがたの体は、キリストの体の一部である。主に結びつく者は、主と一つの霊になる。これはどういうことかというと、誤解を恐れずに言えば、わたしたちは今や、いわば地上を歩くキリスト自身になっているということです。今はわたしたち自身が、地上の教会が、いわばキリストであるということです。

もちろんこのように言うだけでは、非常に大きな誤解を生むでしょう。もう少し事柄を正確にお伝えする必要があるでしょう。わたしたち自身が三位一体の神に属する神の御子キリストであるわけではありません。あるいは、わたしたち自身が十字架の上で全人類の贖いのみわざを行なったわけではありません。その意味では、わたしたち自身はキリストではありません。正確に言えば、わたしたちはキリストの代理者にすぎません。

しかし、たしかに言えることは、わたしたちは今や、地上におけるキリストの代理者であるということです。法律的な書類を書くときに弁護士にお世話になったことがある方にはピンと来る話だと思いますが、本人の代理者である弁護士は、まさに全権を委任されています。代理者の押す印鑑は、本人の押す印鑑と同じ意味や重さを持っています。

わたしたちの存在、地上の教会の存在が、今やいわば地上を歩くキリストであると私が申し上げていることも、ある意味で、そのようなことです。

すぐに理解していただけそうな例から言いますと、たとえば、田舎の教会で牧師などをしていますと、その町の中にもその市の中にも教会が一つしかない、というところが実際にあります。改革派教会ということになりますと、一つの県の中に一つしかないところはたくさんあります。そういうところにおりますと、その教会が、その教会員が、その牧師が、その町の中ではキリストです。その町の人々は、その教会、その教会員、その牧師を見て、「ああ、キリストはこういうものか」と見るのです。あんなのがキリストなら、私はとてもついていけないと見る人もいます。もちろん反対もあります。あのようなキリストなら、わたしは信じる。ついていける。すべてをささげて一生お従いできる。

なぜわたしたちは、みだらな行いをしてはならないのでしょうか。わたしたちの体は、もはや自分自身のものではなく、キリストの体の一部になっているからです。「の一部」という点をことさらに強調する必要はありません。わたしたちは「キリストの体」です。「体」を強調する必要さえありません。「わたしたち自身がキリスト」なのです。わたしたち自身が地上を歩くキリストそのものになっているのです。「どうかわたしたちのことは見ないでください。キリストだけを見てください」という言い訳は通用しないのです。わたしたち自身の立ち居振る舞いのすべてが、キリストの存在を地上に映し出しているのです。

パウロは続けています。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。

ここに、今日お話ししたい最も重要な事柄が語られています。わたしたちの存在、地上の教会の存在が、いわば地上を歩くキリストであると語ることのできる根拠がここに語られています。注目していただきたいのは「あなたがたの体」、すなわち、わたしたちの体は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」であるという点です。

教会は、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々の集まりであると申しました。その教会に集まるわたしたちの体には、聖霊が宿っています。聖霊とは、神御自身です。聖霊がわたしたちの体に宿っているとは、神御自身がわたしたちの体の中に住んでおられるということです。神が住んでおられる場所が神殿です。神殿は遠い外国に立っている歴史的な建物ではありません。今わたしたちが礼拝を行っているこの建物でもありません。わたしたち自身のこの肉体、この存在そのものが聖霊なる神が宿っておられる神殿であると、パウロは語っているのです。

そのような清く貴くあるべきもの(聖霊の神殿としての人間の体)を、わたしたち自身の行いで汚してよいはずがないのです。もちろん実際には、わたしたちは何度も繰り返し罪を犯します。信仰をもって生きている人々も罪を犯します。パウロが今日の聖書の個所で強く批判している相手も、教会に属し、信仰をもって生きている人々です。キリスト者は罪を犯すことはないし、うそをつくことはないし、失敗も落ち度も無い、完璧な人間であるということは、事実ではないし、そのように語ること自体がうそになります。

