ガラテヤの信徒への手紙

2004年11月21日 (日)

「十字架のほかに誇るものなし」

ガラテヤの信徒への手紙6・11〜18

関口 康

「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」

ここで必ず問題になることが二つあります。第一は、なぜパウロはこの部分を「大きな字で」書いたと言っているのか。第二は、なぜパウロはこの部分を「自分の手で」書いたと言っているのか、ということです。

第一の問題は「大きな字」の理由です。考えられる答えの一つは、内容を強調するために大きな字で書いた、ということです。もう一つは、パウロは大きな字しか書けなかった、ということです。

結論から言いますと、前者の説明のほうがよいと思われます。内容を強調するために、大きな字で書いたのです。しかし、後者の説明のほうがよいと考える人々もいます。その理由として挙げられるのが4・12以下に記されていることです。

パウロは、とても重い病気にかかりました。その病気の姿を見たガラテヤ教会の人々はさげすんだり忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとしたのです。

ですから、パウロは目の病気にかかったのではないか。パウロの目は、その後も十分に癒されることは無かったのだ。それでパウロは大きな字しか書けなくなってしまったのだ、というわけです。

しかし、パウロの病気が何であったのかは特定できません。その点がはっきりしないかぎり、この問題は解決しません。仮説の上に仮説を重ねて行くことは危険です。それよりも前者の説明のほうがよいでしょう。

第二の問題は「自筆」の理由です。ここに書いてあることを素直に受けとるとしたら、今この個所から、パウロ自身が筆をとって書きはじめた、という意味にとれます。しかし、それなら、これまでの文章は、誰が書いていたのでしょうか。

この問題については、ローマの信徒への手紙16・22の記事がおそらく参考になります。「この手紙を筆記したわたしテルティオ」という名前が出てきます。パウロには、秘書がいたのです。この点は明言されていますので確実に言いうることです。ただし、ガラテヤの信徒への手紙を筆記したのがテルティオだったかどうか、までは分かりません。

しかし、わたしたちにとって大切なことは、この手紙を筆記した人物が誰か、というようなことよりも、むしろ、パウロの伝道活動は、多くのスタッフによる助けとサポートによって成り立っていた、という事実そのものです。

パウロは、自分ひとりで何もかもしていたのではありません。それどころか、彼ひとりでは何もできなかったであろう、というべきです。

誰にも迷惑をかけたくない。わたしひとりで何でもできる。誰の助けも必要ないという思いは、まことに尊いものですが、限界もあるでしょう。

パウロでさえ、自分の手で長い文章を書いたりはしませんでした。伝道旅行にも、必ずパートナーを連れて行きました。旅行先でも、いろんな人々に助けてもらっていました。

「わたしは、誰にも迷惑をかけないで、ポックリ死にたい」と仰る方々がおられます。そのような方々には、どうか、もっとたくさん、周囲の人々に迷惑をかけてください、と申しあげたいのです。教会に大勢の人々が集まっていることの理由を考えてみていただきたいのです。

「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」

今日の個所、この手紙の最後には、この手紙全体の要点が書かれている、と考えることができます。内容的には、繰り返しです。もう一度全体の内容を思い返してみてください。長々と書いてきましたが、わたしの言いたかったことは要するにこの点です、ということを最後に整理し、まとめる意図があると言えます。

ガラテヤ教会の人々に、割礼を受けさせようとした人々がいました。とくに「異邦人」と呼ばれる人々は、ユダヤ人のように、幼いときに割礼を受けてはいませんでした。その異邦人たちにも割礼を受けさせるべきだ、と主張した人々がいたのです。

しかし、パウロは、そのような主張に強く反対し、また、そのようなことを語る人々に向かって激しく抗議しました。そのようなことを語る人々の中には、当時のキリスト教会の最高権威者であった使徒ペトロさえ混ざっていたのです。

そういう人に逆らって何かを語ること自体、とてもたいへんなことであると思います。とくに、当時のパウロは、キリスト教会にとっての"新入り"でしたから。

また、彼にはかつてキリスト教会に対する熱心な迫害者であった、という"前歴"がありましたから。そのような彼が、教会の中で信頼されるようになるためには、かなりの時間や努力が必要だったに違いありません。

しかし、この個所を読みながら、わたしは、もう一つの見方ができるのではないか、と思わされました。

ここでパウロは「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」と書いています。

これはおそらくパウロの言うとおりなのだとは思いますが、少し微妙な問題が含まれているのでは、とも感じました。とにかく一度、逆の立場から考え直してみる必要があるのではないか。パウロが激しく抗議した人々、とくに使徒ペトロの側にも、いくらか同情の余地があるのではないか、と感じたのです。

どういうことかと申しますと、たとえば、わたしたち自身のこととして考えてみたときに、同じ教会の仲間たちが、誰かから激しい迫害を受けているような姿を黙って見ていることができるでしょうか。死んでも殺されても構わないという決意や自覚は、尊いものかもしれません。しかし、実際に殺されて死んでいく人々を、冷静に直視できる人がいるでしょうか。難しいと思うのです。

たとえば、もし、このときのペトロの行動が「教会のだれ一人、もう二度と傷つけたくないし、失いたくない」という思いに根ざしたものであったとしたら、同情の余地があるはずです。全く理解できない、とまでは言い切れないものが、あるのです。

しかし、パウロの言葉のほうが、全く理解できない、と言いたいわけではありません。そういう意味ではありません。そして、パウロが語っていることこそが、どちらかといえば"弱い人々"の立場に立っていると感じます。パウロは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けたばかりの、生まれたての赤ちゃんの信仰者たちの信仰を守ろうとしているのです。

迫害の手を恐れるがゆえに、迫害を受けないように、こちら側の態度を改める、というのは、結局のところ、迫害者の側に身を置くことを意味します。事実上、迫害の正当性を認めることを意味し、当時新しく誕生したばかりのキリスト教会の信仰の自由を否定することを意味します。

しかし、本当にそれでよいのか、というのがパウロの言い分である、と言えるでしょう。迫害に屈してはならないし、認めてもならない。イエス・キリストを信じて生きる自由によって生きはじめた人々の信仰を守り抜くことこそが、教会の牧者の責任ではないのか、ということを、パウロは語っているのです。

「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていません」と書かれています。律法主義者は、少しも律法を守っていない、つまり、神の御心を行っていない、という意味です。律法主義は端的に罪なのです。

迫害を恐れて行動することには、同情の余地があります。しかし、だからといって、罪を是認することはできないのです。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがありますように。」

先ほどわたしは、パウロの道だけではなく、ペトロの道もある、少なくとも同情の余地はありうる、というような話をしました。パウロのように前に進むか、ペトロのように後ろに下がるか、です。

しかし、さらによく考えてみると、そもそも、この点で、行くべきか・戻るべきかということを判断すること自体、わたしたちキリスト者には、もはや許されていないのではないか、という問題も残るのです。

それはなぜか、と言いますと、わたしたちは、まさにパウロが言うように、今はもう、イエス・キリストと共に十字架にはりつけにされてしまっているからです。

キリストへと結び合わされ、キリストと共に生きるようになった者は、十字架にはりつけにされているのです。そこから降りることは、もはやできません。イエス・キリストと共に生きる人生を、途中でやめることはできないのです。

しかし、このことを、わたしは、何か悲壮感のようなものから、申し上げているのではありません。どんなに苦しくてもつらくても、煮え湯を飲まされても、キリスト者であることをやめることができない、というような悲壮感ではありません。

そうではないはずです。わたしたちは、救われたとき、何よりもまず、この人生を喜ぶ道を教えられたはずです。

ある先生は言いました。

「騙されたと思って、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

わたしも、本当にそうだと思います。しかし、わたしは少し違った言葉でお勧めします。

「決して騙したりはしません。騙されたとは思わないで、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

なぜなら、信仰によって生きるとき、わたしたちには人生の喜びが与えられるからです。罪の泥沼の中で、這いずり回り続ける苦しみから解放されるからです。

だからこそ、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはならない」と書いています。「大きな字で、自分の手で」書いています。

わたしには、他に誇るものは何もない。何の取り柄もないし、善いところもない、と感じる。人に見せびらかすことができるようなものは、何一つ持っていない。

しかし、わたしの誇りは、十字架である。十字架につけられて死んでくださった救い主イエス・キリスト、そして、イエス・キリストと共にこのわたしがはりつけにされているこの十字架を、わたしは誇る。

あの十字架、あの救い主イエス・キリストの贖いの死ということなしには、わたしたちは、罪の中から決して救われることはなかったのです。

十字架を誇る、とは、わたしが(キリストの十字架によって)罪から救われていることを誇る、ということでもあります。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」

最後の最後に、パウロは、またなんだか、ぶっきらぼうで、嫌味っぽい感じのことを書いています。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」。

こんな手紙を二度と書きたくない、という意味かもしれません。この手紙の中には、ケンカ腰で書いたとしか思えない、非常に乱暴に書きなぐった感じの部分もありました。こんな手紙は二度と読みたくない、と思われてしまうかもしれません。

しかし、彼はただ、分かってほしかっただけなのです。パウロの願いは、信仰によって生きる人生の幸福をみんなに味わってほしいという、ただそれだけです。

割礼を受けるかどうかなど、そんなことは、どうだってよいことだ。そんなことは問題にならない。

あなたには信仰があるか。生きる喜びがあるか。それだけが問題だ。

そのことを、それだけを、彼らに分かってほしかった。ただそれだけなのです!

このパウロの願いが、わたしたちみんなの願いとなり、この手紙を読む、すべての時代の、すべての教会の、すべての信徒たちのものとなりますように、祈りましょう。

(2004年11月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年11月14日 (日)

「互いに重荷を担いなさい」

ガラテヤの信徒への手紙6・1〜10

関口 康

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

ここでパウロがガラテヤ教会の人々に勧めていることは、すべての時代のすべての教会の信徒たちが、お互いに行うべき「魂の配慮」の必要性です。

教会内で行われる、この意味での「魂の配慮」を、わたしたちは「牧会」という名で呼んできました。「牧会」という言葉そのものは、牧師の「牧」の字、教会の「会」の字が使われますので、つい牧師だけの仕事であるかのように思われがちです。しかし、この意味での牧会は、牧師だけの仕事ではありません。教会員全員の仕事です。

この「牧会」というものを信徒相互で行うことを「相互牧会」と言います。ですから、パウロが書いているのは「相互牧会のすすめ」と呼ぶことができる事柄です。

「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とあります。「万一・・・不注意にも」という言葉で強調されていることは、「故意や悪意からではない罪」ということでしょう。故意や悪意は少しも無かった。しかし、たとえそうであっても、「万一・・・不注意にも」、わたしたちは罪を犯してしまうことがある、ということを、パウロは認めています。

そのような場合には、「霊に導かれて生きているあなたがた」、すなわち、聖霊のみわざにおいて救い主イエス・キリストへの信仰を与えられて生きているあなたがたは、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とパウロは勧めているのです。

怖い目でにらみつけて、毛嫌いするのではありません。正反対です。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」とは、罪を犯した人が真に悔い改めて、正しい信仰に基づく教会生活を再開することです。キリストの兄弟姉妹として、神の家族として、赦し合い、受け入れ合うことができるようにするために、聖書の教えに従って生きる道へと戻っていただくように、働きかけることです。そのことを、わたしたちは「牧会」において最も大切なことと考えます。

しかも、パウロは、この意味での「牧会」を「霊に導かれて生きているあなたがた」がしなさい、と言っています。わたしがします、というのではありません。牧会は伝道者・牧師だけの仕事ではありません。伝道者・牧師の仕事でもあります。しかし、それは聖霊に導かれて生きている、すべてのキリスト者の務めです。教会員全員の務めなのです。

続けて、パウロは、「あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と書いています。この言葉には、二つの意味を考えることができます。

考えられる第一の意味は、この言葉どおり、自分自身が罪のわざへと誘惑されないようにする、自分自身への注意と反省です。

「人のふり見てわがふり直せ」と言います。「他山の石」という言葉もあります。イエスさまは、語られました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイによる福音書7・1〜2)。他人の罪を裁く人は、その裁きのまなざしの中から自分自身を見失ったり、見落としたりしてはならない、ということです。

考えられる第二の意味は、当時の律法学者たちに対する厳しい批判です。

イエスさまやパウロの目から見ると、律法学者たちは、自分のことを棚に上げて、他人を批判することに熱心な人々でした。他人の問題や欠点を見つけ出しては、その人の重荷を増し加えることが得意な人々でした。彼らは「あなたのここが問題だ。ここが悪い」と、ただ指摘するだけです。イエスさまが、そしてパウロが厳しく批判した人々は、どうやら、そのあたりに、大きな問題があったのです。

他人の批判をするだけなら、簡単です。イエスさまは、次のようにも語られました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3〜5)。そのとおりです。他人の問題を指摘したいと思う人は、その前に自分の問題を、まず解決することが求められているのです。

しかし、パウロの言葉は、いわばもう一歩、先に踏み込んでいます。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。ここに「互いに重荷を担う」とありますのは、以前の日本聖書協会訳の新約聖書(1954年)では「互に重荷を負い合いなさい」と訳されていました。前の訳のほうが、わたしの心には、ぴったりはまりますし、パウロの意図を明確に言い当てることができます。

