マタイによる福音書

2011年2月13日 (日)

「二人だけのところで」

マタイによる福音書18・15~20

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

この個所に書かれていることを一言でいえば、わたしたち自身も実際に体験することがある、教会の中でのキリスト者同士の人間関係上のトラブルに対して、わたしたちはどのように対処すべきか、ということです。つまり、それは要するに、教会の中での紛争処理の方法とはどのようなものなのか、です。その方法をわたしたちの救い主イエス・キリスト御自身が教えてくださっているのです。

イエスさまが教えてくださっていることを別の言葉で言い直しますと、教会内部の紛争の処理方法にはいくつかの段階があるということです。ここで紹介されているのは四つの段階です。第一の段階は個人的処理です。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)。第二の段階は少数者での処理です。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」(16節)。第三の段階は名前がつけにくいのですが、今は教会的処理と呼んでおきます。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」(17節)。第四の段階は除名です。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節)。

この中でも特に説明が必要なのは、先ほど名前がつけにくいと申しました、第三の教会的処理です。わたしたちが考えなければならないのは「教会に申し出る」とはどういう意味なのかということです。しかし、そのことについて詳しく論じる時間はありませんので、結論だけ言います。「教会に申し出る」とは「事を公にすること」とほとんど同義語だということです。それは「その事件について公の場で決着をつけること」と事実上同じです。何らかの情報が「教会」に知られるということは「世間」に知られることと大差ないのです。そこまで行くと、口止めしても無駄です。「教会」とはそういう場所であることを、イエスさまがご存じなのです。

そしてこの個所でイエスさまが示しておられる四つの段階の中で、最善の処理方法がどれなのかははっきりしています。最善はもちろん第一の方法です。「行って、二人だけのところで忠告しなさい」です。「行って」とありますが、この点は今日特に重要です。今はメールの時代です。しかし教会の中でのトラブルを解決したければ、顔を合わせて言えないようなことをメールで送ってはいけません。最善の方法は、相手のところに足を運ぶこと、そして、文字にも記録にも残らないように口頭で直接話すことです。

そしてイエスさまがおっしゃっていることで大事な点は、「二人だけのところで」とはまさに当事者同士だけで解決しなさいということです。それをわたしたちの教会の現実にあてはめていえば、何でもかんでも教会や教会役員に知らせる必要はないということです。逆に言えば、たとえそれが教会員同士の間で起こった問題であっても、小会や執事会がそのすべてを把握していなければならないわけではないのだということです。当事者たちがそれを「教会」に知らせるのは、イエスさまによると、第一でも第二でもなく、第三の段階なのです。

教会役員同士の仲が良いこと自体は、大切なことでもあります。しかし、教会役員が教会員の個人情報をすべて把握し、陰でこそこそ噂話をしているように感じられることを気持ち悪がる他の教会員がいることは事実です。私は牧師ですが、教会員の何もかもを根掘り葉掘り聞きたいとは思わないし、聞くべきでないと思っています。教会員の何もかもを牧師が知らなければならないわけではないからです。その事情は、長老も執事も同じなのです。

私がいつも考えさせられていることは、小会であれ執事会であれ、教会員一人一人のプライバシーに必要以上の興味を持ちすぎないほうがよいということです。わたしたちは、のぞき趣味に陥ってはなりません。他人の噂話が面白くて仕方がないようになってしまってはならないのです。教会の中には真面目な方が多いですから、わたしたちがあれこれ質問すると、一生懸命誠実に答えてくださる方が必ずおられます。しかし、何もかもすっかり聞き出してしまった上で、それでは小会は、執事会はその人に何ができるというのでしょうか。その人のためにお祈りするのは、良いことです。しかし、たとえば祈祷会のような場所で、自分の知っていることのすべてを、お祈りの中でみんなの前で暴露してしまうというなら、それは完全な間違いです。わたしたちの教会の祈祷会を個人情報の暴露大会にしてはならないのです。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)は、日本の教会の少ない人数の礼拝や諸集会の出席者たちを励ますために引用されることが多い御言葉です。しかしそれは、間違った引用であるとまでは言いきれませんが、この御言葉が語られている文脈とは何の関係もないという意味で、勝手な引用の仕方です。この個所でイエスさまが教えておられるのは、なんらかのトラブルが起こったときに、そのことを可能な限り「二人だけのところで」解決することの大切さです。騒ぎをむやみやたらに大きくしてはならないのです。「二人」またはせいぜい「三人」で、つまり、当事者同士で秘密裡に解決できることは解決すべきなのです。そのような方法でも十分に解決できるのです。それは決して、悪事を闇から闇へと葬り去ることではありません。「二人または三人」のところにもイエス・キリストが共にいてくださるのです。わたしたちのすべてを神が見ておられるのです。だから大丈夫なのです!

(2011年2月13日、東関東中会合同執事会総会開会礼拝)

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2010年10月17日 (日)

「今こそ、『命の価値』を考える」

マタイによる福音書6・25~34

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしなさい。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

今日は、毎年恒例の、松戸小金原教会の秋の特別集会です。といいましても、この教会の皆さんにとっては見慣れた顔の私がお話ししますので、どこも「特別」なことはありません。その点はどうかお許しください。今日のために、教会のみんなでこの町にチラシを三千枚配布しました。わたしたちの願いは、この町の人々にこの教会が存在する理由と意味を知っていただくことです。わたしたちはこの町の人々のために何とかお役に立ちたいと願っています。そのことを今日は「特別」に強調してお話しいたします。その意味での「特別集会」でありたいと願っています。

今日のお話のタイトルに「今こそ、『命の価値』を考える」と付けさせていただきました。「今こそ」のところに強調があります。最近わたしたちが知ったことは、この国の各地にいわゆる「消えた老人」という問題があったということです。「老人」という表現そのものは今では失礼なものかもしれません。また、その人々は決して「消えた」わけではありません。すでに亡くなっておられたのに、役所への届け出がなされていなかっただけです。しかしそのことによって、すでに亡くなっておられる方々の年金が遺族に不当に支払われていたということで、大問題になっているのです。

また、これもごく最近のことですが、生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子どもたちに食べさせることも飲ませることもせずに死なせてしまい、しかも部屋に閉じ込め、家の入り口にテープを貼って何日も放置したという悲しい出来事がありました。人の命を何だと思っているのかと腹が立つような事件でした。しかし、その親や家庭の事情を何も知らない私が、ひとりで腹を立てていても何の解決にもならないと思うと、虚しい気持ちにさせられました。

今はそういう時代であるとか、今より昔のほうがよかったというような言い方はしたくありません。昔はそうではなかったのでしょうか。昔は今ほど情報通信網が発達していなかったので、知らされなかっただけではないでしょうか。しかし今は、いろんなことが隠されないで明るみに出る時代になりました。それはわたしたちにとっての大きなチャンスでもあります。

わたしたちは、本当は見たくも聞きたくもないようなことを知るようになりました。しかし、わたしたちが何かを知るということは、知ったことについての責任が生じるということでもあります。わたしたちは高齢者や幼い子どもたちの命が軽んじられていることを知った以上、わたしたちにできる何かをしなければならないのです。

しかし、わたしたちにできることは何でしょうか。高齢者や幼い子どもたちが住んでいる家を一軒一軒回って、それぞれの家庭でその人々の命が重んじられているかどうかを調べることでしょうか。そういうことをしても許される人と、許されない人がいると思います。そういうことは役所の人や、場合によっては警察の人のすることです。一般庶民には手が届かないことです。このあたりで私などはすっかり諦め気分になってしまうのですが、知った者には責任があるのです。自分にもできることは何かを探さなければなりません。