しかし、だから駄目だと諦めるべきではありません。また、わたしたちは、地上の教会がキリストの代理者であるということを、あまり重苦しく考えすぎる必要もありません。パウロがわたしたちの体を「神殿」にたとえてくれていることは、わたしたちにとっての慰めでもあります。

神殿とは、なんと言ってもやはり、第一義的には、建物のことです。わたしたちが毎日住んでいる自分の家も建物です。建物は、放っておくと、すぐにほこりがたまり、ごみが出てきます。放っておくと、です。きれいにするためには掃除をすればよいのです。

忙しいときには、掃除するひまなどないかもしれません。そういうときは「四角い部屋を丸く掃く」というやり方も許されるかもしれません。しかし、全く放っておくことだけは避ける。そうすることを心がけるだけで、状況は少しずつでも改善していくでしょう。

今お話ししていることは、建物の掃除の話だけではありません。わたしたちの心と体の問題です。わたしたちが犯す罪の問題です。罪のない人間は一人もいない、というのが、聖書の教えです。わたしたちは、ちり一つ無い真空の中に生きているわけではありません。罪も悪も絶えず横行している複雑な社会の中に生きていますので、その影響を全く受けずに生きていくことは難しい面もあります。

しかし、だからこそ掃除をするのです。わたしたちの教会は「改革派教会」と言います。繰り返し聞かれることは「何を改革するのですか」ということです。その答えははっきりしています。わたしたち自身を改革するのです。教会を改革するのです。わたしたち自身、そして教会自身もまた、放っておくと汚れてくるのです。ほこりもごみも溜まってきます。だからこそわたしたちは「常に改革し続ける教会」でなければならないのです。16世紀の宗教改革の目的は、新しい教会を作ることではなく、「教会の大掃除」をすることであったと評する人がいます。そのとおりだと思います。

救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちが罪の中から救い出され、喜びと感謝をもって生きるようになること。

そのために自分の罪を告白し、赦しの恵みに与ること。

そのようにして自分の心と体の中身の掃除を定期的に行うこと。

それこそが地上の教会の存在理由であり、わたしたちが毎週教会に通う理由なのです。

(2008年5月11日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2007年12月24日 (月)

「苦しみを乗り越える力、それは愛―クリスマスイブ―」

http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2007-12-24.pdf (印刷用PDF)

コリントの信徒への手紙一13・13

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 
クリスマスイブの礼拝において「愛」について共に考えることは、わたしたちにとってふさわしいことであると思います。

神は、独り子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。「ここに愛があります!」(ヨハネの手紙一4・9、10)。

御子イエス・キリストのご降誕は、神の愛の証しです。イエス・キリストのご存在は、神の愛そのものなのです。

今読みましたコリントの信徒への手紙一13・13は、使徒パウロが書いた言葉です。信仰と希望と愛はいつまでも残るとパウロは言いました。いつまでも残るとは、永続的であるということです。

またパウロは、この三つの中で最も大いなるものは愛であると言いました。大いなるとは偉大である、ということです。そしてそれは、いつまでも残るという点にかかるのだと思います。最も大いなるものとは、この文脈では、最も長く残り続けるもののことです。最も長く残り続けるもの、最後の最後に残っているものは、愛である、とパウロは書いているのです。

イメージできるとしたら、マラソンレースです。信仰と希望と愛がレースをしているのです。いろんなものと一緒に走ってきました。しかし、最後まであきらめずに走り続けてきたのが、信仰と希望と愛です。トップスリーというよりも、他のものはみんな脱落していった、あるいは失われてしまった、という感じです。

しかし、ともかく三つは残った。信仰と希望と愛。三者とも表彰台の上に立っています。金メダルと銀メダルと銅メダル。真ん中で金メダルをかけてもらって笑っている、ガッツポーズをとっているチャンピオンが愛である。そういう話であると考えることができます。