「重荷を互いに負い合う」とは、わたしの重荷をあなたが負い、あなたの重荷をわたしが負う、という相互の助け合いの関係です。この関係は「相互依存関係」(インターディペンデンス)の一種であると理解できます。「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)を、必ずしも意味しません。言うならば、わたしの目の中の丸太をあなたに取り除いてもらいながら、あなたの目の中のおが屑をわたしに取らせていただくことです。

そのような関係が、わたしたち教会の中では許されることであるし、必要なことでもあるのです。

「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)の関係は、ある意味で理想的であると言えます。しかし、ただそれだけが、教会の中での信徒同士の協力関係のあり方である、となると、ある人々にとっては、辛いと感じるだけです。

しかし、ある人が他の人に依存しているだけの状態が、いつまでも続く、というのも、考えものです。

一方だけが重荷を負う役目、他方は重荷を負わせる役目、というような関係が固定し、ずっと続いてしまうようであれば、やっぱりちょっと困るし、できればその関係は変えていかなければならない、と感じるでしょう。一方は、毎日泣いている。他方は、毎日笑っている。それでは困ります。

つらいときは、みんな一緒。喜ぶときも、みんな一緒。このような関係は、どのようにしたら、作っていけるのでしょうか。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

ここには、ずいぶんと厳しい言葉が語られているようにも感じます。しかし、ポイントは明確です。先ほど申し上げたことに付随する、もう一つの側面であると思われます。

パウロは、まず「互いに重荷を担いなさい」と書きました。先ほどわたしは、このことを「相互依存関係」(インターディペンデンス)という表現を用いて説明しました。しかし、パウロとしては、それだけで問題が解決するわけではないと思ったのでしょう。さらなる問題がある。「お互いに」というこの一点が教会の中で真剣に考え抜かれなければならないときには、どうしても避けられない問題がある、ということです。

第一の問題は、一言で言ってしまえば、そのような協力関係の中にさえ、思わず知らず、傲慢の罪というものが忍びこんでくる危険性がある、ということになるでしょう。

「互いに重荷を担う」とはいえ、現実はもう少しシビアである、という場合があります。一方には、常に「みんなの重荷を負わなければならない」と必死で踏ん張っている人々がいる。他方には、常に「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」と感じている人々がいる。このような構造的な関係が、たとえ教会の中であっても、避けがたく起こってきてしまう、という問題です。

そういうときに、教会の中に忍び込んでくるのが、傲慢の罪であると、パウロは考えているようです。もっとも、ここでパウロが「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人」と、非常に辛らつな言葉で指摘しているのは誰のことかについては、はっきり特定することができません。

「みんなの重荷を負わなければならない」という言い方そのものが傲慢だ、という意味でしょうか。「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」という言い方のほうが傲慢でしょうか。この判断は難しいものです。

しかし、だからこそ、第二の問題が生じます。「互いに重荷を負い合う」という目標を真に達成し、実現するためには、「めいめいが自分の重荷を担う」ということが、どうしても必要であるということです。一方は全責任を負わされる、他方は全責任を丸投げする、というわけには行かないのです。

ただ、そう言いながら、わたし自身の中には、少し、どちらかと言うと弱いほうの立場を、弁護ないし応援したくなる気持ちがわいてきます。これは、教会に限った話ではありません。どこの社会にも、自分で自分の重荷を負うことが、もはや全くできない状態にある人がいるからです。自分で負える部分は、いわばゼロ。他の人に百パーセント担ってもらわなければ、生きていくことさえできない人がいるのです。

しかし、その人の重荷を担う人の側も、一苦労です。少しくらい、不平や不満を口にしたくなるときがあるでしょう。その言い分も、十分に分かるつもりです。

しかし、そういうときにこそ、わたしたちは、教会だからこそ、考えなければならないことがあるのではないでしょうか。それは、互いに重荷を担うこの場所が他ならぬ「教会」である、というこの点です。

「教会」とは、ただ単なる個人の集まりであるという以上に、組織化され、制度化された「団体」であるという性格を持っているのです。「教会」が「団体」であるかぎり、同じ負担であっても、特定の個人に偏った負担という方法ではなく、できるかぎりこの団体の総力を結集したところで「互いに担い合う」という方法がふさわしいのです。

教会の信徒同士の"魂の配慮"という意味での「牧会」ないし「相互牧会」とは何かということについて、わたしたちは、10月17日に行いました特別伝道集会の午後の第二部で、関口津矢子さんの発題から、いろいろなことを学ぶことができました。わたしも勉強させていただきました。発題の要旨が『まきば』の10月号に掲載されています。

その中で、とくに、ぜひ読み返していただきたい言葉は、以下の部分です。

「カルヴァンは、教会の組織化・制度化によって、ルターよりもいっそう教会の牧会的機能を推し進め、キリスト者がどのように生きるべきかという牧会的配慮に強調点を置きました。これが現代に受け継がれ、『教会訓練』を重んじることが改革派教会の特長になりました」(松戸小金原教会『まきば』第293号、2004年10月24日発行、5ページ)。

このことに関して、わたし自身、いつも考えさせられておりますことは、教会の組織化・制度化の目的は何か、ということです。わたしたち日本キリスト改革派教会は、おそらく日本の他のどの教派・どの教団よりも、教会の組織化・制度化ということに熱心であると思います。これは、大いに自慢してよいところです。

しかし、問題は、その目的は何か、ということです。わたしたちが重んじる教会の組織化・制度化の目的は、ただひたすら「牧会的配慮」ということが、きちんとなされていくためである、ということです。

教会には、いろんな人が集まります。しかも、多くの人々が、自分の人生に重大な危機が訪れ、大きな問題を抱えて駆け込んできます。その意味で、教会は「問題だらけ」です。「そんな言い方、しないでくださいよ」と言われるかもしれませんけれども、わたし自身は、教会とはそういうものであってよいし、そうあるべきだと考えています。

しかし、そこで、わたしたちの話が終わるわけではありません。関口津矢子さんが書いています。「わたしたちは危機的状況を乗り越えたときにこそ、信仰的な成長が与えられることを知っています。そして十分ないやしと慰めが与えられると、今度は他者を理解する者・支える者へと変えられていくのです」(同上頁)。

教会生活の「長さ」のことを言われると、立つ瀬がない、とお感じになる方がおられるようです。おそらく謙遜の表現として「教会生活の年数が長いばかりで、中身はちっとも成長していません」と言われる方がおられます。

しかし、それは禁句にしましょう。他の人々よりも少し先に救われた者たちは、やはり、今度こそは、他の人を助ける働きに就くことが求められているのです。

ただし、その場合、自分自身の重荷も、まだ少し、あるいは、たくさん、他の人々に負うてもらわなければならない状態のままであることには、変わりない。完全な意味での「自立」は、できていない。しかし、たとえそうであったとしても、他のひとの重荷を負い合おうと思う気持ちや心があるかどうかが、問われているのです。

そういう心を持っている人々が増えてくるときに、教会がぐんぐん成長しはじめます。先週、この教会のある方から伺いました。

「最近、教会に来るのが、楽しくなりました。前はそうではなかった、という意味ではありません。でも、教会の門をくぐったばかりの最初の頃は、緊張していましたし、理解できないところもありました。教会に通うのがおっくうだ、と感じたこともあります。しかし、今は、教会の中に友達もできたし、聖書の御言葉もだんだんと理解できるようになったので、教会が楽しくなりました。朝起きたときに、これから教会に行こう、という気持ちがわいてくるのです」。

この気持ちが大切ではありませんか。一つのポイントは、教会の中に友達ができた、ということです。教会の中でこそ、互いに重荷を負い合える仲間が与えられるのです。信仰によって互いに結び合わされた神の家族が与えられるのです。

そして、いわばその次に来る大事なポイントとして、この「互いに重荷を負い合おう」という一人一人の小さな心を集めて、より大きな力とするために、教会の組織化・制度化ということを、きちんとして行かなければならないのです。

この続きのところで、パウロは、いわゆる教会のお金の問題、とくに説教者への謝礼とか、牧師給与といった事柄に直接的に関わってきてしまう非常に具体的な問題を、取り上げています。わたしは牧師という立場にありますので、正直に言って、ちょっと触れにくい問題です。しかし、非常に大事なことだと思っています。

教会の組織化・制度化の目的の大きな一つに、教会財産の管理があります。しかし、そのことが直接的に、「牧会的な」問題でもあります。

なぜかといえば、わたしたちの多くが、教会の中で、信仰的なつまずきを覚え、もはや信仰生活を続けていけないのではないか、と思うほどの深い傷を受けてしまうことさえある、その最も大きな原因は、かなりの部分で、お金の問題なのです。

このことをきちんとしていくことが、教会形成において、「魂の配慮」として、最も重要なことでもあるのです。

(2004年11月14日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年11月 7日 (日)

「喜びを禁じる掟はない」

ガラテヤの信徒への手紙5・22〜26

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

Chapel01_12「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

今日の個所に書かれていることを一言でまとめて言うならば、わたしたちキリスト者に与えられる霊的な賜物とは、どのようなものか、ということです。

「霊の結ぶ実」とあります。「実」の意味はフルーツ(くだもの)です。結果という意味もあります。「霊の結ぶ実」とは、救い主イエス・キリストを信じる人の内に聖霊なる神が住み込んでくださった結果として、その人に与えられる霊的な賜物のことです。賜物とは、贈り物(プレゼント)です。

このことを理解していただくために開いていただきたい関連の個所は、マタイによる福音書7・17〜18です。ここでイエス・キリストは、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と語っておられます。実を見て木を知りなさい、という意味です。

しかし、これは、原因と結果の関係を機械的・法則的に結び合わせる、あの単なるいわゆる「因果論」とは異なるものである、と言わなければなりません。

マタイによる福音書をご覧いただきますと、「実を見て木を知る」という御言が記されている段落は、「偽預言者を警戒しなさい」という警告から始まっています。そして、次のように言われます。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。

ここでイエスさまが問題にしておられることは、明らかに、ひとりの人間の「内と外」、つまり、心の中にあるものと外側に見えるものとの関係です。単純に、原因と結果の関係についての話ではない、ということが分かるのです。

むしろ、ある意味で、もっと厳しいかもしれません。あの人は、あのものは、外側から見ると善いものに見えるかもしれないが、内側がひどいということがありうるから、気をつけなさい、というわけですから。

パウロの場合も、じつは、同じことが言えると思われます。

「霊の結ぶ実」、すなわち、聖霊なる神がわたしのうちに住み込んでくださった結果としてわたしに与えられる霊的賜物の意味は、このわたしの「内と外」、すなわち一人の人間の内面性と外面性は決して無関係ではありえない、ということを語っているのである、と理解することができるのです。

少し分かりにくい言い方になってしまったかもしれません。もっと平易に言い直せると思います。ごく単純に言えば、たとえば、わたしたちは、とても腹が立っているときニコニコ笑っていられることは、ほとんどありえないだろう、というようなことです。

もちろん、なかには、「顔で笑って・心で泣いて」ということが上手な方がおられるかもしれません。そのほうがオトナらしい態度であり、中身が丸見えというのはコドモっぽい、と思われるかもしれません。しかし、顔のどこかが歪んでいる。目の奥が笑っていない、ということがありえます。見抜く人は、見抜くのです。

あるいは、逆に考えてみて、その人が今このとき考えていること、心の中で思っていることが、全く外から見えないし、分からない、というのは、恐ろしいことでもあります。

児童心理学者たちが口を揃えて言うことは、「グズグズ言ったりわがままを言ったりするくらいの子どものほうが健全である」ということでしょう。

思ったことを口にできないし、表情にも表さない。質問しても答えない。固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、自分の中身、真の姿、あからさまな正体を寸部漏らさず隠し通してしまえる子どもがいるとしたら、周囲の人は心配になります。

いや、心配になるくらいなら、まだマシなのかもしれません。何かを隠している様子が、ほんの少しでも伺えるなら、まだ良いほうです。全く分からない。いや、じつは、自分自身でも自覚がない。自覚がない、というのが、最も恐ろしいことかもしれません。

先ほどのマタイ7章の「偽預言者を警戒しなさい」という御言にこだわるようですが、ここでイエスさまが「偽預言者」と呼んでおられるのは、明らかに、当時の宗教家たちである、ということが、ここで注目されるべき点です。

彼らは当時、最も尊敬されていたのです。誇り高い仕事でした。しかし、その宗教家たちが偽物だと。「偽預言者だ」と、イエスさまは告発されました。彼ら自身に、そうであることの自覚が無かった可能性があります。

偽預言者は本物の預言者にそっくりである、と言われます。偽キリストは本物のキリストにそっくりである、と言われるのと同じです。悪い意味でのイミテーションは、本物と見分けがつかないくらい酷似しているからこそ、商売が成り立つのです。

しかし、です。たとえ、その人々が、どんなに固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、また、いかなる行いにおいても善意をもって振舞うことができ、人々の尊敬を集めることができたとしても、どうしても、最後まで隠し通すことができない部分がある。本物か偽物かが、バレてしまう。