それで、今日のタイトルを思いつきました。「今こそ、『命の価値』を考える」としました。かなり腰の引けた言い方であることは自覚しています。「考える」ことくらいはできるだろうというわけです。実際の現場に踏み込む仕事は役所や警察の人にお任せするとして、そういう立場にないわたしたちとしては、いま起こっている問題の本質は何かを一生懸命「考える」ことから始めるしかないだろうと思った次第です。

前置きが長くなりました。もう一歩だけ先に進みます。わたしたちが教会でいつもおこなっていることは聖書を読むことです。聖書は古い書物です。大昔の本と言っても構いません。こういうものをわたしたちは、毎週日曜日や水曜日などに教会に集まって、こつこつ読んでいます。聖書を読みさえすれば軽んじられている命の一つでも助けることができるのかと問い詰められると、答えられません。教会のことを悪く思っている人たちの中には、そういうことをはっきりおっしゃる方もおられます。

しかし数年前のことですが、私はある方の言葉に「救われた」という思いを感じたことがあります。その方は現在、千葉大学法経学部の教授をしておられ、東京の教会に通っておられるクリスチャンの方です。正確な時期を言えば、忘れもしない、2003年3月21日のやりとりでした。

その前日、3月20日にイラク戦争が始まりました。私はそのことを新聞やインターネットを通して知り、「この戦争は間違っている」と直感するものがあり、ものすごく焦るような気持ちになりました。実際に「人間の盾」となるためにイラク現地に出かけて行った人々までいるということも知りました。しかし私にはそのようなことができるわけではないと思い、そのことを苦にしていました。

その思いを私は、イラク戦争開始の翌日、その先生に伝えました。「戦争をやめさせるために『人間の盾』となりたいと自ら願い出る日本人もいれば、自分の子どもと平和に遊んでいる日本人もいる」。後のほうの「日本人」は私自身のことです。すると、その先生から次のような答えが返ってきました。「関口先生、それは、平和を『求めて動く』のか、平和を『味わう』のかの違いに過ぎず、いずれの場合にも平和という価値の大切さを前提にしたものではなかろうか……などと考えています」。

お名前を紹介してもよいでしょう。水島治郎先生という方です。東京大学の卒業生で、オランダのライデン大学への留学経験をお持ちです。年齢は私より二歳若い方です。オランダの政治システムについての研究を専門としておられるため、オランダの神学を少しかじっている私は今から8年くらい前に知り合いになり、それ以来、親しくしていただいています。

私は水島先生のお答えに感動し、また感謝しました。こんなふうに言ってくださる方がおられるということに感謝し、こういう考え方をしてもいいのだと知って感動しました。そして私は、そのとき同時に、これはどのような問題にも当てはまることであると確信するに至りました。そしてもちろん、今日の話にも当てはまることであると信じています。

どのように当てはまるのかと言えば、いちばん単純に言えば、水島先生の言葉の「平和」という字の部分を「命の価値」という字に置き換えることができるということです。次のとおりです。「命の価値を『求めて動く』のか、命の価値を『味わう』のかの違いに過ぎず、いずれの場合にも命という価値の大切さを前提にしたものではなかろうか」。

もちろん私は今、水島先生の言葉を引用することによって自分の無力さの言い訳をしたいわけではありません。水島先生も、そのような引用の仕方ならば間違っているとお考えになるでしょう。今日私が申し上げたいことは一つだけです。わたしたちは、命の価値を「考える」だけで何もしていないではないかということを苦にしなくてもよいということです。それは決して無駄なことでも虚しいことでもないということです。

もちろん傍から見れば、せいぜい脳みそを動かしているだけで、目と耳くらいは動いているかもしれないが、それ以上ではないというふうに見えるかもしれません。しかし、そのことが全く無意味なわけではないということです。命の価値を考えること、そして、そのことを考えるわたしたちが自分自身の命の価値を「味わう」ことを始めることができるならば、命の価値を「求めて動く」ことに匹敵するほどの何かを手にしているのだと信じてもよいのだということです。

そして、そのことならば、教会がいつもしていることだし、教会にもできることであると思います。「教会は何をしているのか。何もしていないではないか」と言われることを、私はひどく恐れているところがあるかもしれません。しかし、わたしたちが教会でいつもしていることの中に、ほんの少しでも「それは意味があることだ」と思ってもらえることがあるとしたら、うれしいことですし、そのために全力を注いでもよいと感じます。

わたしたちが教会でしていることは、先ほど申し上げましたとおり、聖書を読むことです。もちろんそこに賛美歌を歌うことと、祈りをささげることを加えなければならないことも分かっていますが、今日は割愛して、聖書のことだけに集中します。わたしたちは教会で、とにかく聖書を読んでいます。そして読むからには「読んでいることについて考えること」くらいは必ずしています。どれくらい「深く」考えることができているかは、人それぞれかもしれません。「私はちっとも考えていません」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、その方なりのことくらいは考えておられるはずです。まあ、これくらいにしておきますが。

そしてわたしたちが知っていることは、聖書の中に「命の価値」が強調されている個所はたくさんあるということです。聖書のすべてのページにそのことが必ず書かれてあるとまでは言えませんが、探すのに苦労はしません。今朝お読みしました個所も、聖書のなかに「命の価値」について書かれている代表的な個所であると言っても過言ではありません。

お読みしましたのは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお語りになった言葉です。このときイエスさまがなさったことは、一言でいえば比較です。イエスさまは、人間の命の価値と、食べ物や飲み物や衣服、あるいは空の鳥や野の花などの価値とを比較なさった上で、人間の命の価値のほうが高いではないかと語っておられます。

皆さんの中には、イエスさまがなさっている比較は間違っているとお感じになる方がおられるかもしれません。食べ物や飲み物や衣服のようなものと人間の命とが比べられて、人間の命のほうが大切であると言われても、そんなことは当たり前だし、どうでもいいことだと。

私は仏教をよく知らないので批判するつもりは全くありません。「あなたはキリスト教だから当然仏教には批判的なのだろう」と思われているかもしれませんが、私は、自分が知らないことについての批判はしません。ただ、時々出席する仏教の葬式の中で読まれるお経をじっと聞いていますと、人間と動物を比較した上で「人間のほうがましなので、ありがたい」という意味の言葉が出てくることに気づかされて、変な気持ちになることがあります。私の聞き違いかもしれませんので、もし間違いならばお許しください。次元の違うもの同士が比較されて人間のほうが上だと言われても納得できないものがあると、私も感じます。

しかしイエスさまがおっしゃっていることは、いま申し上げた意味ではありません。イエスさまは確かに、全く違う次元のもの同士を比較しておられますし、人間の命の価値のほうが上であるとおっしゃっています。しかし結論が違います。

イエスさまの結論は、次の言葉です。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(31節)です。この言葉を裏返して言えば、わたしたち人間は食べ物や飲み物や衣服のことで悩みすぎる傾向がある、ということです。それらのものの価値が、まるでその人自身の命の価値よりも高いものであるかのように。

ちょっと待ってください、よく考えてくださいと、イエスさまはおっしゃっているのです。イエスさまは食べ物や飲み物や衣服には価値がないと言われているわけではありません。そんなくだらないもののために悩むとはけしからんと、見くだしたり腹を立てたりしておられるわけでもありません。

もしそのような話であるとしたら、最初に触れました、親から食べ物も飲み物も衣服さえ与えられずに亡くなった子どもたちに救いはありません。また、わたしたちが毎日苦労して働いて得ている収入のほとんどすべてが食べ物や飲み物や衣服のために消えていくことの意味が分からなくなってしまいます。わたしたちは、くだらない、どうでもいいことのために働いているのでしょうか。そのようなことをイエスさまから言われたら、今すぐでも人生を辞めたくなってしまいます。

しかし、決してそのようなことではありません。イエスさまがおっしゃっていることは確かに比較です。しかし、その意味は、食べ物や飲み物や衣服の価値を貶めることではなく、人間の命の価値はこの上なく高いということだけです。そして強いて言えば、もし悩むなら、人間の命の価値のために徹底的に悩みなさいということです。そのことをおろそかにして、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と、そちらのほうばかりを悩むことは、本末転倒であるとおっしゃっているのです。