しかし、どうでしょうか。ここで、ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。

はたして、このパウロの言葉は、わたしたちにとって本当に納得行くものでしょうか。わたしたちの現実に照らし合わせてみて、どうでしょうか。信仰と希望と愛は、いつまでも残っているでしょうか。心もとないものは、ないでしょうか。

信仰はどうでしょうか。「信仰なんか、とっくの昔に忘れてしまいました」。そういう話を、わたしたちは、何度となく聞くではありませんか。

希望はどうでしょうか。「夢も希望もありません」という言葉をしょっちゅう聞きます。年齢は関係ないかもしれません。中学生、いや小学生でも、人生に絶望してしまう子供たちがいるではありませんか。

愛はどうでしょうか。これも微妙です。もしかしたら、「愛されたい」という思いだけは、最後まで残っているかもしれません。しかしそれは「愛している」という思いでしょうか。わたしたちは、ほんとうに最後の最後まで神と人を愛しているでしょうか。ここに大きな問いがあります。

しかし、今日私は、皆さんにはぜひ、良い意味で安心していただきたいと願っています。今夜はぜひ、安心してお休みいただきたいところです。でも、どうしたら安心できるのでしょうか。

一つの本を見つけました。今から50年も前に書かれたものです。その中に書かれていることが、わたしに深い慰めを与えてくれました。次のように書かれていました。

「使徒パウロがコリントの信徒への手紙一13章に“愛”という文字を記しているところは、“イエス・キリスト”という名前に置き換えることができます。イエス・キリストこそが、この世界に実現した歴史的現実としての愛そのものなのです。」(A. A. ファン・ルーラー『最も大いなるものは愛である』、原著De meeste van deze is de liefde、168~169ページ。)

「愛」をイエス・キリストという名前に置き換えることができるとは、どういうことであるかということは、実際にやってみればすぐにお分かりいただけることです。

「イエス・キリストは忍耐強い。イエス・キリストは情け深い。ねたまない。イエス・キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

このように読むことが許されるのなら、本当に素晴らしいことです。イエス・キリストはまさにこのとおりのお方だからです。忍耐強く情け深いのは、イエス・キリスト御自身です。イエス・キリストがそのような愛を示されたのです。そして、イエス・キリストのご存在そのものが愛そのものなのです。

わたしたちが注意しなければならないことは、聖書における愛の教えを、ただ単に道徳的な意味だけで理解してはならないということです。

「わたしたちはいかに愛すべきか」という問いは、道徳的な問いです。たとえば、昨日の説教で取り上げましたヨハネの手紙一4章のテーマは、わたしたちはイエス・キリストに示された神の愛を一つの模範にしながら、人間同士どのようにして互いに愛し合うべきであるかという問いかけがなされていたわけですから、これのほうは道徳的な問いです。このこと自体は重要なことです。軽んじられてはなりません。

しかし、わたしたちは、キリスト教的な愛の意味を人間の行為という面だけに限定してしまうことはできません。キリスト教信仰は、宗教です。宗教は道徳を超えるものです。わたしたちにとって重要なことは、人間がいかに愛し合うべきかという道徳の問いだけではありません。神がわたしたちをどのように愛してくださっているかという、宗教の問題こそが重要なのです。

信仰も希望も、そして愛までも、すっかりどこかに行ってしまった。まさに不信と絶望の中にいる。そのような心や生活の状態に、わたしたちは、じつは、しょっちゅう陥っているのではないでしょうか。

わたしたちが苦しい状況にあるとき、つらいことがあるとき、わたしたちは、神に祈ることができません。苦しい時には祈ればよいと簡単に言うことはできません。苦しい時には祈るべき言葉すら見つからない。それがわたしたちの現実の姿です。

しかし、そのときに、です。

「“愛”という文字は“イエス・キリスト”というお名前と置き換えることができます。」

いつまでも残る、最も大いなる愛は、イエス・キリストです!

このイエス・キリストにおいて、神が、あなたを愛しておられます!