そういうところが必ずある。この点こそがまさに、イエスさまの言われる「実を見て木を知ること」であり、パウロの語る「御霊の結ぶ実」という言葉の真意です。明らかに、ひとりの人間の内側と外側との関係の問題が語られているのです。

しかし、わたしは今日ここでユダヤ教の批判をしたいわけではありません。イエスさまの時代の宗教家たちの批判をしたいわけでもありません。

あるいはまた、わたしたちの時代の、あの人・この人の批判をしたいわけでもありません。わたしたち自身の日常生活の反省や自己批判をしたいわけでもありません。そうすることは大切なことではありますが、今日の話の目的ではありません。

そうではなくて、わたしが今日申し上げたいことは、わたしたち人間は、言ってみれば、じつは「薄皮一枚」のような存在であるということです。

「神さまの目から見たら」と付け加える必要があるかもしれません。

わたしたちの内側と外側との関係、内面性と外面性との関係は、少なくとも神さまの目からご覧になったときには、まさに薄皮一枚にすぎない。透けて見える。全部見える。何もかも顕わである。神はすべてをお見通しである、ということです。神の御前で何かを隠そうだなんてことを考えること自体が愚かである、ということです。

しかし、まだ、この点だけなら、わたしたちは、どこかで責められているような気持ちが残ると思います。牧師は、何かを言いたがっている。奥歯に物が挟まったような口ぶりがある、と思われるかもしれません。

しかし、今日のポイントは、誰かへの批判でもなければ、自分への批判でもありません。むしろ、神さまの目から見るとまさに「薄皮一枚」であるこのわたしの存在は、入れ物であり、器(うつわ)であり、容器である、ということです。

そして、その入れ物の中に、もし救い主イエス・キリストを信じる信仰があり、また、その信仰を持っている人々の内側に聖霊というお方が住み込んでくださるならば、その人の存在はまさに光り輝くものになるのだ、ということです。そして、その光は、外側から見ても、よく見えるものなのだ、ということです。

まだダメでしょうか。

まだ責められているような気がする。あるいは、どこか貶(けな)されているような気がする。人間は入れ物だ。その中に宿ってくださる神が輝いている、と牧師は語る。入れ物である人間、このわたし自身は、ガラスのような存在であり、道具にすぎない、ということだ。それならば、神さまが輝くんでしょ。人間自身が輝くわけではないんでしょ、と思われるでしょうか。

しかし、そうではありません。たしかに、わたしたちは、ある意味で、わたしたちの内なる御霊の働きの輝きを外側に照らし出すことが許されている存在です。自分自身は薄皮一枚のような存在であり、透明ガラスのような存在です。けれども、わたしたちは単なる道具なのか、自分自身には存在する目的も意味もない物体にすぎないのか、というと、決してそういうことではないのです。

パウロは語ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。ここでまず認めたいことは、これらの“善きもの”が、わたしたちの中には確かにある、という事実です。

そして、その上で、その次に、先週学んだガラテヤ5・16以下の御言葉、とくに19節の「肉の業は明らかです」以下に書かれていた、いわゆる「悪徳表」の内容を思い起こさなければなりません。あれらの“悪しきもの”も、わたしたちの内側には、たくさん潜んでいます。そのことを完全に否定できる人は一人もいないのです。

しかしまた、このように考えてくると分かるのは、このわたしという一人の人間の中には“善きもの”と“悪しきもの”との両方が共存している、ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの中身がすべて透けて見える、ということのすべてが悪いわけではない、と考えることもできるでしょう。わたしたちの内側にあるものすべてが悪いわけではないからです。「ほらほら、見て見て」と多くの人々に見せびらかしたいものも、わたしたちの内側には確かにあると信じることができるからです。

それこそがわたしの愛、わたしの喜びです。

わたしの内に神御自身が与えてくださった喜びは、たとえば、わたしの中で、わたしを抜きにして、神さまだけが勝手に喜んでおられるというようなものではありえません。

それは全くおかしな話です。プレゼントなのですから。神の喜びがわたしの喜びになるのです。

また、わたしの平和、わたしの寛容、わたしの親切、わたしの善意です。わたしの誠実、わたしの柔和、わたしの節制です。

そういうものを、わたしたちは、いわば先天的に生まれ持っている、と語ることについては、慎重でなければならないと思います。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。わたしたちの心の中に、生まれたときから良いものがある、ということは、絶対的に否定されるべきことではありません。

しかし、問題が起こるのは、むしろ、“生まれた後”でしょう。

「ほらほら、見て見て」と見せびらかしたいような、このわたしの内なる善きものを、見て見ぬふりをされる。全く評価してもらえない。「それがどうしたの?」と冷たくあしらわれる。「うるさいな!」と突き飛ばされる。

そのような積み重ねの中で、わたしたちは、次第に、わたしの内なる“善きもの”には意味も価値もない、と思い込み、わたしの外に追い出してしまおうとするのです。

けれども、また、ここに挙げられている“善きもの”を、パウロが「霊の結ぶ実」と呼んでいることが救いです。

なぜなら、それが人間の内に生まれる前から備わっていたもの、と言われているのではなくて、聖霊なる神の賜物である、と言われているかぎり、それは、まさに、あとから、外から、このわたしの中に入れ込まれ、混ぜ込まれた何かである、ということを意味する以外にないからです。

そうだとすれば、一度くらい失われても、いや、何度失われても、何度でも、詰め込み直すことができるものである、と信じることができます。

そうであるならば、わたしたちは、自分の中には“善きもの”がない、ということで、絶望すべきではありません。わたしの中の“善きもの”は、言うならば、「これから身につけていくことができるもの」であり、「いつでも詰め込むことができるもの」なのです。

だからこそ、わたしは、このわたしたちの小さな入れ物の中に、大いに、どんどん、大量の神の恵みを詰め込んでいきましょう、と先週申し上げたのです。

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る「ようにしましょう」。讃美歌をうたい、祈りましょう、と。

豊かに宿る「ようにする」のは、自分自身です。このわたしが、キリストの言葉を、自分の中に、たくさん詰め込むのです。それは自分の努力目標です。わたしのなすべき仕事です。これこそが、先週ご紹介しましたコロサイの信徒への手紙3・16〜17の真意なのです。

御言葉と讃美と祈りは、わたしたちの存在を支える生命そのものです。これらのものが失われると、わたしたちの存在は倒れてしまうのです。

豊かな神の恵みによって、このわたしが喜びに満ちあふれる存在になること。このことを禁じる掟は、どこにもない。

喜んで、楽しんで、礼拝して、讃美して、祈って、何が悪いのか、ということです。

このわたしが喜びの人生を送ることを、誰にも、何にも、邪魔させない!

これがパウロのメッセージです。

(2004年11月7日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年10月31日 (日)

「聖霊なる神の導き」

ガラテヤの信徒への手紙5・16~21

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

Chapel01_11「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

パウロは、ここまでのところで、救い主イエス・キリストを信じて生きる者たちには、神が「自由」を与えてくださる、ということを、語ってきました。5・1に「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と書かれています。

そして、今日の個所でパウロが書いていることは、そのさらなる説明です。「ひとが自由になる」とは、「何から」自由になるということなのか。それは要するに「罪を犯したい」という欲望や誘惑の束縛からの自由である、ということです。「罪からの自由」こそが救いです。救いとは、束縛からの解放、という意味を持っているのです。

救われる、ということは、しかし、そういう欲望や誘惑を全く感じないようになる、という意味ではありません。おそらく感じると思います。

イエス・キリストへの信仰を与えられ、洗礼を受け、キリスト者になり、教会のメンバーになり、何十年も教会に通い続けるとしても、感じ続けると思います。じつは、わたしたち自身が、毎日、そのような欲望を感じ、誘惑され続けているのだと思います。その種の試練や葛藤は、生涯続くのだと思います。そうではないでしょうか。

欲望や誘惑、試練や葛藤は、死ぬまで続く。だからこそ、わたしたちは、その戦いから降りることができない。気を抜くことができない。卒業することができないのです。

パウロは「霊の導きに従って歩みなさい」と書いています。ここで「霊」とは何のことでしょうか。続きに「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と書かれているのですから、ここで分かることは、「霊の導き」と「肉の欲望」は明らかに対立的な関係にあるということです。

そのことを、パウロは次にはっきり書いています。 「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

「自分のしたいと思うことができない」。パウロは、これと同じようなことを、別の手紙の中にも書いています。今日の個所の言葉によく似ている表現が出てくるのは、ローマの信徒への手紙7・18~20です。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。

「自分のしたいと思うことができない」とか、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とは、どのような状態なのでしょうか。何となく「壊れている」感じがしてきます。正常ではない感じです。

善いことをしたいという願いは、ある。その意志もある。しかし、それを実行することができない。

悪いことをしてはならないという教育を、受けた。その自覚があり、意志もある。それなのに、してはならないことを、ついつい、してしまう。

わたしたちの中に起こる試練や葛藤の様子は、まさにパウロが描き出しているとおりである、とわたしは感じます。パウロは二千年前の人なのです。そのパウロがわたしたちのことをよく知っている。なんでこんなに、この人は、このわたしの今の気持ちを見抜いているのだろうか、と思うほどです。

悪いことを、ついつい、してしまう。続けているうちに、やめられなくなる。ここで、どうやら考えられることは、やはり、わたしたちを悪事へと誘惑するものは、甘くて美味しい味がする、ということではないでしょうか。

しかし、その先は地獄です。底なし沼です。そのことを思い起こさなければなりません。

最近、本当にしつこいのが、電子メールによるいろんな種類の勧誘です。ご存じない方かもおられると思いますので少し説明しますと、わたしのメールアドレスのように、教会のホームページで公開してしまっているようなものは、確実に標的にされます。そのようなメールアドレスを自動的に探し出して集めるソフトがあるのです。

とにかく、いろんな種類の「勧誘」のメールが、毎日・毎日、数十通単位で送りつけられてきます。何を買えだの、何があるだの。女性のふりをして「わたしと付き合ってください」というようなのもあります。

真っ赤なウソです。ありえない。穴に落ちたら、その先は騙しと脅迫の世界です。

しかし、わたしたちには、時として、そのような言葉に甘く美味しい味を感じとってしまう瞬間があるのかもしれない、ということを疑ってみる必要があります。地獄の一歩手前で目が覚める。しかし、そのときは手遅れであった、ということが、ありうるのです。

「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」

ここでパウロが書いている「律法の下にはいません」の意味は、おそらく、「律法主義の束縛の下にはいません」ということです。律法主義は、端的に「罪」なのです。律法主義は、なんら律法そのものに忠実な生き方ではないのです。

むしろ、パウロは、「律法主義」を「肉の欲望を満足させること」へと結びつけています。とくにこの手紙の中でパウロが、「律法主義」の典型であるとして告発しているのは、「ひとが救われるためには、割礼を受けなければならない」とする教えでした。それは、自分の満足のために、自分の正しさを主張するために、しるしや証拠を欲しがっているだけなのだ、と言いたいです。

「しかし、霊に導かれているなら」と、パウロは書いています。「霊の導きに従って歩みなさい」と。この言葉と響きあうのが5・6の御言です。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

外から見えるしるしや証拠がある、ということで満足する生き方が、律法主義であり、割礼を受けることです。しかし、そのようなことは、問題ではない。信仰が問題である。愛が問題である。あなたの心の中にあるものは何か、ということが問題である。

ここで「霊」とは、神の霊、霊なる神、すなわち、聖霊なる神のことです。それ以外のことを考えることはできません。

聖霊なる神の導きが問題である。聖霊があなたがたのうちに注がれ、宿っているとき、あなたの中に信仰があり、愛があり、希望があり、そして喜びがある。そのことが問題である。割礼は問題ではない。

これがパウロのメッセージです。

「望む善は行わず、望まない悪を行っている」。この何となく「壊れている」感じ、正常ではない状態にあるとき、わたしたちの心の中に失われているものがある、と思います。それが、じつは信仰であり、愛であり、希望であり、喜びである。

心の中がケバケバしている。霊的に飢え乾いている。イライラしている。すぐ怒る。腹が立つ。破壊衝動が起こる。攻撃的になる。イヤミの一つも口にしたくなる。投げやりになる。すべてを投げ出し、投げ棄てたくなる。生きていくのが嫌になる。まさにそのようなとき、わたしたちは、聖霊なる神の導きに従っていないのです。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」

これは、言うならば、わたしたちを地獄に連れて行く誘惑の一覧表だと思っていただくとよいかと思います。「悪徳表」という呼び名もあります。

ですから、ちょっと試しに味わってみよう、などと思わないほうがよいです。すぐに中毒になります。怖いもの見たさというのも、危険です。怪しげな格好で近づいてきたことに気づいたときには、一目散に逃げるのが、正解です。後ろから追いかけてくるかもしれません。逃げましょう。そのときは逃げてよいし、逃げなければならないのです。

しかし、おそらく、逃げきれないときもあります。この種の欲望が、誰のせいでもなく、自分自身の心の中に起こってきたときです。

わたしたちは、この種の欲望を、心の中に、打ち消しがたく、抱え持ってしまうことがあります。毒の味に魅せられてしまうことがあります。さじ加減とは言いませんが、ある程度までは、お付き合いしなければならないときもあるでしょう。

そういうときには、どうしたらよいのでしょうか。わたしは、いつも思い起こす聖書の御言があります。コロサイの信徒への手紙3・16~17です。このことは、以前にも皆さんにお話ししたことがあります。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

キリストの言葉が「豊かに宿るようにしなさい」と言われている、この「しなさい」と言われていることを誰がするのかと言いますと、もちろん、「あなたがた」がするのです。このわたしが、するのです。

肉の欲望、罪への誘惑、毒の味、悪事への絶えざる関心と興味。このようなものが心の中を完全に満たしてしまわないように、別のものを、たくさん、大量に、心の中に入れていくことが必要です。そして、人生には、世の中には、もっと面白いことがある、ということを知る必要があります。

キリストの言葉が面白い。讃美歌が面白い。祈りが面白い!