そしてイエスさまはもう一つのことを語っておられます。それは、空の鳥を養ってくださり、野の花を美しく装ってくださる「神」という方がおられるということです。わたしたちは日々忙殺されて、そもそも「空の鳥」や「野の花」のことが目に入っていないかもしれません。わたしたちは顔を上げ、大きく視野を広げて、ふだん目に入っていないものをじっと見つめてみる必要があるかもしれません。

なるほど、鳥や花は、人間と同じような意味で汗水たらして働いているわけではなさそうです。また、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと頭を悩ませているわけでもないでしょう。しかし、それにもかかわらず、鳥たちはあれほどまで自由に飛び回り、花はあれほどまで美しく咲きほこっているではありませんか。

もしそうであるならば、同じ「神」によって造られた人間のことも「神」が必ず自由にしてくださり、美しく輝かせてくださるのです。「神」がわたしたち人間のことを放っておかれるはずはないのです。そのことを信じなさいと、イエスさまがおっしゃっているのです。

ですから、イエスさまは空の鳥や野の花の価値をおとしめているわけではありません。「キリスト教は環境破壊の元凶だ」と言われることには納得できません。イエスさまがおっしゃっていることは、人間の命の価値はこの上なく高いということだけです。

しかし、そのことをわたしたちは信じることができるでしょうか。何を信じればよいのかといえば、何よりも先に、自分自身の価値を信じることです。わたしの価値、あなたの価値を信じることです。水島先生の言葉をもう一度お借りすれば、自分の命の価値を「味わう」ことです。それはわたしたちが自由に喜んで楽しんで生きることです。

そのことができるときに初めてわたしたちは、自分以外の多くの人の命の価値を「求めて動く」ことができるようになるでしょう。

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22・34、口語訳)と書かれているとおりです。

(2010年10月17日、松戸小金原教会 秋の特別集会)

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2008年7月13日 (日)

「喜びまで考えぬけ」

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マタイによる福音書14・13~21

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』イエスは、『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」

今日開いていただきましたのは、おそらく皆さまも繰り返し学んで来られた個所です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、五つのパンと二匹の魚をもって男性が五千人、女性や子どもたちを合わせればおそらく一万人くらいはいたでありましょう人々の空腹をたちどころにいやしてくださった、ひとつの奇跡物語です。

この出来事をイエスさまはまさに奇跡として行ってくださいました。そのことをわたしたちは信じる必要があります。しかし、この物語には、この点以外にも注目すべき豊かな内容があります。今日はその中のひとつを取り上げたいと思います。

イエスさまがお聞きになったのは、バプテスマのヨハネが殺されたという知らせでした。なぜヨハネが殺されなければならなかったのかをご説明する時間はありません。今考えてみたいのは、その知らせをお聞きになったイエスさまのお気持ちです。

間違いなく言えそうなことは、深く傷ついておられただろうということです。つらくて悲しい思いをもっておられたに違いありません。心も体も疲れ果てておられたでしょう。だからこそイエスさまは、「ひとり人里離れた所に退かれた」のです。

ただし、より正確に言いますと、「ひとり人里離れた所に退かれようとした」です。それは実現しませんでした。群衆がイエスさまを追いかけ、押し寄せて来ました。イエスさまは、おひとりになることができなかったのです。

しかし、イエスさまは本当に忍耐強くふるまわれました。だれよりも御自身がお疲れになっていたでありましょうのに、大勢の群衆を見て「深く憐れんでくださり」、病気の人をいやしてくださいました。イエスさまとはそういう方なのです。

イエスさまの周りには「群衆」がいました。それは非常に大勢の人です。わたしたちの仕事のなかで何が疲れるかといって、ひと相手の仕事くらい疲れるものはないと思います。相手が人間である。それぞれの人々にそれぞれの人生があり、苦労があり、考え方や価値観があります。それがまた一人一人違うのです。その一人一人の存在を受け入れ、理解し、助け、力づけること。これは重労働なのです。

イエスさまはその仕事を一生懸命に果たしてくださいました。そしていつの間にか日が暮れていました。しかもその場所は、イエスさまがそもそも「ひとり人里離れたところに退こうとされた」場所でした。繁華街ではありませんでした。そのため、弟子たちが提案したのは、群衆を解散させ、各人の夕食は各人で、村で買ってもらいましょうということでした。彼らとしては当たり前のことを言ったつもりだったと思います。

ところが、そのときイエスさまが弟子たちにお答えになったことは、おそらく弟子たちにとっては厳しいと感じる内容でした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」。

これがなぜ「弟子たちにとっては厳しいと感じる内容」なのでしょうか。ぜひ考えてみていただきたいことは、夕方になるまで「弟子たち」は何をしていたのだろうかということです。その答えは今日の個所には何も記されていません。しかし全く分からないわけでもありません。「弟子たち」は、イエスさまが一生懸命に働いておられたときに何もせずにぼうっとしていたわけではなかったはずです。

「弟子」の仕事は、イエスさまをお助けすることです。それ以外の何ものでもありません。イエスさまが一生懸命働いておられたとき、そのイエスさまをお助けする弟子たちもまた、一生懸命に働いていたに違いないのです。

考えられるのは次のことです。イエスさまとしては、そもそもヨハネが殺されたという出来事のなかで傷つき、疲れておられました。しかし、その御自分の心と体を鞭打って、群衆の一人一人を助ける仕事を果たされました。そしてそのときイエスさまの弟子たちも同様に、イエスさまと共に一生懸命働いて、心も体も疲れ果てていました。そのとき弟子たちは、おそらくほとんどダウン寸前だったのです。

ところが、その弟子たちに対してイエスさまは、群衆の夕食の準備を「あなたがたが」、つまり、あなたがた弟子たちがしなさいと言われたのです。

「いやいや、イエスさま、ちょっと待ってください! わたしたちも疲れているのです。わたしたちもボロボロです。そのわたしたちがどうして群衆の夕食の世話までしなければならないのでしょうか。そこまでサービスする必要や責任は、わたしたちにはないのではないでしょうか。サービス過剰ではないでしょうか。群衆たちはいわば勝手についてきただけではないでしょうか。自分の食べ物を買いに行くことは自己責任ではないでしょうか。ぜひ『どうぞご自由に』と言ってください。食べたい物を、食べたいだけ、どうぞご勝手に食べてもらったらよいのではないでしょうか」。

おそらく弟子たちは、そのように言いたかったのです。

ところが、イエスさまは、弟子たちをあえて酷使なさったのです。「わたしたちも疲れている」という文句を言わせなかったのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。そこまで世話をすること、すなわち、人々の心の世話だけではなく体の世話、食事の準備まですることが、あなたがた弟子たちの責任であり、使命でもあるということを、イエスさまは明らかになさったのです。

しかし弟子たちは、横暴とも感じられるイエスさまのご命令を前にして、明らかに抵抗しています。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。この弟子たちの言葉はイエスさまに対する抵抗の言葉として読むことが可能です。

弟子たちがイエスさまに提案したことは、群衆たちには「村に」食べ物を買いに行かせましょう、ということでした。ところが、イエスさまは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。その言葉は、弟子たちの耳には、明らかに「彼らの食べ物を、あなたがたが村まで行って買ってきなさい」と聞こえたはずです。

そんなことができるものかと、彼らは抵抗しているのです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」の「ここ」に込められている意味は、わたしたちは「ここ」から一歩も動きませんし、動けませんということです。「わたしたちだって一生懸命に働いたのです! わたしたちもボロボロです。群衆もお腹をすかしているかもしれませんが、わたしたちのお腹もすいています。イエスさま、これ以上わたしたちに何をさせようとなさっているのでしょうか。いいかげんにしてください」。彼らはこのように言いたいのです。