そして、その愛は「いつまでも残る」ものです。

あなたが信仰も希望も愛も見失っているときにも、神はあなたを愛しておられます!

あなたは、そのように信じてよいのです。

そのように信じるとき、あなたの心の中に、深い平安と慰めが訪れるでしょう。

クリスマスおめでとうございます!

(2007年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイブ礼拝)
 

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2006年12月31日 (日)

「信仰と希望と愛は永遠(とわ)に輝く」

コリントの信徒への手紙一13・1~13

今年最後の礼拝を行っています。開いていただきましたのはコリントの信徒への手紙一13章です。「愛の賛歌」と呼ばれる個所です。全体をお読みしましたが、お話しするのは13節です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

コリントの信徒への手紙一も使徒パウロが書いたものです。パウロは、この手紙だけでなく、他のいくつかの手紙の中でも「信仰」と「希望」と「愛」という三つの事柄を強く結びつけて語っています。

「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」(コロサイの信徒への手紙1・5)。

「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(テサロニケの信徒への手紙一1・3)。

これらの個所から明らかなのは、次のことです。

第一は、「信仰」と「希望」はイエス・キリストの御名と結びつけられているということです。つまり、パウロが信仰と希望と愛という三つを結びつけて語っている場合の、信仰と希望の意味は、「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」であり、「わたしたちの主イエス・キリストに対する希望」である、ということです。

しかし、です。第二に明らかなことは、「愛」は必ずしもそうではない、ということです。先ほどの二つの引用には「キリスト・イエスにおいて持っている愛」とも、「わたしたちの主イエス・キリストに対する愛」とも書かれていません。

書かれているのは「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」です。神に対する愛でもキリストに対する愛でもなく、人間に対する愛です。そして「すべての聖なる者たち」とは教会です。キリスト者です。人間に対する愛、教会に対する愛、キリスト者に対する愛です。

もちろん、聖書全体の中には、またパウロの手紙の中にも、神に対する愛、キリストに対する愛を教えている個所が、たくさんあります。ですから、わたしは、「パウロは神への愛やキリストへの愛を知らなかった」とか「教えなかった」と言いたいわけでありません。

しかし、です。私が申し上げたいことは、パウロが「信仰」と「希望」と「愛」の三つをワンセットで扱っている個所に限って言えば、「信仰」と「愛」の役割が区別されているというような印象を受けるということです。このことを否定することができません。

「信仰」に関しては、キリストに対する信仰と言われている。「愛」に関しては、「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」と言われている。人間に対する愛、教会に対する愛、キリスト者に対する愛が教えられているのです。

そして、第三に明らかなことは、パウロが書いているとおりのことですが、考えてみるといくらか衝撃を感じるかもしれないことです。それは何か。注目していただきたいのは、コリント一13・2です。

「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。

ここにはっきりと、「信仰(ピスティス)と、希望(エルピス)と、愛(アガペー)」とまとめて言うときと同じ「信仰」(ピスティス)という字が出てきます。しかし、パウロは「愛」(アガペー)がなければ「信仰」(ピスティス)は「無に等しい」と書いています。

愛がないような信仰には価値がないし、それが存在する意味もない、むなしいだけだ、ということです。あるいは、そもそもそれが「ホンモノの信仰」なのかどうかが疑わしいということです。「ニセモノの信仰ではないか」と疑ってみる必要があるということです。

そして、ここで、先ほど第二に申し上げた点を思い起こしていただきたいと思います。信仰と希望と愛の三つがワンセットで語られている場合に限って言えば、信仰と愛の役割が分けられているように見えるという点です。おそらくこの役割分担が「愛がなければ、信仰はむなしい」という話に結びつくのです。

はっきり言っておきます。「わたしは神さまを愛しています。信仰もあります。しかし人間を愛することはできません。神さまは好きですが、人間は大嫌いです」と語ることは許されていないということです。人間嫌いの告白は許されていないのです。事柄は逆の方向でなければなりません。人間に対する愛がないような信仰には、意味がないのです。