“聖霊なる神の導き”に従って生きるとは、まさにそのようなことに他なりません。聖書を学び、讃美歌をうたい、祈りをささげる。この三つのことは、わたしたちが教会や家庭で、いつも、いつも、していることです。今日もしています。今もしています。明日もするでしょう。これからずっと、していくのです。

わたしたちの心は、小さい入れ物です。悪いことだけ考えていると、すぐに、それだけで一杯になってしまいます。良いことを考えましょう。

しかし、これは、いわゆる単なる「プラス思考」というようなこととは、違います。内容も次元も全く違います。自分の言葉で、人間の言葉で、自分自身に言い聞かせるのではありません。神の言葉で、キリストの言葉で、このわたしの心を満たすのです。「豊かに宿るようにする」のです。

また、自分ひとりだけだと思うと、誰も知らないうちに、悪いことに手を染めてしまうかもしれません。みんなで聖書を読み、讃美歌をうたい、祈りをささげましょう。教会に通いましょう。わたしのことを心配している仲間がいる。祈ってくれている友達がいる、ということに気づきましょう。

わたしたちが悪事を働いているときには想像力の欠如があるのだと、しばしば言われます。一般的には産んでくれた親や兄弟や親戚のことを忘れていると言うのでしょう。わたしたちの場合は、神さまのことを忘れていると言います。教会の仲間たちのことを忘れていると言うのです。

事実、そのときわたしたちは、聖書の御言を忘れ、讃美の楽しみを忘れ、祈りを忘れているのです。神の国の宴(うたげ)の喜びを、忘れているのです。

毒の味に魅せられてしまわないために、神の恵みを豊かに味わいつくすことが、必要なのです。

(2004年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年10月24日 (日)

「愛によって互いに仕えよ」

ガラテヤの信徒への手紙5・13〜15

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

Chapel01_10「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」

今日の個所で、パウロは、イエス・キリストによって救われた者たちに与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということについて書いています。一言すれば、「キリスト者の自由とは何か」ということです。

『キリスト者の自由』というタイトルの有名な書物があります。16世紀ドイツの宗教改革者であり、プロテスタント教会の歴史的創始者ともなりましたマルティン・ルターの書物です。この書物のテーマも、まさに「キリスト者の自由」、つまり、わたしたちキリスト者に与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということです。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」とあります。「自由を得るために」と訳されている言葉は、原文では「自由のために」と書いてあるだけです。「を得る」は翻訳上補われた言葉です。

「召し出された」の意味は「呼び出された」です。ちょうど、わたしたちに誰かから電話がかかってくるように、呼び出されること、コールされることです。パウロの言葉を最も単純に直訳しますと、「あなたがたは自由のために呼び出されたのです」となります。

神がわたしたちを呼び出してくださるのは、どのような仕方でか、ということについても、一言だけ申し上げておきます。

神は、わたしたちに声をかけ、わたしたちの名を呼び、わたしたちに使命を与えてくださいます。そのために神がお用いになる手段は、聖霊なる神のみわざ、とくに、神の恵みの手段としての教会の宣教(説教)です。神は、ご自身の御言葉を、イエス・キリストを通して、聖霊において、宣教(説教)という手段を用いて、わたしたちに語りかけてくださるのです。

それならば、わたしたちは、どこから呼び出されるのでしょうか。もちろん、わたしたちがかつて属していたところからです。「ところ」とは、場所・地域・団体・家族・組織・制度・体制などの一切を含む、非常に広い意味です。

そこは、どのようなところだったのでしょうか。もちろん、彼らを、そしてわたしたちを奴隷の軛につないでいたところです。パウロ自身とガラテヤ教会の場合の「奴隷の軛」とは、ユダヤ教的律法主義であった、ということを、これまで学んできました。

パウロ自身は、突然彼の目の前に、幻のうちに現れてくださった、イエス・キリストご自身の呼びかけに応えて、ユダヤ教的律法主義によって彼の心も体もがんじがらめに拘束していたユダヤ教団を捨てて、その束縛としがらみから脱出しました。

ガラテヤ教会の人々も、今度はパウロの熱心な呼びかけに応えて、パウロと同じように、ユダヤ教的律法主義の拘束の中から脱出しました。

イエス・キリストへの信仰が、彼らの人生を根本から変えていきました。そして、それによって、彼らは、全く自由になりました。それは完全なる自由です。ルターも『キリスト者の自由』の冒頭で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」と述べています(石原謙訳、岩波文庫、1955年、11ページ)。

「ただ」と、パウロは続けています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。

ここに出てくる「ただ」(モノン)の意味は、「ただし」とか「しかし」ではありません。「ただひたすら」の「ただ」です。「ただそれだけ」の「ただ」です。「あなたの選ぶべき選択肢、あなたの進むべき道は、ただひたすら、それだけです。ただ一つです」の「ただ」です。オンリーワンという意味です。

ですから、パウロが語っていることは非常に明確です。「自由を得るために召し出されたあなたがたの進むべきただ一つの道は、その自由を"愛によって互いに仕える"という、ただ一つの目的のために用いることだけです」と、パウロは書いているのです。この「ただ」は、あまりぼんやりと読まないほうが良いと思います。パウロは、ふらふらしていません。この「ただ」によって、事柄の白黒を、はっきり付けているのです。

キリスト者に与えられたこの「自由」は、ただひたすら、「愛によって仕えること」のために用いられなければならないのです。自由の目的は、はっきりしているのです。ぼんやりさせてはならないし、ごまかしてはならないのです。

「自由の濫用」などは、もってのほかです。そのようなことのために、イエス・キリストにおいて神が、あなたに自由を与えたのでは決してありません。この点は間違ってはなりません。

これこそがパウロのメッセージです。

言葉を変えて言いますと、父なる神がイエス・キリストにおいて、わたしたちに与えてくださったのは、「罪を犯してもよい自由」などではありえない、ということでもあります。わたしたちに与えられている自由は、そのような自由ではないのです。そのような自由なら、最初から「要りません」と、きっぱりと断らなければならないのです。

全く反対です。神が与えてくださる真の自由とは「罪からの自由」です。「罪を犯さないでも済む自由」です。「罪を犯したい」という思いからの解放です。

まだ明確な犯罪とは言いきれないが実際の犯罪につながる可能性が高い行為のことを、「虞犯(ぐはん)行為」と呼びます。まさにそのような、犯罪行為に至る虞犯行為そのものや、それへの誘惑からの解放です。

あるいはまた、すでに犯した罪そのもの、犯罪行為、再犯行為、罪意識、罪責の念からの解放です。誰かに罪を犯したことへの後悔や、誰かから罪によって傷を受けた悲しみや苦しみからの解放です。

神がわたしたちに与えてくださるのは、そのような意味での「自由」です。「罪を犯すために用いてよい自由」などではありえないのです。

続けて「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」とあります。これは、少し慎重に読みたい言葉です。と言いますのは、パウロはこのように書いていますが、イエスさまは、あれれ、たしか、これとは少し違ったことを言っておられたような気がするからです。

見ていただきたいのは、マタイによる福音書22・34以下の記事です。

ここでイエスさまは、「律法の専門家」と称する人から、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問され、「二つの掟」であるとお答えになっています。

イエスさまにとってこの「二つの掟」とは、よく知られていますように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟との二つです。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、イエスさまによると「第二の掟」です。つまり、律法全体を要約する掟は、一つではなくて二つである、というのが、イエスさまの教えです。

ところが、パウロのほうは、一つであると言っています。少し大げさにいえば、師弟関係の中に見解の相違がある、という感じです。ですから、この点は、やはり、かなり慎重に考えなければならないところでしょう。

それで、実際に調べてみましたところ、この件に言及している注解書が見つかりました。と言いますか、わたしがいつも参考にしている座右の書が、短い言葉ながら、きちんと説明しておりました(Vgl. P. A. Van Stempvoort, De brief van Paulus aan de Galaten. De Prediking van het nieuwe testament (PNT), G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1961, p. 174〜175)。

それによると、「律法に教えられているのは、イエス・キリストにおける神による、全世界に対する愛である」と言われています。その意味は、おそらく次のようなことです。

わたしたちに求められているのは、「神に対する愛」である・・・もちろん、そのとおりです。

しかし、わたしたちが愛すべき神とイエス・キリスト御自身が愛しておられるのは、わたしたちが生きているこの世界全体と、その中で生きているわたしたち自身である、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を愛しておられるのです。

わたしたちが向けるべき視線は、「神に対して」である・・・もちろん、そのとおりです。

しかし、わたしたちが見つめるべき神とイエス・キリスト御自身のまなざしは、「この世界と人類に対して」向けられている、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を見つめておられるのです。

神がわたしたちを愛してくださいます。そして、わたしたちは、その神を愛さなければなりません。しかし、「神を愛する」とは「神に従うこと」でもあります。そして、神に従うということは、神が熱いまなざしをもって見つめ、愛してくださっているこの世界と人類を、(神と共に)愛することでもあるのです。

「律法の全体は・・・隣人愛の戒めというこの一句において成就され、遂行され、全うされるのです。ローマの信徒への手紙13・8に『人を愛する者は、律法を全うしているのです』と書かれているとおりです。ここで考えられることは、いずれにせよ、隣人への愛は、神への愛から生み出されるものである、ということです」(ibid. p. 175)。

ですから、わたしたちは、次のようにも語ることができます。

わたしたちは、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ばなければなりません。しかし、神は、わたしたちを神御自身の栄光によって輝かせてくださり、わたしたちの存在を永遠に喜んでくださるのです。神の栄光の輝きがわたしたち自身の輝きとなり、わたしたちの輝きが隣人と世界を輝かせる光となるのです。

わたしたちのうちに時々起こるのは、「わたしは、神を愛することはできる。しかし、人間を愛することはできない」という思いです。

イエスさまの言われる「第一の掟」のほうは守ることができる。しかし、「第二の掟」は守ることができない、という思いです。

宗教的熱心はある。しかし、この世の事柄には関心を持つことができない、という思いです。

神との純粋で霊的な交わりは愛する。しかし、教会や社会の中での人間同士の“人間的な”お付き合いは、面倒くさいし、わずらわしいので、まっぴらごめんです、という思いです。

これは、わたしたちにとっては大きく強い誘惑になりうるのです。

このような思いは、とくに、教会の中で争いやいざこざが起こるときに起こりやすいものです。しかし、これは少し厳しい言い方ですが、悪い意味での律法主義の一種です。たとえば、パウロがかつて属していたユダヤ教的律法主義、とくにファリサイ派のグループの中にはこのような傾向があった、ということができます。

「神を愛すること」は大切です。しかし、一方的な宗教的熱心が「人間嫌い」の傾向をもたらすことがありうるのです。律法主義(りっぽうしゅぎ)とは、言ってみれば、一方主義(いっぽうしゅぎ)なのです。

このように考えてきますと、ここでパウロが「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟だけを強調して取り上げている意図は、このような過ちに陥ることを防ぎたいということではないか、と思われてなりません。

「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とあります。教会の中で、互いに愛し合い、仕え合うことをせずに、それどころか、互いにかみ合い、共食いし合うことがありえます。教会も人間の集まりですから、争いが起こるのを避けることはできません。悲しいことですが、これが現実です。

そのことを、パウロはよく知っています。よく知りながら、あえて、「隣人を愛しなさい」という人間関係の掟を強調しているのです。

この文脈で持ち出すと、「何があったのか?」と思われるかもしれませんが、先週の火曜日から金曜日までの四日間、日本キリスト改革派教会の第59回定期大会が行われました。本教会を代表して、佐藤長老とわたしが出席しました。

今年の定期大会は、比較的穏やかで、落ち着いた会議となりました。しかし、当然のことながら、異なる意見が激しくぶつかり合う場面もありました。毎度のことながら、本当に疲れる会議でした。

しかし、まさか、けんかするために、教会が存在するわけではありません。わたしたちが教会に集まっている目的は、互いに愛し合うためです。互いに祈り合い、仕え合うためです。お互いを傷つけあうためではありません。

パウロの心の中に、あなたがたは、イエス・キリストへの信仰によって、せっかく律法主義という「奴隷の軛」から自由にされ、喜びに満ちた新しい人生を始めることができたのだから、もうけんかはやめにしましょう、仲良くしましょう、という思いがあったに違いありません。