こういうのを今の言葉でいえば“キレる”というのです。弟子たちはイエスさまの言葉にキレたのです。「わたしたちはここから、もう一歩も動きません。ここにある、この五つのパンと二匹の魚、これで何とかできるようでしたら、どうぞ何とかなさってください。わたしたちはもう知りません」。これは一種のストライキです。座り込みのようなものです。横暴な命令にはこれ以上従うことができませんという、抵抗の姿勢です。

そのような弟子たちの態度をご覧になったイエスさまが遂に行ってくださったのが最初に申し上げた奇跡です。イエスさまは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡し、群衆に配らせました。それによってすべての人のお腹が満たされたのです。

この奇跡の意味は何でしょうか。もちろんいろんな読み方が可能でしょう。しかし私は今日、その中のひとつのことだけを申し上げておきます。それは、人々のお腹を満たすという仕事を弟子たちが引き受けないならば、すなわち、「そこまではわたしたちのなすべき仕事ではない」と彼らが拒否するならば、「その仕事をわたしがする」というイエスさまの態度決定の表われであるということです。弟子たちがストライキをもってその部分の働きを拒絶するならば、御自身ひとりでそれをするということです。

言い換えるならば、イエスさまのもとに集まった人々の心の世話だけではなく体の世話、たとえば典型的に「食事の準備」という点は、いつもイエスさま御自身と共に生きている弟子たちが本来果たさねばならない仕事であるということです。

ここまで申し上げれば、皆さまにはすぐにご理解いただけるでしょう。私が考えていることは、今日の個所に登場する「弟子たち」の姿は、わたしたち自身の姿、現在の教会の姿と重ね合わせて見ることができるだろうということです。この個所を読みながらわたしたちが考えなくてはならないのは「教会の役割と使命とは何か」という問題です。

もっとも私自身は、花見川キリスト教会の礼拝に参りましたのは今日が初めてであり、皆さんがふだんどのように活動しておられるかを全く存じません。皆さんへの批判や要望のようなことを申し上げる意図はありません。そういうことではないということを、ぜひ信頼していただきたいと願っています。ごく一般論としてお聴きいただいたいのです。

私が申し上げたいことは、教会の役割と使命は、人間の心に関わるだけではなく、人間の体にも関わるということです。このあたりから教会のみんなで一緒に食事をとる機会を増やすべきだという話題に切り替えても構いませんが、私が申し上げたいことはそのようなことだけではなく、もっと根本的なことです。

わたしたち教会の者たちが真剣に考えなければならないことは、信仰と生活の関係であり、教理と倫理の関係であり、神の御言葉と現実の関係です。教会が取り組むべき課題は、精神的なことだけではなく、肉体的なことでもある。生活の問題、倫理の問題、現実の問題は、付け足しのようなものではなく、本質的なものであるということです。それらの問題に取り組むことを、わたしたちは面倒くさがるべきではないのです。

教会がとことんまで追い求めてよいこと、追い求めるべきことは、わたしたちの「喜び」です。「喜びまで考えぬくこと」、すなわち、どうしたらわたしたちが「喜びに満たされた教会」になるのか、またわたしたちが生きている現実が「喜びにあふれたもの」になるのかを徹底的に考えぬくことが重要です。その際に重要なことは、「喜び」とは心の問題だけではなく、体の問題でもあるということです。

愚痴のようなことを言いだせば、きりがありません。愚痴はできるだけ抑えましょう。それはわたしたちに何の益ももたらさないでしょう。できるだけ楽しいことを考え、語り合いましょう。それが豊かな益をもたらすでしょう。

(2008年7月13日、花見川キリスト教会礼拝説教、東関東中会講壇交換)

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2008年3月23日 (日)

「十字架につけられたイエスは墓におられない」

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マタイによる福音書28・1~10

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

今日はイースター礼拝です。わたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする礼拝です。それを今日は昨年同様、召天者記念礼拝として行っています。ご遺族の方々が出席してくださっています。遠方からお集まりくださり、ありがとうございます。

また、先ほどは林昭子姉の洗礼式を執行することができました。林さんも二年半前に御主人・暁さんを亡くされました。林暁さんの洗礼式は、国立がんセンター東病院(千葉県柏市)の一室で行いました。葬儀は教会で行いました。それを機に昭子さんが教会に通うようになられ、そして今日、ついに洗礼をお受けになりました。林さん御夫妻を信仰へと導いてくださった神の大きな恵みを覚えて、心より感謝いたします。

イースター礼拝は、イエス・キリストの復活をお祝いする礼拝であると最初に申し上げました。しかし、イースター礼拝の目的はそれだけではありません。復活するのはイエス・キリストだけではありません。「キリストに属しているすべての人々」もまた、終わりの日に復活するのです!わたしたち自身も、イエス・キリストと共に復活するのです!

ですから、ここで重要なことは、イースター礼拝の目的は、イエス・キリストの復活をお祝いすることだけではないということです。今日わたしたちがお祝いしていることは、イエス・キリストが二千年前に死者の中から復活されたという歴史的事実だけではありません。わたしたちも復活するのだという約束と希望が、イエス・キリストの復活において与えられたことをも、お祝いしているのです。

キリスト教信仰によると、わたしたちよりも先に召された人々は、また戻ってきます。わたしたちもいつか、この地上の人生を終える日が来ます。しかし、また戻ってきます。この世界も、この地上も、終わりの日に回復されます。もう二度と会いたくないと思っていた人も、また戻ってきます。ですから、「ああ、あの人がいなくなってくれてホッとした」というような考え方は、わたしたちの信仰には合致しません。

なぜ合致しないのでしょうか。まさにイエス・キリストを十字架につけて殺した人々は、イエス・キリストがいなくなってくれてホッとしたのだと思います。彼らにとって都合の悪い話ばかりする人の口を何とかして封じ込めようとしたのですから。殺して死んで口を封じることができた。ああよかった。もう大丈夫。もう二度とあのイエスという男の顔を見ることもないし、あの男の声を聞くこともない。あのイエスはもう二度と会堂でも広場でも説教することができない。もう死んだのだから。いなくなったのだから。そのように考えて、彼らはまさにホッと胸をなでおろしたのだと思います。

しかし皆さん、本当にそのような結末で良いでしょうか。物陰でコソコソと悪いことをしたり、人前でいばり散らしたりしている人々が生き残る。多くの人々の前で、神の言葉に基づいて説教をしてきた救い主イエス・キリストが、死によって口を封じられる。そこに何か寂しいもの、物悲しいものがないでしょうか。

ところが、聖書の話は、そこで終わらないところに魅力があります。イエス・キリストは、死によって口を封じられてサヨウナラで終わりません。死人の中から復活して、再び説教をお始めになったのです。これこそが聖書の教えです。

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」

今日の聖書の個所に記されていることを「ここに書かれているとおりです。どうぞこのまま信じてください」と勧めても、おいそれとは行かないと感じる方は、おそらく多いだろうと思っています。婦人たちがイエスさまのお墓に行くと、タイミングよく「地震」が起こる。「天使」が登場する。その天使が墓の石を転がす。不思議の国のおとぎ話のようだと思われても仕方がないことばかり書かれています。

しかし、とにかく事実として起こったらしいことは、比較的はっきりしています。婦人たちがイエスさまの墓に行ったときには、墓の蓋の石が動いていたということです。墓の入り口は開いていたということです。その石を、とにかくだれかが動かしたのです。

また、それを動かしたのが誰かということも、明らかにされているわけです。「天使」が動かしたのです。しかも、その「天使」が、石を動かした後もその場に残っていて、婦人たちに言葉を語りかけてきたということも記されています。