ただし、です。誤解がないように付け加えておきます。それは、わたしは今「信仰などなくても愛さえあればすべてよし」というようなことを申し上げているわけでもないということです。そのように語ることは、わたしたちには無理です。信仰が無くてもよいなら、教会も牧師も要りません。それはわたしたちにとっては、論外の事柄です。

信仰が必要です。これがわたしたちの大前提です。信仰も「いつまでも残る」と、パウロははっきり述べています。

しかし、です。パウロがここで述べていることは、どのように読んでも神さまに対する信仰への強調ではないということも、衝撃を受けることではありますが、事実です。

「キリストに対する信仰」と「すべての聖なる者たちに対する愛」を天秤にかけることは、わたしたちにはできないことです。恐れ多いことのように感じます。しかし、パウロはそれをしているように見えます。天秤にかけた上で「信仰」よりも「愛」のほうが重いと語っています。天秤はつりあっていません。「愛」のほうに傾いています!「信仰と、希望と、愛・・・その中で、最も大いなるものは、愛」なのですから!

このことを、わたしたちはどのように考えたらよいのでしょうか。「希望」はコロサイ1・5を読むかぎり「信仰」と「愛」を支える土台のようなものと考えてよいでしょう。問題は(キリストに対する)「信仰」と(人間、教会、キリスト者に対する)「愛」の関係です。

どちらか一方だけが必要で、もう一方は不必要であるという話には決してなりません。「あれか・これか」ではなく、「あれも・これも」です。両方が必要であり、両方が大切です。両方が「いつまでも残る」ものであり、その意味での“永遠性”をもっています。「信仰」と「愛」は、永遠に輝き続けるのです。

信仰と愛は、時間の中で消え去るとか、だれか・何かの力によって滅ぼされるものではありません。いつか・だれかに取り去られてむなしく終わるというふうには決してならない。それが「希望」です。永遠の希望です。

しかし、本当にそうなのかと、わたしたちの心の中には、いつでも疑問が沸き起こってきます。信仰も愛も、あっという間になくなるではないかと。「信じています」、「愛しています」と言っていた人が、今日は全く正反対のことを言っているというのが現実ではないかと。

そのような疑問が、わたしたちの心にはあります。あってもよいと、私は思います。真剣に疑ったらよいと思います。中途半端にではなく、徹底的に疑うほうがよい。人間の信仰の力も、人間の愛の力も、全くでたらめなものであり、一寸先は闇、行く先は袋小路です。

しかし、だからこそ、というべきです。徹底的に疑ってみること、そして実際に信仰の破れを体験し、愛の挫折と深い心の傷を負ってしまった先にこそ、見えてくるものもあるのです。それは、こうです。パウロが書いている「いつまでも残る」永遠の信仰、永遠の愛、永遠の希望は、わたしたち人間の力によるものではないということです。それは人間の可能性ではない。神御自身の可能性であり、神の恵みの可能性であるということです。

破れて傷つくべきであるとは申しません。申しませんが、じつは大切です。非常に大切です。破れて傷つかなければ分からないことが、わたしたちにはあるからです。

破れて傷ついて、その上でパウロが書いている、信仰も愛も「いつまでも残る」という言葉を読む。そこでわたしたちが気づかなければならないことは、そのような信仰も、そのような愛も、そして希望も、人間の可能性ではなく、神の可能性であるということです。人間にできないことを、神がしてくださるのです!