「互いに滅ぼされないように注意しなさい」。このパウロの忠告に、わたしたちは、素直に耳を傾けるべきです。

(2004年10月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年10月10日 (日)

「十字架のつまずき」

ガラテヤの信徒への手紙5・7〜12

関口 康

Chapel01_9「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」

「あなたがたは、よく走っていました。それなのに」と、パウロは言います。「いったいだれが邪魔をして真理に従わせないようにさせたのですか。」

このパウロの言葉の裏側には、ガラテヤ教会の人々をかばう思いがある、と言えます。あなたがたは惑わされているだけだ、と言ってあげている、という面があります。

しかし、本当のところを言えば、ガラテヤ教会の人々には全く責任が無い、というようなことは、ありえない話です。彼ら自身が、もう少し忠実にパウロの教えにとどまっていさえすれば、そのような問題は起こらなかったのです。

「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」とあります。「パン種」の意味は、ご存じでしょう。それ自体は小さくても全体に影響を及ぼす大きな力を持っているものについての例えです。しかし、ここでは悪い意味で使われています。

パウロは、これと同じ言葉をコリントの信徒への手紙一5・6にも書いています。この場合も「パン種」は悪い意味です。

イエスさまも「パン種」という言葉を悪い意味でお用いになりました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に、よく注意しなさい」(マタイによる福音書16・6)。

ふと気づかされたことがあります。「パン種」とは、一度練り粉の中に入ってしまったら、二度と取り除くことのできないもの、という意味があるのではないか、ということです。

たとえば、イエスさまは、「パン種を取り除け」とは言われませんでした。「注意しなさい」と言われただけです。"取り除くことのできないもの"だからではないでしょうか。

別の個所で、イエスさまは、似たようなことを、別の言葉で例えておられます。いわゆる「毒麦の例え」です(マタイによる福音書13・24〜30)。良い種の蒔かれた麦畑に、敵が来て毒麦の種を蒔いていった。実ってみると毒麦も現れた。毒麦を抜きましょう、という僕の言葉を主人が打ち消して「そのままにしておきなさい」と答える、あの例えです。

この場合も問題になっているのは、良いものの中に悪いもののが混ざっている、ということです。ただし、毒麦の場合はある程度見分けがつきますが、パン種の場合は全く見分けがつきません。放っておくしかありません。「気をつけること」のほかには、なすすべがないのです。

しかし、いずれにせよ問題となっているのは、良いものの中に悪いものが混ざっている、ということです。そして、わたしには、このことが、今日の個所でパウロがストレートに表現している怒り、ないし苛立ちの原因になっているのではないかと思われるのです。

それはどういうことか、もう少し説明が必要でしょう。なぜパウロは、怒っているのでしょうか。苛立っているのでしょうか。その理由は次のように説明できると思います。

それは、今やガラテヤ教会を惑わしているユダヤ教的律法主義というものは、じつは、そもそもパウロ自身が持っていたものであり、今も、そしておそらくこれからも、その中から完全には抜け切ることはできず、彼の中に混ざり続けていくであろうものである、ということです。

そして、そこにこそ、パウロの弱点があった、ということです。そして、その弱点は、パウロに敵対する人々にも知られていました。敵というのは、いつでも必ず、こちらの弱点を攻めてくるのです。それは、戦術的にも・戦略的にも正しい当然のやり方かもしれませんが、攻められる側としては、たまったものではありません。

そして、パウロは実際に、そこで追い詰められる。そこで苦しむ。そして、そこで腹を立てるのです。図星を当てられたときに、人は腹をたてるのです。そうでない場合には、痛くも痒くもないのです。

実際、たとえば、パウロ自身は、幼い頃に割礼を受けています。彼は、生まれながらのユダヤ人です。熱心なユダヤ教徒になり、熱心なキリスト教迫害者にもなりました。ファリサイ派の律法学者でもありました。これは否定しようもない厳然たる事実です。

また、もう一つ、もっと重大と言いうる事件がありました。それが、使徒言行録16・3に紹介されています。

「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを皆が知っていたからである」。

これは明らかに、パウロがキリスト者になり、伝道者になった後の出来事です。パウロ自身が弟子のテモテに割礼を授けた、というのです。「その地方に住むユダヤ人の手前」と書かれています。パウロは「ユダヤ人の手前」、つまり、ユダヤ人の目、人間の目を気にするがゆえに、自分の弟子に手ずから割礼を授けた、というのです。

そして、実際、どうやらこの事件をきっかけとして、ガラテヤ教会の中に「パウロは今なお割礼を宣べ伝えている」という噂が広がった、と考えられるのです。

11節にパウロが書いていることは、そのような背景を持っていると考えられます。“火の無いところに煙は立たない”のです。パウロ自身の側に全く責められるところが無かった、とは言い切れないのです。

ここでわたしに思い出されることがあります。

日本では一般的にも有名な内村鑑三氏は、ご承知のとおり、いわゆる「無教会主義」という立場を取りました。教会を否定する、というのですから、わたしたち教会の者たちとしては、立場が違うといわざるをえません。しかし、たいへん立派な方であり、わたしたちとしても尊敬すべきところの多い方であることは事実です。

その内村氏について、現在の無教会の指導者の一人から直接伺った話なのですが、内村氏は、じつを言うと、一度ならず、自分の弟子たちに洗礼を授けたことがある、というのです。

無教会主義と洗礼を授けることが原理的に矛盾していることは、明らかです。彼ら自身が洗礼を授けることも・受けることも拒否してきた歴史があるのです。しかし、実際の内村氏は、自分の弟子の数名に洗礼を授けた、というのです。

とくに興味深かったのが、内村氏が洗礼を授けた中の一人に、内村氏自身の実の娘さんがいた、というのです。その理由も聞きました。その娘さんが海外に留学することになったとき、海外でキリスト者として認められるためには洗礼を受けていなければ困る、という話になり、やむをえず洗礼を授けた、というのです。

こういう話を聞いてわたしたちが、「さもありなん」と言い放つとか、「やっぱり無教会主義には限界がある」というふうに断じたりすることは、事柄の取り上げ方としては、たいへん失礼な態度であると思います。内村氏としては、苦渋の選択という面もあったかもしれません。

しかし、それでもなお言わざるを得ないと感じることがあります。もし、その人が熱心に語ってきた主義・主張というものと、実際にその人が実践したこととが違っている、と見られてしまったときには、やはり、そのことについて、周りの人々に理解できる言葉で、きちんと説明することが必要である、ということです。それは誤解であるというなら、その誤解を解くために、公の場所で、きちんと語る説明責任がある、ということです。しかし、わたしは、内村氏によるそのような説明があったことを、寡聞にして知りません。

いわば(いわば、ですが)パウロも、内村氏と同じようなところに立たされた、と言えるかもしれません。内容的には異なりますが、状況は似ていると言えなくもありません。パウロの場合、他の人には「割礼を受けるべきではない」と語っておきながら、自分の弟子には割礼を授けた。あの人は信用できない、と言いだす人々が出てきたのではないでしょうか。

「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」

ここでパウロが書いていることは、明確です。このわたしが今なお割礼を宣べ伝えている、というのは全くの誤解である。もしそうであるなら、このわたしが今なお迫害を受けている理由が分からなくなるではないか、ということです。

ここで「迫害」とは、もちろんユダヤ教徒によるキリスト教徒に対する迫害です。これをわたしは、今なお受けているではないか。迫害を受けなくなるということは、ユダヤ人たちがパウロの存在を味方であると認めることを意味する。つまり、パウロがキリスト教の教えを捨てて、再びユダヤ教に戻ったと認めることを意味します。

わたしはそうなのか、と言いたいわけです。わたしはユダヤ教に戻ったのか。キリスト教を捨てたのか。そんなことはありえないことだ、と言いたいわけです。

わたしたちも、この日本の国の中で、とくに宗教という観点から、ものすごく悩む場面が今でもある、と思います。たとえば、葬式の場面しかり、お盆や正月の行事しかりです。しかし、今ここで、具体的な例を挙げていくことは控えます。

たとえば、そのような場面において、です。そこに集まっているのがみんなキリスト者ばかりである、というなら、なんと気楽なことでしょうか!しかし、実際にはそういうわけには行かないではありませんか!

実際には、いろんな宗教、いろんな立場や考えの人々がいます。そのような場面において、わたしたちが、それこそ「ユダヤ人の手前」というのと同じように、その人々の手前、周囲の人々の目を気にして、心にも無い宗教儀式に参加し、信じてもいない存在に向かって手を合せてみたり、拝んだふりをしてみたりしなければならないような場面が、全く無い、と言い切れるでしょうか。

しかし、そういうときに、手を合わせたから、お辞儀をしたから、だから、わたしはキリスト教を捨てたのか。仏教や神道の信者になったのか。このあたりのことは、時として、ものすごく難しい問題として、わたしたちの心を悩ませ、痛めつける問題として、襲いかかってくることがあるのではないでしょうか。

わたしは、この種の問題に明確で一義的な答えは無い、と考えています。パウロのように状況に応じて判断するという選択肢がありうる、と考えています。しかし、このようなことを、あまり開き直って言うつもりも、ありません。

パウロ自身は、自分自身がかつて確かに受けた割礼そのものを否定できたわけではありませんし、否定しようがありません。また、キリスト者になった後も、自分の弟子に割礼を授けました。

しかし、そのパウロが、断固として否定したことがある。すなわち、「割礼は救いのために必要かつ不可欠な条件である」というこのような考えを、パウロは断固として否定したのです。

ひとは、割礼を受けなくても救われる。割礼は、救いに至るための義務でも、責任でも、条件でもない。このようにパウロは語ったのです。

しかし、こういう考え方は、律法主義者たちには理解されないものです。パウロの立場を執拗に攻撃していた人々は、パウロが「割礼を受けるべきではない」と言ったとなると、彼は割礼そのものを否定しているのだ。ひいては、ユダヤ教の信仰そのものを否定し、結局はユダヤ人の存在そのものを否定しているのだ。だから、パウロはわれわれの敵なのだ、というふうに受け取るのです。このような三段論法こそが原理主義の特色である、と言えるでしょう。

しかし、実際のパウロは、もっともっと自由な人でした。イエス・キリストの十字架の福音によって自由なものにされていました。ひとが救われるために求められるのは、信仰だけである。問われるのは、これだけだ、と。

わたしが今なお割礼を宣べ伝えているなら、「十字架のつまずき」もなくなっていたことでしょう、とパウロは書いています。「つまずき」(スカンダロン)とは、スキャンダルの語源です。憤慨ないし激怒の対象、という意味です。

イエスさまの十字架に憤慨し、激怒するのは、もちろん、ユダヤ人たちです。しかし、なぜ彼らが憤慨し、激怒しなければならないのか。イエスさまを十字架につけて殺したのは、彼ら自身です。その彼らにとって、イエスさまこそが救い主であると語るキリスト教徒の言葉は、許しがたいものであり、憤慨と激怒の対象であった、というわけです。

このようことを、十字架の福音を、みんなの前ではっきりと語っている、このわたしパウロを差し置いて、「あいつはユダヤ教に戻った」などという噂を流すのは誰なのか。お願いですから、そのような中傷誹謗はやめてくださいと、言いたいのです。

「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」

ここでパウロは、この手紙の中ではおそらく最も過激な言葉を書いています。

わたしが実際に聞いた、この個所を説教された日本の有名な牧師が語った言葉を、今でも忘れることができません。「パウロが言っていることは、要するに、“根こそぎ切り取ってしまえ”、ということです」。

言ってみれば、それだけです。しかし、さらに調べていきますと、これは非常に痛烈で激しい皮肉であることが分かってきます。

旧約聖書の申命記23・2には、「去勢した者は主の会衆に加わることができない」ということが書かれています。そうだとすると、パウロの意図は、彼らは、自分の律法によって、自分自身が裁かれている、という意味になります。

また、別の解説によると、ここでパウロは、小アジア地方にあったとされる、キュベレという女神を祀っている大神殿に仕える宦官たちのことを考えているのかもしれない、と言われます。そうだとすると、彼らは、自分のユダヤ教信仰によって異教化している、という意味になります。

とはいえ、わたしたちまで、パウロのように、皮肉とか嫌味のようなことを、人に対して書き送る手紙のようなものの中に、勢いに任せて書き殴る、というようなやり方は如何なものかとも感じます。わたしたちは、こんなことまでパウロの真似をする必要はないでしょう。ただ、パウロの強い思いを読み取ることができれば、と思います。

(2004年10月10日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年10月 3日 (日)

「愛の実践を伴う信仰」

ガラテヤの信徒への手紙5・2〜6

関口 康

Chapel01_8「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

ガラテヤの信徒への手紙は全部で6章ありますので、残すところ2章分となりました。全体の3分の2をやっと読み終えたところです。5ヶ月間、ただひたすらこの手紙だけを読んできましたので、少しお疲れになったかもしれません。