「天使」の姿は婦人たちに見えたのでしょうか。稲妻のように輝く姿、雪のように白い衣を着ていたとあるわけですから、とにかくそこに何かが見えていなければ、このようなことが書かれることはなかったでしょう。

ですから、そこで起こった出来事は、「天使」が人間の目に見える存在として現われて、イエスさまの墓の前にあった重い石を物理的に動かしたということです。地震は、重い石を動かしたときの地響きだったかもしれません。

信じることができないという人は、どの部分を信じることができないでしょうか。「地震」でしょうか。「天使」でしょうか。これらの点が躓きの要素になるでしょうか。この個所に登場する「天使」は、人の目に見えているのですから。また「地震」は、人の体に感じられているのですから。超自然的な出来事は、何一つ起こっていないのです。

「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われたとおり、復活なさったのだ。』」

天使が、婦人たちに話しかけてきました。ここに至って、「この個所は絶対に信じることができない。天使が人間に話しかけてくるはずがない。そもそも天使など存在するはずがない」と、そのように思われるでしょうか。

そのようにお考えになる方がおられても構わないと私は思います。天使の存在を信じることができないというだけでしたら簡単に克服できる方法があります。目をつぶればよいのです。目をつぶって「天使」の語る言葉に耳を傾けてみてください。目をつぶりますと、だれが語っているかということが決定的な問題でなくなります。その代わりに、何が語られているかが問題になります。

ここで再び、林暁さんのことを思い起こします。目が全く見えない状態の中で私の語る言葉に耳を傾けてくださいました。林さんはまさか、私のことを「天使」であるとは思わなかったでしょう。しかし、私がどんな体つきをしているかとか、どんな服を着ているかというようなことは、林さんにとっては全く関係ないことだったに違いありません。

天使の存在を信じることができない人は、目をつぶってみてください。そして、そこで語られている言葉に耳を傾けてみてください。

「十字架につけられたイエスは墓におられない。復活なさったのだ!」

「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました。』婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」

ここに記されていることは、次の四つに分けて考えることができるでしょう。

第一は、婦人たちが天使のお告げを聞いたこと。

第二は、婦人たちがそのお告げを他の弟子たちに伝えようとしたこと。

第三は、しかし、天使のお告げを他の弟子たちに伝える前に、婦人たち自身がまず復活されたイエスさまに直接出会ったこと。その際、イエスさまは彼女たちに「おはよう」とおっしゃったこと。

第四に、婦人たちは復活されたイエスさま御自身から天使が告げたのと同じ内容の言葉を聞いたことです。その内容は「ガリラヤに行くと、そこでイエスさまにお会いすることができる」ということでした。

この四つの内容の一つ一つについて丁寧に見て行くと、それぞれ興味深い内容を明らかにしていくことができると思います。しかし、その時間は残っていません。最後の第四の内容だけを見ておきます。大切な点は、復活されたイエスさまと弟子たちが出会う場所が「ガリラヤ」であると言われていることです。なぜ「ガリラヤ」なのでしょうか。

「ガリラヤ」とは、イエスさまがエルサレムでユダヤ教の指導者たちと直接対決なさる前に、神の国の福音を宣べ伝えておられた広い地域を指しています。イエスさまがいつも笑顔で、多くの人々を助け、励まし、愛しておられた場所、それが「ガリラヤ」です。

そこに行けば、イエスさまに出会うことができる。十字架の上で罪人の身代りに死んでくださり、救いのみわざを成し遂げてくださったお方に出会うことができる。そしてそこでこそ、イエスさまは神の御言葉を語り続けてくださる。ガリラヤでイエスさまに助けていただいた人々は、希望を見出し続けることができる。

イエス・キリストを十字架につけて殺すことによって口を封じようとした人々の策略と野望はイエス・キリストの復活によって打ち砕かれたのです。「ああ、あのイエスがやっと死んでくれた。もう二度とあの顔を見ることもないし、声を聞くこともない」と安心した人々は、再び不安の中に置かれることにもなりました。

正しい人・善い人が殺されることを、間違っている人・悪い人が悔い改めも反省もせぬまま喜んで生きている社会が住みやすいでしょうか。それは、正しい人が語る言葉が暴力をもって封じ込められ、間違っている人の語る言葉がのうのうと蔓延っている社会です。それこそが現実であると言って納得できるものでしょうか。そういうことに、わたしたちが納得してもよいでしょうか。

聖書が教えるイエス・キリストの復活の真実は、そのような社会にノーを突きつけます。間違っている人・悪い人が墓の中に閉じ込めた救い主は、復活され、墓の蓋を開けてその中から出てこられました。どんな権力にも、どんな暴力にも屈することなく。

復活を信じるとは、いわばそういうことです。イエス・キリストの説教は、わたしたち人間にとって、いつも耳触りのよい、都合のよい内容であるばかりではありませんでした。人間に罪があるからです。あなたの罪を悔い改めること、そして真の神を信じ、あなたの隣人を心から愛すること、そのことをイエス・キリストは語り続けられました。

イエス・キリストの御言葉は、復活の出来事を経て、今も語り続けられています。

  永遠に生きておられるキリスト御自身によって、

  キリストの体なるこの教会を通して、

  キリストを信じるわたしたち一人一人によって。

どんな力も、それを妨げることはできません。

それこそが、今日のイースター礼拝において確認しておきたいことです。

(2008年3月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年3月16日 (日)

「十字架上で示された神の愛」

http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-03-16.pdf (印刷用PDF)

マタイによる福音書27・32~50

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

来週はイースター礼拝です。われらの救い主イエス・キリストが十字架上の死の苦しみを乗り越え、克服されて、三日目に復活されたことをお祝いする日です。楽しく過ごしてよい日です。しかし、イースター礼拝を前にしてわたしたちが直視しなければならないのは、イエス・キリストの十字架上の死の場面です。イエス・キリストは、間違いなく一度死の苦しみを味わわれました。死がなければ復活はありません。受難週を過ごさなければイースターは来ません。キリストが死んでくださったからこそ、キリスト者に新しい命が与えられたのです。

今日の個所に描かれているのはイエス・キリストを十字架につけた人々の残忍な行為の数々です。しかしまた同時に、その人々の前で示されたイエス・キリスト御自身の態度が描かれています。「もしわたしが同じ目に遭ったらどうだろう」と考えてみることは、この個所を読む態度としてふさわしいものです。もしわたしならば、とても耐えることができない。人間の忍耐の限界をはるかに超えている。そのように感じながら読むことが大切なのです。

「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」

ローマの兵士たちが、シモンにも十字架を無理に担がせたことは、考えてみると、これもやはり、キリストを苦しめるものであったことは明らかです。なぜでしょうか。それはキリスト御自身の立場に立って考えてみると分かることです。

救い主の仕事は人を救うことです。人を救うとは、苦しみや悲しみや痛み、そして罪の中から救い出すことです。簡単に言えば、人を楽(らく)にすることです。重荷を負って苦しんでいる人の背中や肩からできるかぎり重荷を取り去り、軽くしてあげることです。

ところが、兵士たちは、キリストの目の前で、キリスト御自身が背負っている十字架を、直接的には何の関係もないシモンにも背負わせました。人を楽にする仕事をしてこられたキリストの目に、御自身一人で背負ってこられた十字架を無理やり背負わせられて苦しむシモンの姿を見せつけることは、キリストの心を痛めつける行為であり、嫌がらせ以外の何ものでもありません。

「そして、ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」

兵士たちがキリストに飲ませようとした「苦いものを混ぜたぶどう酒」とは、痛み止めの薬の役割を果たすものであったと考えられます。それは彼らのキリストに対する憐みの行為であると見ることもできるかもしれません。あるいは、激しい痛みに苦しむ人間の姿は、それを見る者にも苦痛を与えるものです。彼ら自身がそれを直視することに耐えられなかった。だからこそ痛み止めの薬を与えようとしたのだ、と考えることができるかもしれません。