ここまで申し上げました。しかし、その上で、わたしは、もう一つのことを、付け加えなければならないと感じています。それは何か。

「信仰よりも愛のほうが重い」という言葉を聞きますと、わたしたちの耳にはどうしても、神さまよりも人間のほうが大事であると言われているかのように聞こえてしまう、という問題です。しかし、聖書と教会が教えていることは、人間よりも神さまを大事にしなさい、ということのようでもある。二つのことは、何となく矛盾していることかのように感じられるかもしれないのです。

しかし、あまり複雑に考えないでください。二つのことは単純に両立すると信じてください。二つの関係の仕組みはどうなっているかを説明することはものすごく難しいことですが、とにかく両者は両立するということを、単純に受け入れていただきたいと願っています。

神と人間、信仰と愛、教会と社会、日曜日とウィークデー。これらのことがわたしたちにとって「あれか・これか」であるはずがない。「あれも・これも」両方を同時に大切に持つことが重要なのです。

それでも、納得できない方もおられるでしょうから、一つの点だけ解決の道筋を申し上げておきます。それは、私がこれまでも何度となく繰り返し強調してきた点です。

考えていただきたいことは、神さまの目線は、どちらの方向を向いているのか、です。神さまは自己愛がとても強い方である。「鏡よ、鏡よ、鏡さん。世界でいちばん美しいのはだあれ」と言いながら、いつも自分の美しい姿を鏡に映して、うっとりしているような方である、ということなのか。

それとも、神さまは、御自身の姿などには、じつは全く関心がないお方ではないのか。御自身が創造されたこの世界とわたしたち人間の姿ばかりのほうに関心をお持ちになっている方ではないのか。

神さまは、わたしたち人間とこの世界のほうにばかり関心をもっておられ、いつも心配しておられる。わたしたちの身に何か起これば、すぐに飛んできてくださり、助けてくださり、(御子の)命をかけて救ってくださり、愛してくださるお方ではないのか。そのような方こそが神さまではないのか。

このあたりのことを考えていただくと、解決の道が見えるのではないかと思います。

わたしたちは神さまに関心を持ち、神さまを見上げ、神さまを信じなくてはなりません。しかしそのわたしたちの神さま御自身は、わたしたち人間とこの世界とに関心を持ってくださり、わたしたちをいつも見守ってくださり、わたしたちを信頼してくださっているのです。

そうすると、事柄がぐるっと戻ってくるではありませんか。わたしたちは、わたしたちに関心をもってくださっている神さまに関心をもたなければなりません。しかし、このわたしが神さまに関心をもつということが同時に意味していることは、神さまがもっておられる関心事(人間と世界!)に、このわたし自身が関心を持つ、ということでもあるのです!

わたし自身、牧師として多くの反省があります。

仕事で忙しいと感じるとき、家族の顔が見えていないことがある。

子どもの姿が見えていないことがある。

共に生きている人々に対する愛を見失うような信仰、家族を見殺しにするような信仰になってはいないか。

どこかに間違いがあるのではないか。

一年の終わりの日、新しい年を迎える直前に、わたし自身の強い反省を込めてそのように問うておきたいと思います。

(2006年12月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2005年3月27日 (日)

「死に打ち勝つ真の力」

2005年 松戸小金原教会イースター礼拝説教

コリントの信徒への手紙一15・50〜58

関口 康

イースターおめでとうございます。

今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストのご復活をお祝いする日曜日です。

また今日は、「召天者記念礼拝」としてこの礼拝をささげています。生前教会員だった方々、教会でまたは牧師が葬儀を行った方々、そして教会墓地に埋葬された方々の、それぞれご遺族に、今日の礼拝にお誘いするご案内状をお送りしました。

その方々には、これから毎年ご案内状を差し上げることにしました。今日ご出席くださいましたご遺族の方々は、後ほどご紹介させていただきます。

大切な方を失うこと、その方と地上ではもう二度と会うことができないということは、本当に寂しいことです。つらいことです。心にも、体にも、痛みや苦しみを感じます。

しかし、だからこそ、わたしたちは、その痛みや苦しみのなかから、助け出される必要があります。十分にいやされる必要があります。

亡くなった方々のことなどは早く忘れたほうがよい、という意味ではありません。そんな冷たい話ではありません。忘れる必要はありませんし、忘れるべきでもありません。

ただ、恐れるべきことがあります。大切な人の死は、わたしたちを容易に絶望においやってしまうのです。死の恐怖とは、絶望の恐怖です。希望を失うとき、わたしたちは、生きていく気力を失うのです。