わたしの予定では、今日を含めてあと7回、11月21日の日曜日まで、この手紙を読んでいきたい、と考えております。そして、11月28日が今年のアドベント(待降節)第一主日ですから、その日から、クリスマスの準備として、イエス・キリストのご降誕についての話を始めたいと願っております。ご理解とご協力をお願いいたします。

さて、使徒パウロは、この手紙の中で、わたしたちキリスト者は、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、そしてまた、キリストご自身へと結ばれる(結合される)ことによって、全く自由にされた者である、ということを、一貫して語ってきました。

そのことが、先週はあまり十分な仕方ではお話しできなかった、5・1にも繰り返されていました。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」

そしてまた、先週は「分からない、分からない」の一点張りで押し通して読み流してしまいました4・21〜31にも、最後に「要するに」と、パウロ自身が自分の語ってきたことを要約している個所がありました。「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」

ここから読み取ることができる、一つのことがあります。それは、パウロが「自由な身の女」と呼んでいるのは、じつは、イエス・キリストのことである、ということです。

もちろん、聖書を読むかぎり、イエスさまは女性ではなく、男性としてお生まれになりました。しかし、これは例え話です。男性であるイエスさまを「母親」として例えることには、いくらか違和感があるかもしれませんが、このあたりはあまり気にしないことです。

むしろ、ここで大切なことは、自由な母から生まれた者が、自由な子どもと呼ばれるのである、ということです。

自由な母が、自分の子どもを自由な人間に育てるのです。

自由な母は、自分自身が自由になったことを心から喜んでいるゆえに、自分の子どもがかつて自分が経験した不自由な人生に戻っていくことを、黙って見ていられないのです。

そして、もちろん、そのようなことを黙って見ていられないのは、キリスト者の産みの親であるイエス・キリストご自身だけではありません。いわば育ての親であるパウロも、黙って見ていられません。だから、パウロも言います。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

そして、もちろん、それはパウロだけの話でもありません。この点については、わたしたち自身も、同じです。最近ちまたで「ビフォー・アフター」という言葉を聞くことがあります。わたしたちにも、「ビフォー・アフター」があると思います。キリスト者になる「前」と「後」です。

ほとんど何も変わっていないようだ、とお感じになる方も、おられるかもしれません。もちろん、「違い」ばかりを無理に強調する必要はありません。

しかし、もし思い出していただけるものならば、ぜひ思い出していただきたいのです。おそらく、わたしたちのうちの多くは、「キリスト者になること」のために、激しい戦いや葛藤、あるいはまた、悶絶するような苦しみを味わい、しかし、それをたしかに勝ち取ってきた、という体験をしてきたのです。

わたしは、この松戸小金原教会に4月に転任させていただいて間もなくして、教会員の皆さんのお宅に訪問させていただきました。この秋には、客員や求道者の方々のお宅にも参りたいと願っておりますが、思うように事が運ばず、申し訳ない思いで一杯です。どうか、もう少しお待ちいただきたいと願っております。

しかし、まずは、教会員の皆さんのお宅に訪問させていただけましたことを、今は本当に良かった、と感じております。それは、やはり、皆さんの「生(なま)の声」を直接聞くことができたからです。いろいろな証しや、教会に対する思い、そして、率直なご意見を聞くことができました。

もちろん、皆さんからお話しいただいたことの多くは、わたしの胸の内にしまっておかなければならないことばかりです。しかし、本当にどなたも、率直に語ってくださいました。

そして、やはり、その中でとくに、皆さん自身が「キリスト者になること」のために、じつにさまざまな戦いや葛藤、痛みや苦しみを体験してこられた、しかし、それをたしかに勝ち取ってこられたことを、伺うことができたのです。

そして、まさにどなたからも伺うことができたことは、(神さまの前で証言いたしますが)、キリスト者になったこと、教会の交わりに加えられたことは本当に良かった、という喜びと感謝のお言葉でした。これは素晴らしいことです。

自分の人生そのもの、そして教会生活、信仰生活というものを、心から喜び、感謝することができる、というのは、素晴らしいことです。そうではないでしょうか。

そして、残念ながら、というべきでしょうか。わたしたちの人生には、少なくとも過去において、この人生そのものを、喜ぶことがも受け入れることもできなかった頃、というのが、たしかにあったのです。「ビフォー・アフター」の「ビフォー」です。

そんな昔のことは忘れた、と言われるかもしれません。しかし、おそらく、わたしたちは、このわたしの人生を十分な意味で喜ぶことができなかったのです。感謝をもって受け入れることができなかったのです。

ところが、まさにある日あるとき、たしかに何かが変わった。それ以前の生活との訣別といいますか、踏ん切りといいますか、新しい出発というべきものを、体験されたのです。

もちろん、わたし自身にも、そのような体験がありました。ただし、わたしの場合は、クリスチャンホーム育ちですので、キリスト者になる「前」(ビフォー)ということを、十分な意味で認識することができません。

しかし、ある日あるとき、救い主イエス・キリストというお方を、それ以前とは違った仕方で確信をもって受け入れることができたときのことを覚えています。そしてまた、「イエス・キリストを信じる信仰によって、自分の罪が赦された」ということを、真実として深く受け入れることができたときのことを覚えています。

そのような者として、わたしにも、パウロと同じ言葉を語る資格があると思っています。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。

元の木阿弥になってはならない。後ろを振り向いて、後ずさりしてはならないのです。

自動車で、今来たその道を戻っていくことを「逆走」といいます。逆走は、道路交通法違反の現行犯で逮捕されなければなりません。逆走は、いけません。後ろではなく、前に進んでいかなければなりません。

わたしたちに今すでに与えられている、救い主イエス・キリストを信じて生きる人生を、心から受け入れて、喜びと希望をもって、前に進んでいきたい。そのように願うものです。

パウロは、今日開いていただいた5・2以下にも繰り返し、キリスト者になった者たちは、もはや、割礼というものを受ける必要はない、ということを強調して語っております。

最初の2節に、「わたしパウロはあなたがたに断言します」とあります。3節にも「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います」とあります。

もっとも、ここで「断言します」とか「はっきり言います」というのは日本語としての翻訳上の強調であって、実際はそれほどのことが書かれているわけではない、と言えなくもないのですが、パウロの気持ちは、このとおりである、と言ってよいでしょう。

パウロは何を「断言し」、何を「もう一度はっきり言う」のか、といいますと、キリスト者になった者たちは割礼を受けるべきではない、ということです。

そして、パウロは「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」とまで言っています。口語訳聖書では「キリストはあなたがたに用のないものになろう」と訳されていました。さらに原意に即して訳すなら、「その場合は、あなたがたにとってキリストは、価値を失うことになるだろう」ということです。

キリストが「役に立たない」とか「用のない」とか「価値を失う」とは、どういうことでしょうか。

理解できない話ではないと思います。新共同訳聖書にも「あなたがたにとって」という言葉が正しく訳し出されています。あなたがたにとって、ということが強調されなければなりません。

なぜ強調されなければならないかと言いますと、キリストが「役に立たない」し、「用がない」し、「価値がない」と感じるのは、あくまでも、わたしたち側の「感じ方」の問題だからです。たとえわたしたちがキリストからどのような感じを受けようと、キリストご自身の価値が失われるわけではない、ということも申し上げておく必要があります。

宝石でも、豪勢な家屋敷でも、立派な自動車でも、それ自体が持っている価値と、それをわたしたちが「これは価値あるものだ」と感じるかどうかは別の問題です。

これから申し上げる言葉は、突然聞くとドッキリする言葉ですが、イエスさまがお語りになり、聖書に記されている言葉ですので申し上げます。「真珠を豚に投げてはならない」(マタイによる福音書7・6)。

価値あるものを、その価値が分からない者に与えてはなりません、というイエスさまご自身の教えです。その続きにイエスさまが言われたことは、こうです。「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(マタイ7・6)。

しかし、問題は、なぜそうなのか、です。なぜ、すでにキリスト者であるものが割礼を受けると、その人自身にとってキリストは、「役に立たない」・「用のない」・「価値のない」ものになってしまうのでしょうか。

この問題は、わたしたちにとって、すぐに理解できるというほど簡単なものではないかもしれません。

といいますのは、ほとんど確実に言いうることは、わたしたち21世紀の日本でキリスト者である者たちが、「割礼を受けるべきかどうか」という問題で悩むことは、ほとんど無い、ということです。

ユダヤ教それ自体の影響が、日本の中にはあまり無い、と言いうる状況にあることも関係しています。たとえば、もし日本国内の至るところにユダヤ教のシナゴーグが立ち並んでいる、というような状況でもあるなら、「割礼を受けるべきかどうか」ということが、わたしたち自身の問題になるかもしれませんが、実際にそういうことはありません。

ですから、つい、このような個所を、わたしたちとはあまり関係ない他人事のように読み流してしまう可能性があるのです。

しかし、この点は考え置くとして、わたし自身、今日のこの説教の準備のために、パウロの言葉を繰り返し読みながら、ふと気づいたことがあります。それは6節の御言の中に書かれている一つの点です。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

ここに、パウロは、はっきりと、「割礼の有無は問題ではなく」と書いています。これは別の読み方ができると思います。「問題は割礼の有無ではなく」、と。

つまり、今ここでパウロ自身が問題にしていることの中心にある事柄、核心的な事柄は「割礼を受けるべきかどうか」という問題そのものではないのだ、というふうにも読めるのです。

そうではなく、真の問題、本当の問題は、「愛の実践を伴う信仰があるかどうか」ということである、と。これが問題の核心である、と。

たしかに、「割礼を受けるべきかどうか」という問題は、今の日本では問題になりません。しかし、そのこと自体が問題ではない、と言われるなら、どうでしょうか。

「信仰があるかどうか」が問題である。「そこに愛の実践が伴っているかどうか」が問題である。こう言われるなら、わたしたちにも、他人事ではないでしょう。

「信仰がありますか。そして、愛がありますか」。

加えてパウロは「希望がありますか」と聞くかもしれません。さらに加えて「自由がありますか。そして、喜びがありますか」とも聞くかもしれません。

問われるのは、これらのことです。割礼は「問題にならない」のです。

(2004年10月3日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年9月26日 (日)

「自由なる生の喜び」

ガラテヤの信徒への手紙4・21〜5・1

関口 康

Chapel01_7パウロが今日の個所に書いている内容は、もちろん、一つのたとえ話です。少し難しい言葉を使わせていただくなら、「寓喩」(アレゴリー)と言います。

寓喩とは、聖書の中に書かれてある言葉について、「じつは、これは、こういう裏の意味が隠されているのです」というような仕方で、全く予想もつかない意味を説明してみせるとか、あるいは、論理的には必ずしもつながりがあるとは思えないところに真意を見出す比喩の方法、というふうに説明できるかもしれません。

ところで、通常の場合、たとえ話というのは、一般的には分かりにくいことを、できるだけ分かりやすく説明するために用いられます。しかし、どうでしょうか。今日の個所のたとえ話についてのわたし自身の率直な印象は、これは非常に難しい、ということです。はっきり言えば、今日の個所に書いていることが、わたしには、さっぱり分かりません。

胸を張って言うようなことではないかもしれません。しかし、いくつかの聖書注解書に当たってみましたが、どの本を読みましても、十分に納得できるように解説してくれるものは見当たりませんでした。聖書には時々、このような個所が出てきます。

しかし、この期に及んで、そのようなことを言っている場合ではないのかもしれません。分からないなりに読んでいくうちに、少しくらいは分かる部分が見つかるかもしれません。今日の個所の最初にパウロが書いていることは、これです。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか。」

これは、とりあえず何とか理解できるところでしょう。パウロは、「律法の下にいたいと思っている人たち」に向かって語りかけている、ということが分かります。

ここで「律法」は、特別な意味であると思われます。わたしたちは、聖書全体を指して「律法」と呼ぶことがあるからです。

しかし、ここで、パウロは、明らかに「律法の下にいたいと思っている人たち」を厳しく批判しています。もしここで言われている「律法」の意味が、わたしたちの持っているこの「聖書」のことだけであるならば、パウロもまた聖書の御言を宣べ伝える伝道者の一人であるわけですから、なんだか奇妙な話になってしまいます。「聖書の下にいたいと思っている人たち」が悪いのでしょうか。そんなことを、パウロが言うでしょうか。それはちょっと、ありえないことです。

むしろ、ここで「律法」とは、今日の個所の最後に出てくる「奴隷の軛」という意味で語られていると思われます。

「軛」というのは牛や馬の頸(くび)にかける横木のことです。「くび」にかける「木」だから「くびき」です。これを人間にもかけると「奴隷の軛」となります。総じて、自由を束縛する道具や手段を指します。しかし、今のわたしたちの国では奴隷制度というものは禁じられておりますので、「奴隷の軛」を実際に見たことがある人は少ないと思います。

それはともかく、ここでパウロが「律法」という言葉を「奴隷の軛」と全く同じ意味で使っていることは明らかです。しかし、そうであるならば、やはり、これは、わたしたちにとって非常に驚くべき言葉である、と言わなければなりません。聖書全体という意味でもありうる「律法」が、人の自由を奪う道具ともなりうる、とパウロは考えているのです。