ところがキリストは、それを飲むことを拒否なさいました。「なめただけで」とありますのは、棒か何かで口の中に無理やり突っ込まれたからだと思われますので、正しい日本語に置き換えるとしたら、「なめさせられただけで」ではないかと思われます。

なぜキリストはそれを拒否されたのでしょうか。考えられることは一つです。キリストは十字架の上で味わわれるべき苦しみを、余すところなくすべて御自身の体と心にお引き受けになろうとされたのです。人から憐れまれることを拒否なさった、と言ってもよいかもしれません。あるいは、人々の目に御自身が味わっておられる苦しみのすべてをお見せになろうとされたと言うべきかもしれません。

そのことはまた、とりもなおさず、人間が犯す罪の大きさ、深さをすべての人々の前で明らかになさろうとされたということにもなるでしょう。目を大きく開いてこのわたしを見よ。わたしの苦しみこそがあなたがたの罪の現実そのものなのだ。そのようにキリストは、十字架の上で、御自身の身をもって示されたのだと考えることができるでしょう。
 
「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。」

兵士たちは十字架にはりつけにされたキリストの目の前で、「くじ」を引きました。これは当時の遊びです。激しく苦しんでいる人の前で遊ぶ。これもまた、キリストの心と体を痛めつけることになる行為と見ることができるでしょう。たとえば、この頃の政治家たちも、この種のことではしょっちゅう槍玉にあげられます。大地震が起こって避難している人々が大勢いるのにゴルフで遊んでいた。船が遭難して行方不明者がいるのに酒を飲んでいた。そういう態度を見ると、激しく腹を立てる人がいるのです。とても不愉快に感じる人がいるのです。

「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた。」

キリストの頭の上に掲げられた言葉が「罪状書き」として書かれたものであることも、キリストに対する侮辱そのものです。彼らの気持ちをあえて言葉にするとしたら、「こいつがユダヤ人の王なんだってさ、あはは」というくらいのところでしょう。学校のいじめの方法でよく知られているものとして、同級生の背中に「バカ」と張り紙をするというのがあるのとあまり変わりがありません。いずれにせよ人を馬鹿にし、笑い物にする行為です。

「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」

キリストの十字架は二人の強盗の間に立てられました。同じようなものとして扱われたわけです。そして実際、キリストは、まさに強盗が受けるのと同じ刑罰をお受けになり、多くの人々から激しく侮辱されることによって、地獄の苦しみを味わわれたのです。

「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから。』一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」

滑稽なことは、そこを通りかかった人々と、ユダヤ教団の指導者である祭司長や律法学者や長老たちが、同じようなことを言っているところです。指導的な立場に立ちながら、知性のかけらもない、恥を知らない人々の姿が描かれていると見てよいでしょう。

ただし、両者に共通している要素には注目すべき点があります。それは、通りがかりの人々が言った「自分を救ってみろ」、またユダヤ教団の指導者たちが言った「他人は救ったのに、自分は救えない」という点です。

これは注目に価します。彼らの言っている言葉の一部には真理があると、私には感じられます。彼らは、おそらく意図せずして、真理を言い当てているのです。

どの点がそうでしょうか。「自分は救えない」がそれであると思います。ただし、真理はこの言葉と全く一致しているわけではありません。真理は「自分は救わない」です。救い主の仕事は人を救うことだからです!人の重荷を軽くし、人を楽にすることだからです!人の重荷を軽くするとは、その人の代わりに自分が重荷を背負うことです。逆もまた然り。人を苦しめるとは、自分が背負っている重荷をおろして、人に背負わせることです。

2月17日の出来事があり、少し体力の限界を感じましたので、東関東中会の一つの委員会の仕事を降ろさせてもらおうと、委員長に相談しましたところ、「だめだよー」と言われました。「関口さんが辞めたら、私の仕事が増えるから」と。泣きそうな顔で言われたので辞めないことにしました。

単純すぎる説明かもしれません。しかし、わたしたちが味わっている苦しみとは、そのようなものであると思います。誰かある特定の人が大きな重荷を担ってくれているおかげで、楽をすることができる人々もいる。だれかが自分の重荷をすっかりおろしてしまえば、他の人にその重荷が回って来る。

救い主イエス・キリストは、本来ならば全人類が担うべき自分自身の罪の罰を、身代りに引き受けてくださいました。自分が楽をすることを、一切お考えになりませんでした。救い主は、自分を「救え」なかったのではなく、「救わ」なかったのです。人を助けること、人を楽にすることを、心から願われたのです。

このキリストの前で「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう」と罵るユダヤ教団の指導者たちの姿は、ぶざまです。彼らの関心は自分を救うこと、つまり、いかに自分の重荷をおろせるか、いかに自分が楽をするかということにしか無かったことが、図らずも暴露されています。人の重荷を背負いましょう、人を楽にしてあげましょう、ということには、これっぽっちも関心がない。要するに、自分のことしか考えていない、自己中心的で、自己愛のきわめて強い人々であったことが分かります。

自分を「救え」ないのではなく、自分を「救わ」ない救い主イエス・キリストの中に、真の神の愛が示されています。自分を犠牲にし、自分の心や体はボロボロにしながらも、世のため、人のために命を投げ出すイエス・キリストのお姿に本当の愛、真実の愛のあり方が示されているのです。

これは、わたしたちもできることでしょうか。イエス・キリストのように、わたしたちも生きることができ、死ぬことができるでしょうか。全く同じことはできない、ということを率直に認めるべきです。わたしたちはやはり、できれば自分が楽になりたいでしょう。だれかが苦しんでいても、見て見ぬふりをするでしょう。あるいは、苦しんでいる人の前でへらへら笑っていることもある。人を口汚く罵り、見くだした態度をとることもある。そしてまた、苦しんでいる人の前で「わたしもたいへんだ。あなただけが苦しいわけではない」と言いたくなることもあるでしょう。

これは、皆さんがそうであると言っているのではなく、私がそうだと言っているのです。自分にしか関心がない、自己愛の強い人間であるという点も、私自身のことを言っているのです。

しかし、それでよいと開き直るべきではありません。常に深く反省し、悔い改めるべきです。わたしたちはキリストと同じように生きることも、死ぬこともできません。しかし、キリストを模範にして生きること、死ぬことが、わたしたちに求められているのです。

(2008年3月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2004年10月17日 (日)

「本当の悩みを知る」

―子育て、家庭、職業、隣人愛の問題にもふれて―

2004年度 松戸小金原教会特別伝道集会

マタイによる福音書9・35〜10・15

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

Chapel02本日は、特別伝道集会です。大勢の方々にお集まりいただきましたことを、心から感謝しております。

今朝、皆さんに開いていただきました聖書の個所は、マタイによる福音書9・35〜10・15です。今日はこの個所を、皆さんと一緒に学んで行きたいと願っております。

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

これは、わたしたちの救い主イエス・キリストの活動記録の一部です。イエスさまが、いろんな町、いろんな村を、残らず歩き回ってくださったのです。そのとき、イエスさまは、何をなさったのか。大きく分けて二つあります。

イエスさまの仕事の第一は、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」と書かれていることです。これは、要するに、今ここでわたしが行っている「説教」という仕事です。「会堂で教え」とあります。ユダヤ人の安息日は、土曜日です。土曜日ごとに「会堂」に集まって礼拝が行われます。そこで説教が行われます。イエスさまは、いろんな町や村の会堂で、聖書に基づく説教をしてくださったのです。

イエスさまの仕事の第二は、「ありとあらゆる病いや患いをいやされた」と書かれていることです。「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とも書かれています。ここに「いやすこと」と「憐れむこと」という二つが書かれています。しかし、この二つは、少なくとも当時は、それほど違うことではなかったと思われます。この点は、もう少し説明が必要でしょう。