今日は最初に、ある一人の方をご紹介いたします。

その方は、約9年前に、当時まだ二十歳に満たないご家族を病気で失い、その数日後、牧師であるご主人をも失いました。

短い間に、その家族のうちの男性二人を失いました。遺されたのは、二人の娘さんたちだけでした。それは本当につらい体験だったと、ご本人から伺いました。何日間も全く何も手につかず、寝込んでしまった、とも言われました。当然のことだと思います。

しかし、ある朝のことです。「あ、洗濯物がたまっている」ということに気づかれたそうです。それで我に帰られました。わたしには、まだしなければならないことがある、ということに気づかれたのです。

今どき、家事は主婦の仕事であると呼ぶのは、完全に時代遅れです。しかし、その方にとって、家事は、一つの救いになりました。

そうです。わたしたちは、どんなに辛いことがあったとしても、また、どんなに大切な人を失ったとしても、毎日の生活を、淡々と生きていかなければなりません。そのことに気づかなければならないのです。

その方は、牧師のおくさんだったときは、もっぱら家庭内におられました。しかし数年前、国際協力機構(JICA)の試験に合格され、現在ブラジルで、スタッフとして働いておられます。わたしのところにも、この方の活躍の様子を伝えるメールが届きます。本当に素晴らしい働きを続けておられます。

この方を立ち直らせた力は何なのかを、お話ししなければなりません。

わたしたち人間が持っている底力のようなものでしょうか。そういうものが全く無いとは申しません。

しかし、おそらく、ご本人は、そうではありません、とお答えになるでしょう。

そこでこそ、わたしはクリスチャンです、とお答えになるでしょう。

わたしには信仰がある。信仰が、神さまが、わたしを立ち直らせてくれた、とお答えになるでしょう。

キリスト教とは、復活を信じる信仰です。イエス・キリストを信じて生きる者たちには、永遠の命が与えられ、永遠の神の国を受け継ぐ者とされるという信仰です。

大切な人々、ご主人と最愛のご長男は、今も神のみもとで永遠に生きている、という信仰が、この方を立ち直らせました。

事実、キリスト教信仰には、わたしたち人間を、死の恐怖から、絶望の恐怖から、救い出し、立ち直らせてくれる力があります。

先ほど、聖書から、使徒パウロの言葉をお読みしました。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

ここでパウロが書いている「肉と血」の意味は、一つの解説を参考にして申し上げますと、「今この地上に存在している人間」のことであると言われます。

今この地上に存在している人間は「神の国を受け継ぐことはできない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちは、だれひとり、天国に行くことができないのでしょうか。

もちろん、そういう意味ではありません。

ただ、しかし、ここでパウロが言おうとしていることは、今この地上に存在している人間であるところの「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、という意味です。

「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」は、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません」の言い換えです。朽ちるものは、肉と血です。朽ちないものは、神の国です。

「朽ちない」とは、永遠性を意味します。永遠の神の国です。わたしたちの人生の目標としての天国です。そこに受け入れられ、そこを受け継ぐ者になるためには、わたしたち自身が「朽ちないもの」へとつくり変えられる必要があるのです。

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」

パウロは、「神秘」について語っています。「奥義」とも「秘儀」とも訳すことができるミステリーという言葉です。それは、科学的に実証された事実というようなものではありません。むしろ、宗教的真実というべきものです。端的に「信仰」と呼ぶことができる何かです。

「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」と言われているのは、わたしたちは、いつまでも眠り続けるわけではない、ということです。わたしたちは、「永眠者」にはならないのです。