しかし、わたしたちは、このことを、今開いておりますガラテヤの信徒への手紙の全体の文脈から全く切り離して考えることはできません。今日は、少しこれまでのおさらいをしておきたいと思います。

パウロは、この手紙をガラテヤ教会の人々に書き送りました。パウロは、ガラテヤ地方にしばらく滞在して福音を宣べ伝えたのち、別の地に移動し、新たな伝道を始めました。そのパウロが立ち去った後のガラテヤ教会の中に、「異なる福音」を宣べ伝える別の教師が現れ、その教師を支持するグループができてしまった、というわけです。

この教師が宣べ伝えた「異なる福音」の内容とは、一言で言って、「ユダヤ教的律法主義への回帰」というべきものでした。その人々は、ユダヤ人以外の異邦人たちが信仰を告白してキリスト者になることのために、洗礼を受けるだけでは足りない、と主張しました。旧約聖書に基づくユダヤ教の伝統である割礼をも受けなければならない、と言いはじめました。異邦人たちは、まずユダヤ人になりなさい。ユダヤ人になってから、キリスト者になりなさい、と言うのと同じことを、彼らは異邦人たちに強要したのです。

そして、そのような「ユダヤ教的律法主義」を強要する教師たちの主張に対して、事もあろうに、当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロまでもが同調しはじめました。そこに至って、これは全くとんでもないことだ、とパウロは怒りをあらわにしたのです。

洗礼を受けるだけでは足りない、という主張は、今のわたしたちの時代にも、いろいろと形を変えて、装いを新たにして、登場いたします。

わたしたち松戸小金原教会の歴史を考えていく中で決して忘れることができない出来事として、いわゆる「異言問題」というのがありました。具体的なことを申し上げるのは控えます。わたしは当時のことを正確に知っているわけではありません。いろいろと差し出がましいことを語るのは、慎まなければなりません。

しかし、一般論として「異言問題」というのは、基本的・本質的なところで、ガラテヤ教会の問題に通じるところがあるのです。

まず最初に、その人々は「水の洗礼」を受けるだけでは足りないと語りはじめるのです。「聖霊の洗礼」を受けなければならない。「聖霊の洗礼」を受けた者たちは「異言」というものを語りはじめるのだ。異言を語ることができないのは「聖霊の洗礼」を受けていない証拠なのだ、というふうな話に、必ずなっていくのです。

そこで起こる大きな問題は、わたしたちがキリスト者であるためには、信仰を告白し、洗礼を受ける、ということだけでは足りないという理由から、それ以外のいろんな条件がたくさん加えられていく、ということです。洗礼を受けただけの「偽物のキリスト者」とそれ以上の何かを持った「本物のキリスト者」という二種類のキリスト者という考えが出てくるのです。そのようにして、「教会の敷居」が、どんどん高くなっていく、ということが起こるのです。

しかし、それは違うのではないか、というのが、パウロの立場であり、信仰そのものでした。人がキリスト者となるために、洗礼だけでは足りず、割礼も受けなければならない、と言われることは、異邦人のための伝道者であるパウロの立場からすれば、「伝道の障害」以外の何ものでもありませんでした。

パウロにとっては、わたしたちがキリスト者であるために求められる唯一の事柄は、わたしたちの救い主イエス・キリストを信じることだけである。「なんだかんだ」という条件は、一切排除されるべきである、ということであったわけです。

そのことを、しかし、パウロは、ただ単に自分の信念であるとか、主義・主張である、ということだけで語ることは許されませんでした。牧師・説教者・伝道者の仕事は、自分の主義・主張を語ることではありません。聖書の御言に基づいて、真理を語ることです。おそらく、そのために、パウロは、今日の個所のたとえ話を書いているのです。

「あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか」とあります。もちろんここでパウロが言いたいことは明らかです。律法の下にいたいと思っているあなたがた。あなたがたが頼りにしている律法そのものが、聖書そのものが、あなたがたの主義・主張の根拠そのものが、あなたがたの主義・主張を否定していますよ、ということを言いたいのです。

このようなパウロのやり方は、間違いなく、論争的なかたちを必然的にとらざるをえません。ピリピリ張り詰めた雰囲気の中での厳しい言葉の応酬になります。こういうのは、本当に嫌なことであり、できれば避けたいことです。

しかし、大いに学びうることもあります。それは、教会の中にいろんな問題が起こったときに、わたしたちにできることは、とにかく徹底的に「聖書そのものを読んでいくこと」以外には無いだろう、ということです。聖書にどう書いてあるか。聖書が教えていることは何か。このことに、わたしたちは、常に立ち返らなければなりません。

とはいえ、もちろん、パウロにとっても、わたしたち自身にとっても、論争相手として登場する人々自身も、「わたしたちも聖書に基づいている」というふうに、必ず言います。解釈の違いである、というところで終わってしまうことが、しばしばです。

しかし、わたしは、「それでもよい」と思うのです。それでもよいから、とにかく聖書を読みましょう。聖書には何が書かれているのかということを、みんなで一緒に学んでいきましょう。ここに問題解決の糸口がある、と信じることが、わたしたちに許されている道なのです。

そして、その上でさらに申し上げておきたいことは、このような「聖書」の用い方こそが、わたしたちにとって最もふさわしい、ということです。わたしたちは、聖書の内容について自由に論じあってよいし、分からないことは「分からない」と言ってよいのです。

反対に、最も正しくない聖書の用い方がある、と思います。それがまさに「律法主義」です。聖書の御言を「奴隷の軛」とすることです。聖書の御言に基づいていると称して、わたしたちがキリスト者であるためにイエス・キリストを信じる信仰を告白すること以外のいくつもの条件を加えていくことです。「ああしろ、こうしろ」と無理難題を次々に積み上げて行くことです。しかし、わたしたちは、もっと自由であってよいのです!

今日の個所について、わたしに語りうるのは、この程度のことです。パウロが語っているたとえ話そのものは、正しく理解することが本当に難しいと感じます。

「アブラハムの二人の息子」とは、女奴隷の子イシュマエルと正妻サラの子イサクとの二人のことです。しかし、この二人の息子のどちらがわたしたちであり、もう一方が誰である、というようなことが書かれているのですが、それはなぜなのか、とか、それをどのように説明すればよいのかなど、考えれば考えるほど、さっぱり分かりません。

しかし、幸いなことに、パウロはこのたとえ話をしめくくるに当たり、「要するに」と、一言で要約してくれています。こういうのが有難いと思います。

「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

キリスト者の人生は、全く自由な人生です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、わたしたちを自由な身にしてくださったのです。

律法主義の罠に陥らないよう、お互いに気をつけたいと思います。

(2004年9月26日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年9月19日 (日)

「キリストのかたち」

ガラテヤの信徒への手紙4・19〜20

関口 康

Chapel01_6「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」

パウロは、今日の個所に、たいへん印象的な言葉を記しております。

「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」以前広く用いられていた口語訳聖書では、次のように訳されていました。「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」

ほとんど変わっていない感じですが、細かく見ればいくらか違いもあり、どちらの訳にもそれなりの魅力があります。しかし、今日は細かい話をするつもりはありません。

ここでパウロが語っていることは、要するに何なのか。このような、ごく大づかみな話をしたいと願っています。

ここには、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」、口語訳では「あなたがたの内にキリストの形ができるまで」、わたしは苦しんでいます、と書かれています。しかも、その苦しみは「産みの苦しみ」であると言われます。そして、その産みの苦しみを感じている「わたし」とは、もちろんパウロ自身のことです。

ここまでのところで明らかなことを、以下、三点にまとめておきます。

第一点は、パウロによると、イエス・キリストには「かたち」がある、ということです。

その「かたち」は、まさに「キリストのかたち」と呼ぶことができるほどの何かである。もちろん、それは目に見える「かたち」です。目に見えないものではありません。わたしたちの救い主は、目に見える「かたち」を持つ存在であられる、ということです。

第二点は、パウロによると、「キリストのかたち」ができる場所があるとしたら、それは「あなたがたの内」である、ということです。

ここで「あなたがた」とは、第一義的にはもちろん、ガラテヤ教会の人々です。しかし、彼らだけに限定される話ではありません。すべてのキリスト者の内に、「キリストのかたち」ができるのです。「心の内側に」というだけでは、おそらく足りないと思います。体の内側にも、わたしたち人間の存在そのものの内側にも、「キリストのかたち」ができるのです。

第三点は、パウロによると、「キリストのかたち」を「あなたがた」ガラテヤ教会の人々の「内」に形づくるのは、パウロ自身であるということです。

わたしが「産みの苦しみ」をする、と言っているのですから、そのように考えざるをえません。産みの苦しみというものを感じることができるのは、産む人だけです。産んだことがない人、産まない人が、産みの苦しみを感じることはありません。パウロが、ガラテヤ教会の人々の存在の内側に「キリストのかたち」を産むのです。それ以外のことを考えることはできません。

第一の、わたしたちの救い主イエス・キリストには、目に見えるかたちがある、という点から考えて行きたいと思います。まず、ここでパウロが言っている「かたち」の意味を考えます。

英語には「かたち」という意味の表現がいくつかあります。わたしたちが日常的によく使う言葉としてフォームとかスタイルとかタイプとかパターンなどがあります。「キリストのかたち」の場合はどれに当たるのか、と考えてみることもできるかもしれません。

しかし、わたしの答えは、どれか一つではなく、どれでもある、というものです。「キリストのフォーム」という意味もあるし、「キリストのスタイル」でもあるし、「キリストのタイプ」でもあるし、「キリストのパターン」でもあると申し上げておきます。

フォームとスタイルとタイプとパターンという四つの「かたち」を挙げました。これら四つに共通する点は、いずれも目に見えるものであるということです。その意味は、外面的ないし表面的な要素がある、ということです。自分だけが認識でき、他の人々には認識できないような、その意味で心の内側だけで表現しうるような「かたち」というよりも、むしろ、他の人々にこそ、第三者にこそ認識することができる外面的・表面的な「かたち」が、フォームであり、スタイルであり、タイプであり、パターンです。

もっと分かりやすく言い直す必要があるかもしれません。ここでわたしたちがぜひとも思い起こしたいことは、イエス・キリストというお方は、わたしたちと同じ人間の肉体を持っておられる神の御子である、という点です。この意味で、キリストは、わたしたちと全く同じ人間であられる、という点です。

わたしたちは、人間として、この地上の人生の中で、必ず、常に、ある種の「かたち」を持つ生活を送っています。砂を噛むような、とでも言うのでしょうか、大して面白くもない、ワンパターンな生活かもしれません。しかし、そうであっても、いえ、そうであるからこそ、わたしたちは、「パターン」という意味での「かたち」のある生活を送っていると語ることができるでしょう。

また、わたしたちは、人と付き合うときに、その相手をいろいろと分析しようとします。「あの人は、こういうタイプである。ああいう人に対しては、こういう付き合い方をしたほうがよい」というようなことを、必ず考えます。わたしたちは人から見ると、たいていの場合、どれかのタイプに属するようです。

そしてまた、わたしたちは、必ずや、何らかのスタイル、何らかのフォームを持つ生活をしています。この場合のスタイルとかフォームは、形式とか姿勢などの意味です。日本の中でわたしたちがキリスト者であるというとき、わたしたちは、明らかに、他の人とは少し違うスタイルやフォームを持つ生活を送っているはずです。日曜日には、朝早くから家を出て教会に行く。他の人々はそんなことをしていないようなことをしている。これは間違いなく、異なるスタイルないし異なるフォームを持つ生活です。

ここでパウロが「キリストのかたち」と呼んでいる場合の「かたち」の意味は、まさに今わたしが申し上げました外面的・表面的な意味でのフォームであり、スタイルであり、タイプであり、パターンであると説明することができます。

それは、別の言い方をするなら、新約聖書の最初に出てくる四つの福音書が描き出しているイエス・キリストの地上のご生涯には、まさに外面的・表面的な意味でのフォームがあり、スタイルがあり、タイプがあり、パターンがあった、ということでもあります。

ユダヤ教の安息日は土曜日ですから、みんなが会堂に集まるのは、土曜日です。そこでイエスさま御自身が、聖書の御言に基づいて説教をされる。また、イエスさまは説教だけをなさった方ではなく、もっと多くのことをされました。多くの人々と共に喜びを分かち合う、恵みに満たされた生活を送られました。

たとえば、そのようなイエスさまの人生そのもの、生き方そのものです。まさしくそのようなことを指して、今日の個所でパウロは「キリストのかたち」と呼んでいるのです。

ここで、第二の点に移ります。そのような「キリストのかたち」は、パウロによると、あなたがたの内に形づくられるものである、と言われます。これは、どういう意味でしょうか。

この文脈にあって、おそらく最も理解しやすいであろうと思われる表現は、「キリストの生活スタイル」という意味での「キリストのかたち」が、あなたがたの内にも形づくられる、という言い方です。

つまり、こういうことです。キリストの生活スタイルが、このわたしの生活スタイルになる。逆の言い方をするなら、このわたしの生活スタイルが、キリスト的な生活スタイルとなる。要するに、キリストに似たものになること、キリストの真似をすること、です。