今の時代に「いやすこと」といえば、「病院の医師が治療によって患者の病気を治すこと」を意味します。「憐れむこと」とは、何でしょうか。今日の個所に書かれている元々の意味は、「同情すること」です。シンパシーを感じること、同情することです。それが、とくに宗教的な文脈では「憐れみ」という意味になります。

しかし、イエスさまの時代は、今ほどに専門分化されていたわけではありません。医者は医者、宗教家は宗教家の領分を守らなければならないというのは、ごく最近の話です。今の日本でも、田舎のほうに行けば、スポーツ用品店に大根やキャベツが売っていたりします。一人の人が何でもしなければならないということが、ありうるのです。

イエスさまの時代において、またイエスさまご自身において、「いやすこと」と「憐れむこと」の二つは、結局のところ、人の苦しみを和らげ、取り去るという点で共通する、一つの課題であった、と言えるのです。

このような働きを、教会は「牧会」と呼んできました。これはドイツ語のゼーレゾルゲの翻訳として使われてきました。ゼーレゾルゲとは「魂の配慮」という意味です。それが「牧会」です。イエスさまの仕事の第二の要素は「牧会」である、ということです。

この二つのわざがイエスさまの主な仕事でありました。そして、この二つのわざが同時に等しく重んじられるところに、イエスさまのみわざの本領が発揮されました。

イエスさまは「説教」だけをされていたのではありません。"魂の配慮"という意味での「牧会」をも、なさっていたのです。

この点は、わたしたちが、教会の存在理由について、また、牧師という人間の存在理由について考えるときに重要です。

わたしは、牧師という仕事を始めて14年目になります。その中で、時々、わたしは本当に誤解されている、と感じることがあります。

つい最近も、ありました。これは、教会の何人かの方々には、すでにお話ししたことです。

わたしは今年、小学校の父兄の立場で、松戸市の少年補導員の一人に加わることになりました。その活動をしていたときです。補導員のひとりの方が、「関口さんは、日曜日以外は、仕事をしておられないんですよねえ」と言われました。

わたしは、ただ笑うしかありませんでした。少しくらいの説明では、分かってもらえそうにありませんでした。「あはは、まあ、そのようなものです」と答えておきました。それ以上は言いませんでした。

でも、教会の皆さんは、分かってくださっています。牧師も結構忙しい、と。どこで何をしているのかは、よく分からないところもあるのだけれど、でも、何かものすごく忙しくしているようでもある、と。

そのような、まさに「何だ」と聞かれても「これだ」とはっきり答えるのが難しいような、微妙で・複雑で・デリケートな事柄についての配慮、まさに「魂の配慮」を行うことこそが牧師の仕事である、と申し上げることができます。ある人びとにとっては、たしかに、不可解で・得体の知れない存在かもしれません。

しかし、この点においては、イエスさまも、そうであった、と申し上げたいわけです。イエスさまは、二千年前のユダヤで働かれた、ひとりの牧師さんだったのです。そのように理解することができるのです。

もう一つ、牧師という仕事をしていて、事あるごとに、かならず質問されることがあります。「牧師さんは、どのようにして生活しているのですか」。もちろん、どのようにして稼いでいるのか、という質問です。この質問をなさる方の顔は、どなたも興味津々です。

そのような質問を受けるたびに、イエスさまはどうだったのか、を考えさせられます。イエスさまは、どのようにして生活しておられたのでしょうか。

じつは、そのあたりは、聖書には、あまりはっきりとは書かれておりません。しかし、間接的に分かることがあります。先ほどお読みしました個所の後半部分に、イエスさまが弟子たちに命じておられる内容が、それです。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。」

イエスさまの弟子として働く者たちは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい、ということです。このように言われるイエスさまご自身も、当然、同じように生きられたに違いないのです。

しかし、その代わり、というのは少し語弊があるかもしれませんが、イエスさまご自身も、イエスさまの弟子たちも、その仕事と生活を経済的に支援してもらえる人々を探し、その人びとに助けてもらっていたのです。

この点は、なかなか分かってもらえないところです。わたしは、今年3月までの13年間は、おもに田舎の教会で働いておりました。その中で時々困ってしまうことがありました。

牧師館には、教会の方々だけではなく、一般の方々が、突然「相談したいことがあります」と訪ねてこられることがあります。そして、話を聞くと、その帰りがけに、お金が入った封筒を渡され、「話を聞いていただいたお礼です」と言われるのです。「いただけません」と丁重にお断りするのですが、必ず押し問答になり、無理やり置いて行かれるのです。そういうものだ、と固く信じておられるのかもしれません。

しかし、これは本当に困ることです。「ただで与えなさい」というのがイエスさまの命令だからです。

ただし、牧師たちは、まさか、かすみを食べて生きているわけではありません。教会が十分な生活費を用意してくださいます。食べ物や着る物に困ったことは一度もありません。ですから、どうか皆さんには、間違っても、そのような封筒を持って来られないように、お願いいたします。

なぜお願いするか、です。大げさでも何でもなく、牧師というわたしたちの仕事の本質ないし根幹にかかわる事柄だからです。まさに、この「ただで与える」という点が貫かれているかどうかということが、教会と牧師の存在理由そのものにかかわっているからです。

考えてみていただきたいのです。おそらく今ここに集まっているわたしたちの多くが、かつてそうだったのではないでしょうか。初めて教会を訪ねようと思い立ったとき、また牧師に相談を持ちかけようと考えたときのわたしたちは、どんな状態だったか、です。

もちろん、いろんなケースがあるでしょう。しかし、多くの場合、多くの人々は、そのとき、すべてに行き詰っているのです。まさに「万策尽きた」ときに、ひとは教会を訪ね、牧師を訪ねるのです。神を求め、宗教を求めるのです。

今日の聖書の個所の全体を見渡していただきますと、ここで分かることは、イエスさまが十二人の弟子たちをお選びになり、世の人びとを助けるために派遣された最も直接的な理由は何であったか、ということです。

それは、先ほども読みましたが、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9・36)というこの点です。ひとえに、この点です!

まさにイエスさまは、「弱り果て、打ちひしがれている群集」に対して深く同情されたゆえに、彼らを何とかして助けるために、十二人の弟子たちを派遣されたのです。

ですから、逆に言えば、もしそこにそのような「弱り果て、打ちひしがれている群集」がいなかったとしたら、イエスさまが弟子たちを派遣する理由も無かった、ということになります。

しかし、実際には、そういう人々は、たしかにいました。そして、もちろん、今でもいます。たくさんいます。わたしたちの身近なところに、あふれかえっています。いなかったとしたら、などというような仮定の話は、全く意味の無い空想にすぎません。

そして、そのような人々を助けるために、イエスさまは、かつて弟子たちを派遣されましたし、今も派遣され続けているのです。そして、教会と牧師は、その人々を助けるために、ただで与えること、そしてこのわたしの命をかけてすべてを与えなければならないのです。与えなければならないのであって、奪ってはならないのです。

気になることがあります。それは、先ほどの9・36にある「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て」という一句です。しかし、これは、考えてみれば非常におかしいことです。困ったことです。なぜなら、その直ぐ前に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え」と書いてあるからです。

なぜおかしいのか。なぜ困ったことなのか。それは、この個所を読む限り、イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群衆」が住んでいた町や村には「会堂」が存在した、ということが、はっきりと書かれているからです。

この「会堂」ということで、単なる宗教的な施設や建物だけを想像するのは、おそらく間違っています。少なくともその建物の中に、そこで働く宗教家たちもいたのです。当時のユダヤ教の律法学者、祭司長、長老たちは、会堂を中心に活動をしていました。その人々の宗教活動そのものが「会堂」という言葉に含まれているのです。

ということは、何を意味するのか。イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群集」には「飼い主」であるべき人びとがいた、ということです。「飼い主」は、存在しなかったのではなく、存在したのです。それなのに、彼らは「飼い主のいない羊のようだ」とイエスさまはご覧になったのです。