しかし、それは、すべての人間は死なない、という意味ではありません。いやむしろ、すべての人間は、一度は必ず、たしかに死ぬのです。そして、眠りにつくのです。

ところが、パウロの信仰は、パウロの語る神秘は、それで終わりではない、と語ります。一度はたしかに死に、眠りについた者たちが、しかし、今とは異なる状態へと、すなわち、永遠に朽ちない姿へとつくりかえられるべく、よみがえるのだ、と語るのです。

そして、そのようにして、わたしたちは、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐ者になる、というのです。

ここで大切なことは、わたしたちが「今とは異なる状態に変えられる」とは、どのような意味であるか、ということです。

先ほどわたしは、「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、と申しました。

その意味は、そこに救いが必要である、ということです。「救われた肉と血」が、神の国を受け継ぐのです。

いまだに救われていないもの、救われていないところを持つものが、完全に救われているものになる、完全な救いを獲得することこそが、真の変化です。「今と異なる状態に変えられること」です。

そして、その救いとは、パウロによると、救い主イエス・キリストに結ばれることです。ただひたすら、そのことです。

そのために、わたしたちは、何をなすべきでしょうか。パウロは、次のように記しています。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

ここでパウロが教えている、わたしたちがなすべきことの第一は、「神への感謝」です。

わたしたちの神は、わたしたちの救い主、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせることのできる全能の御力をもって、わたしたちを罪の中から救い出してくださいます。

罪の中からの救い、それこそが、神がわたしたちに与えてくださる尊い賜物であり、また宝物です。

プレゼントを贈ってくださった神への感謝の生活を送ることが、大切です。

パウロがここで教えている、わたしたちがなすべきことの第二は、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励むこと」です。

神からわたしたちに与えていただける尊い賜物であり、宝物であるところの「罪からの救い」は、しかし、このわたし個人の確信として維持し続けることは、難しいものです。

この世の中に生きるとき、じつにさまざまな罪の誘惑が、わたしたち一人一人をめがけて襲いかかって来ます。

だからこそ、わたしたちは、その誘惑に負けることなく、「動かされないようにしっかり立つ」必要があるのです。

しかし、そのためには、どうしたらよいのでしょうか。わたしたちは、ひとりで信仰を維持することは、困難ですし、ほとんど不可能とさえ言えます。

パウロは、この手紙をコリントという町にある「教会」に宛てて書きました。そのため、この手紙の中に出てくる「あなたがた」とか「わたしの愛する兄弟たち」とは常に、第一義的に「教会」のことです。

この点から言うならば、「教会」の人々に対して、ここでパウロが、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と書いているとき、その場合の「主の業」とは、第一義的に「教会のわざ」のことなのです。

ですから、ここでパウロが勧めていることは、主の業としての教会のわざに励みなさい、という意味であると理解できます。

わたしたちには、「教会」が必要です。

わたしたちの救い、すなわち、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐことができる者へと、わたしたち自身がつくり変えていただけるのだ、という確信をもって生きること、としての信仰を、この地上で保ち続けるために、

そして、そのわたしたちが、その信仰に裏打ちされて、死の恐怖、絶望の恐怖から立ち直り、元気に、明るく、力強く、そして自由に生きていくために、

「教会」が必要なのです。

クリスチャンなら、だれでも、死を恐れることはないのか、絶望の恐怖を味わうことはないのか、と言いますと、決してそんなことはありません。そんなはずがありません。

しかし、だからこそ、わたしたちは、毎週日曜日には教会に集まり、恵みの神を賛美し、聖書の御言葉を通して、救い主イエス・キリストにおける神の救いについて繰り返し学び、熱心に祈るのです。

その賛美は、その御言葉の学びは、その祈りは、「無駄にならない」のです。

「こんなことやっていて何になるのか」と、思いたくなることもあるかもしれません。しかし、どうか、教会のわざに、主の業に、失望しないでいただきたいのです。

わたしたちは、死に打ち勝つ真の力を、教会から得るのです。

(2005年3月27日、松戸小金原教会主日礼拝)

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