十四世紀後半から十五世紀前半のドイツで活躍したローマ・カトリック教会の修道士であり、司祭にもなったトーマス・ア・ケンピスの名前は、日本でも多くの人々に知られています。この人の主著『キリストにならいて』(イミタチオ・クリスチ)の意味はキリストに似たものになることであり、キリストの真似をすることです。

イミタチオは、イミテーションの語源です。イミテーションというと、わたしたちは、すぐに「偽物」という言葉を思い浮かべてしまいます。しかし、トーマス・ア・ケンピスの場合のイミタチオは、決して悪い意味ではありません。良い意味で「真似すること」です。「まねび」とも言われます。しかも単なる真似でもありません。「信頼して服従すること」です。キリストの弟子になって、キリストの後ろからついて行くことです。

まさにこの「イミタチオ・クリスチ」、キリストの真似をし、キリストに似たものになること、そして、キリストの生活スタイルが、このわたしのものとなっていくこと、まさにこのことを、今日の個所でパウロが「キリストがあなたがたのうちに形づくられる」という言葉で、表現しているのです。

もちろん、ここに至って、改めて問うておきたいことは、はたして、わたしたち自身の生活スタイルは、本当に、キリストに似たものになっているだろうか、ということです。

それはかなり疑わしいと、きっと誰もが感じることでしょう。おそらくそれは感じてよいことですし、感じなければならないことであるとさえ言えるように思います。

その反対を考えてみるとよいのです。「わたしの生活は、キリストそっくりです」というようなことを、堂々と、胸を張って言い出す人がいるとしたら、どうでしょうか。「はたしてそれは本当のことだろうか」と疑う気持ちを、おそらく誰もが持つのではないでしょうか。

これは、ヒガミやヤッカミというような次元のことだけではありません。わたしの最も尊敬する一人の改革派神学者(A. ファン・ルーラー)が言っていることは、「キリストのかたち」の意味は、「謙遜であること」に他ならない、ということです。まことに神御自身の御子であられる方が、人となられた。ここに、キリストが示された謙遜、へりくだりの道があります。キリストに似ている、ということは、キリストと同じように謙遜であること、控えめであることに他ならないのです。

わたしはこの神学者の考えに、心から賛成します。そして、この意味で「わたしの生活は、キリストとそっくりです」と胸を張って言うことは、必ずしも「謙遜な態度」とはいえない場合がある、と申し上げておきたいのです。「キリストとそっくりです」と語るまさにそのことにおいて、キリストから最も遠ざかっている場合があるということを、覚えておかなければなりません。

そして、第三の点に移ります。パウロによると、あなたがたガラテヤ教会の人々の内にキリストのかたちを産み出すのは、他ならぬパウロ自身である。産みの苦しみを感じるのは、他ならぬパウロである、と言われている点です。

最初に触れましたように、新共同訳聖書では「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」とありますが、以前の口語訳聖書では「わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と訳されていました。「あなたがたを産む」というのと、「あなたがたの内なるキリストのかたちを産む」とでは意味の違いを感じます。

しかし、内容的には同じことです。パウロがそれを産み出すために苦しんでいるのは「あなたがたの内なるキリストのかたち」であることは、全く明白なことです。

しかし、ここで立ち止まって考えておきたいことがあります。それは、今さら、なぜ、それをパウロが産み出さなければならないのか、という点です。パウロはガラテヤ教会を離れた人間です。言ってみれば、その直接的な関係は終わっています。しかし、いまだに、なぜパウロが苦しまなければならないのか、という点です。

この問いに対して、分かりやすい答えは無いかもしれません。差し当たり、この場合の「キリストのかたち」の意味は、先ほどから申し上げているとおり、ガラテヤ教会の人々の生活スタイルがキリストに似ているものであるかどうかにかかっています。彼らの生活スタイルの中に以前にはあった「キリストのかたち」が今では見えなくなってしまった。このことに、パウロは責任を感じ、苦しんでいるのです。牧会者なら当然の悩みである、と言うべきでしょう。

「かたち」ということで、わたしの頭に思い浮かぶのは、プリンとかゼリーのようなものです。プリンやゼリーが「かたちあるもの」になるまでには、少しの間、じっとさせておく時間が必要です。しっかり固まらないうちに、ジャカジャカと、せっかちに動かしてはならないのです。みんな崩れてしまいます。すべてが台無しです。

わたしたちの内なる「キリストのかたち」ができる過程においては、牧師の果たすべき責任も大きいところです。一例だけ挙げておきますと、頻繁に牧師が交代しているような教会は、この「じっとしていること」が難しいと言えます。

パウロの場合も、同じでした。パウロが去った後のガラテヤ教会が乱れました。「異なる福音」を宣べ伝える教師とそのグループによって、かき乱されました。ガラテヤ教会は、できてまもない群れでした。産まれたばかりの赤ちゃんでした。しかし、せっかくパウロが宣べ伝えた福音と、ガラテヤ教会の人々の内に産まれてきた「キリストのかたち」が、ジャカジャカと動かす人々によって、崩れてしまったのです。

もう一度、あなたがたを産みたい。

あなたがたの内なる「キリストのかたち」を元通りに復元したい。

これが、パウロの切なる願いでした。

(2004年9月19日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年9月12日 (日)

「人の弱さを担う善意」

ガラテヤの信徒への手紙4・12〜18

関口 康

Chapel01_5「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします」。

「あなたがたもわたしのようになってください」。これは、パウロの他のいくつかの手紙(一コリント4・16、11・1、フィリピ3・17、二テサロニケ3・7)にも出てくる「わたしのようになりなさい」とか「わたしに倣うものになりなさい」と全く同じ意味で書かれています。なんとなく自信過剰な人の言いそうなことだ、とお感じになるかもしれません。しかし、決してそういうことではありません、と申し上げておきます。

「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4・7)と書かれていました。しかし、そのあなた、すなわち「神の子」とされたあなたが「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(4・9)と、パウロは問いました。その続きに「わたしのようになりなさい」と書かれているのです。

わたしは今や「神でない神々」の奴隷ではない。そのようなものの奴隷にはならないし、なりたくない。奴隷なんて、まっぴらだ。今、わたしは、全く自由の身である。あなたもわたしと同じように自由になったではないか。それなのに、なぜもう一度、逆戻りするのか。なぜ、不自由な人生に戻ろうとするのか。ぜひ、このわたしと一緒にこの自由を守り抜いて行きましょう。全く自由で喜びに満ちたこの人生を楽しみ続けましょう。どうか、わたしのように自由な者になってください。これがパウロの言葉の真意です。

ただし、これは、やはり、自分の生き方に自信や確信をもつことができる人だけが語りうる言葉である、ということは、おそらく事実です。今の時代、「自信たっぷり」というのは、あまり流行らないかもしれません。「人生いろいろ」と口を濁しておいたほうが無難かもしれません。しかし、真の神さまだけが与えてくださる自由なる人生は、わたしたちの大切な宝物です。それこそが、価値ある人生です。そのことを、できるだけ多くの人々に知っていただくことが、教会の伝道の目的です。

「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。

ここでパウロは、自分自身とガラテヤ教会の人々との間で過去に起こった一つの出来事を回想しています。パウロがガラテヤ教会の人々と知り合った、そもそものきっかけは何であったか、という話です。

そのことをパウロは、「この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と表現しています。弱くなったのは、パウロ自身の体です。彼の体が何かの病気に冒されたのです。そのことが「きっかけ」であると書いています。

おそらくパウロは伝道旅行の最中に病気にかかったのです。そして、休むためにガラテヤの町に立ち寄り、教会の人々に看病してもらったのです。そして、おそらく彼が看病してもらっている最中か、癒された後に、福音を宣べ伝えたのです。あなたがたガラテヤ教会の人々は、わたしパウロに対してとても親切にしてくださいました、と言っているのです。パウロは、彼らに心から感謝しているのです。

「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあった」とあります。これはどういう意味でしょうか。

ここで「試練」とは、誘惑されるという意味です。何に誘惑されるのでしょうか。ここでも考えられることは、真の神の子になる前の生活、「神ではない神々」の奴隷として仕えていた頃の生き方に逆戻りしてしまうことへの誘惑ということです。しかし、そういうことが、実際にあるのでしょうか。

その方は、まだ元気に生きておられますので、名前は伏せておきます。わたしの親しい人(年配の方)が、あるとき言いました。「わたしの牧師が病気で死ぬことは、ありえない」。まるで、牧師が病気にかかってはならないかのようでした。

しかし、そういう信仰というのが実際にはありうるのだと思います。この世の中には、あまり堂々と病気にかかってはいけない人というのがいるように思います。「人を助けなければならない人が、人に助けられてはならない」と言われてしまう人々がいるでしょう。その人が病気で苦しんでいる姿を他の人に見られることは「証しにならない」とか「つまずきになる」と言われることが実際にはあるのだと思います。そういうのは間違っている、と言っても仕方がないのです。パウロは、ガラテヤの人々に看病してもらっていたとき、そのあたりのことを、とても気にしていた様子が伺えます。

しかし、彼らは、パウロのことを、さげすんだり、忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、パウロのことを神の使いであるかのように、イエス・キリストであるかのように、受け入れることができました。パウロは、その日そのときの、ガラテヤ教会の人々の優しさ、温かさを忘れていません。

「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」

パウロの病気は何だったのかということが、しばしば問題になります。その答えの根拠として引き合いに出される個所の一つが、ここです。

ガラテヤ教会の人々は、自分の目をえぐり出してもパウロに与えようとした。それくらいに、彼らは、パウロのことを大切な存在として扱った、ということです。しかし、ここに「目」ということが書かれていますので、パウロの病気は、おそらく目の病気であったに違いない、と言われるのです。

ただし、これは決定的な答えではありません。いくつかの説のうちの一つにすぎません。

もう一つ、しばしば引き合いに出されるのはコリントの信徒への手紙二12・7の「わたしの身に一つのとげが与えられました」という言葉です。「目にとげがささった」と、無理に関連づける必要はないでしょう。「とげのごとく刺すような痛み」であると説明されます。神経痛のようなものではないかとか、精神的な原因から来るものではないかと説明する人もいます。

しかし、わたしは、とくに最近になって、だんだん分かってきたことがあります。それは、人の病気というものは、どこが悪いと一言で言えないほどに、複雑に絡み合っているというか、互いに関係しあっているらしい、ということです。

少し仕事をしすぎた。すると、目が疲れて、肩がこって、頭が痛くなって、背中も腰も痛くなって、足も痛くなって、そのうちお腹も痛くなって、熱も出てきて、ついに倒れてしまう。どこが悪いと、一言では言えないのです。

この機会に、いちおう、お話ししておきたいことがあります。

わたしの体の中には健康のバロメーターがあります。疲れてくると最初に痛くなるのが、3年前にヘルニアを発症した椎間板です。もちろん、目も肩などは、しょっちゅう痛んでいます。もう少し疲れてくると、13年前に発症した尿管結石が、ゴロゴロと活動を再開します。最後に親知らずが痛みはじめると、終わりです。抵抗力がだんだん無くなっていく様子がよく分かります。段階を踏んで、力尽きていきます。

16世紀スイスの宗教改革者カルヴァンも、病気で苦しんだ一人です。

カルヴァンは55才で亡くなりました。ものの本によりますと、カルヴァンは主著『キリスト教綱要』の初版を書いていた頃、「一睡もせずに夜を徹し、昼も食事をしないくらいに勉強に精出して」いたそうです(ベノア著『ジァン・カルヴァン』森井真訳、日本基督教団出版部、1955年、32ページ)。そして、晩年のカルヴァンは「偏頭痛と胃痛と肺結核、尿路結石、神経痛」を患っていたと言われます(久米あつみ著『カルヴァン』講談社、192ページ)。

先ほど、パウロが「わたしのようになりなさい」と言っていました。しかし、それは、わたしのように病気になりなさい、という意味ではありません。また、わたしたち改革派教会の者たちはカルヴァンを尊敬しますが、病気の数や種類まで、カルヴァンをみならうべきではありません。そういうことではないのです。

しかし、実際には、悲しいかな、牧師とか伝道者とか神学者などと呼ばれる人々の中に、考えられないほどの数や種類の病気を患ってしまう人々がいることも事実です。

とはいえ、わたしは、自分の不摂生の言い訳のようなことは言いたくありませんし、同僚の牧師たちをかばうようなこともしたくありませんし、そんなことはすべきではない、と思っております。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんと、謝罪したい気持ちがあるだけです。本当に、ただ申し訳ございません。

しかし、実際には、そういうときには本当に、教会だけが頼りです。わたしの話をしているわけではありません。パウロの話です。パウロが重い病気にかかったとき、心を尽くして優しく看病し、祈りをもって支えた教会の人々がいたのです。「人の弱さを担う善意」を持っていた人々がいたのです!

「すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵になったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。」

ガラテヤ教会の人々の心は、パウロが去った後、パウロから離れて行きました。本当に悲しいことです。しかし、パウロの悲しみは、単なる感傷ではありません。

パウロが宣べ伝えた「福音の真理」から彼らが離れていくことを、パウロは悲しんだのです。

(2004年9月12日、松戸小金原教会主日礼拝)

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