これは明らかに、当時の宗教家たちに対する激しい批判の意味が込められています。はっきり言ってしまえば、会堂は、そして会堂の住人たちは何の役にも立っていないではないか、ということです。「弱り果てて、打ちひしがれている」人々の助けになっていないではないか。彼らの霊的なニードに応えていないではないか、ということです。これはわたしたち教会に対する厳しい問いかけでもあります。

そして、ここでもう一つ考えられることは、このときイエスさまは、まさにそのいわば「役立たずな」会堂と宗教家たちの代わりに、十二人の「役に立つ」弟子たちをお選びになり、派遣されたに違いないのだ、ということです。

そして、とくに注目すべきことは先ほどの件です。「ただで与えなさい」という問題です。

考えられることは、当時の宗教家たちが、宗教を悪い意味での商売道具とし、私利私欲を求めることに熱心であり、目の前で困っている人びとを助け起こすことには少しも関心をもっていなかったのではないか、ということです。もしそうだとするならば、「ただで与えなさい」というイエスさまの命令には、当時の堕落した会堂と宗教家たちへの痛烈な批判が含まれていた、と考えることができるのです。

そして、もしそれが真実なら、ここにこそ、人びとの「本当の悩み」もあった、ということを考えざるをえません。

たとえば、子育てに行き詰まり、家庭生活や職業に行き詰まり、そして人生そのものに行き詰まってしまった人びとがいる。そして、いわば最後の最後に、教会に行く。しかし、そのとき、教会が役に立たない。宗教が役に立たないと感じる。そのときには完全に絶望するしかありません。そのとき、ひとは、本当の意味で行き場を失ってしまうのです。

「本当の悩み」とは、最後の最後に、心から信頼して相談できる相手がいない、ということではないでしょうか。助けを求めた人を信頼して相談したとき、与えてくれるどころか、奪われた。そのとき、ひとは、心の底から「神に見棄てられた」と感じるのです。

しかし、反対のことも言えます。もし「本当に役に立つ人々」が、助けを求めている人々に「ただで与える」ことを始めるならば、あるいは、「ただで与える、本当に役に立つ人々」がこの世界の中に増えていくならば、この世界全体が、真によきものへと変わっていくでしょう。

教会とは、地上において、そのことを追求する団体です。わたしたちは、まさにこの「本当に役に立つもの」になりたい。そして、「ただで与えるもの」になりたいのです。それこそがイエスさまが教えてくださった「愛」のかたちである、とわたしたちは信じています。

時間が無くなりました。この続きの部分は、午後の集会の中で、わたしの家内が話してくれると思います。打ち合わせもきちんと出来ております。夫婦で力を合わせて、午前と午後で一つの話になるように準備しましたので、わたしの話は、ここまでにします。

最後に一言だけ申し上げます。

困ったときには、教会に来てください。牧師館を訪ねてください。そして、何でも相談してください。十分な意味で役に立てないかもしれませんが、できるかぎりのことをさせていただきます。

その際、何も持ってくる必要はありません。とくに、お金の入った封筒は、謹んでお断りいたします。

わたしたちは皆さんの助けになりたいだけです。お役に立ちたいだけです。必要なものは、すべて神さまが満たしてくださるのです。

(2004年10月17日、松戸小金原教会特別伝道礼拝)

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2004年8月29日 (日)

「献身の意味―何のための人生か―」

マタイによる福音書9・35〜10・15

2004年度 東関東地区講壇交換説教

関口 康

Candle_2松戸小金原教会の関口です。今朝、新浦安伝道所の皆さんと共に礼拝をささげることができます幸いに心より感謝しております。よろしくお願いいたします。

今朝開いていただきました聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書9・35〜10・15です。少し長めに三つの段落を続けて読んでいただきました。まず最初に、この個所に何が書かれているかを申し上げたいと思います。

まず第一番目の段落に書かれていることは、わたしたちの救い主イエス・キリストが飼い主のいない羊のように弱り果てている群集の姿をご覧になったとき、深く憐れまれたということです。

続く第二番目の段落に書かれていることは、イエスさまがそのように困っている人々を何とかして助けるために十二人の弟子たちを特別にお選びになり、お遣わしになったということです。

そして第三番目の段落に書かれていることは、イエスさまがその十二人の弟子たちを派遣するに際し、非常に具体的な内容のアドバイスをお与えになったということです。ここにはイエスさまの弟子としての生き方が記されていると言えます。

しかし、今朝わたしがまず最初に申し上げたいことがあります。それは、この三つの段落に書かれている内容は、いわば当然のことながら、互いに深い関係を持っているということです。そして、この三つの段落の関係をよく理解することが、今日読んでいただきましたこの個所全体の内容を正しく理解するために重要であるということです。

それはどういうことかについてもう少し説明が必要であると思います。たとえば、今日の第二番目と三番目の段落にはイエスさまの十二人の弟子たちの派遣という出来事が記されているわけですが、その派遣の意味と目的は何かということを正しく理解するためには、第一番目の段落の内容をよく見る必要があるということです。

そして、その場合わたしたちがよく見る必要があるのは、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」というこの御言です。

このことは何を意味するのでしょうか。おそらくすぐにお分かりかと思います。弟子たちの派遣の意味と目的は、まさに彼らの目の前に「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群集がおり、その人々には具体的な救いと助けとが必要であったというその事実そのものであるということです。

逆に言い直せば、もう少し分かりやすくなるかもしれません。ただし少し言葉が過激になってしまうかもしれません。しかし、あえて言葉に出して言うならばこうなります。もしそこに「弱り果て、打ちひしがれている」人々が一人もいなかったとしたら、イエスさまによる弟子たちの派遣は不必要であったということです。

ところが事実はそうではありませんでした。そこには実際に困っている人々、実際に弱っている人々、実際に打ちひしがれている人々がいたのです。だからこそイエスさまは彼らのことを憐れに思い、特別な十二人の弟子たちをお選びになり、その弟子たちを人々の中にお遣わしになったのです。

しかもここには「群集」と書かれています。一人や二人では「群集」とは言いません。一つの町や村の人口に当たるような規模の人々を「群集」と呼ぶのだと思います。

また「打ちひしがれている」とあります。この意味は何でしょうか。広辞苑を見ますと「打ちひしがれる」の意味は「強い衝撃で意気・意欲を完全になくすこと」です。ここでマタイが書いている意味も、まさにそのようなことです。

彼らの身に何が起こったというのでしょうか。とにかく彼らはおそらく生きる気力さえ失っていた。がっくりと肩を落とし、背中が曲がり、暗い顔で佇んでいた。そのような姿が思い浮かぶのです。

しかしこれはどういうことでしょうか。思わず考え込んでしまうような内容があると感じます。

私自身、ここで思わず考え込んでしまうことがあります。それは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」そのような状態の人々にイエスさまが出会われた場所はどのようなところであったのだろうかという点です。

それはもちろん書かれているとおりです。イエスさまは「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」とあります。ここで「会堂」とは明らかに、当時のユダヤ教の礼拝堂のことです。シナゴーグのことです。イエスさまが回られた町や村には、イエスさまが行かれる前からユダヤ教の礼拝堂が存在したということです。

しかも、イエスさまが御国の福音を宣べ伝えられたのも、まさにそのユダヤ教の会堂(シナゴーグ)においてであったということです。

しかし、考えてみてください。そこにユダヤ教の会堂があったということは、いわば当然のこととしてユダヤ教の祭司や律法学者や長老たちもいたということを意味するのです。シナゴーグが建てられている町や村にはそのシナゴーグを仕事場にして働いている宗教の専門家たちもいたということです。建物だけがあったわけではないのです。

しかしそうなりますと事態はますます深刻なものに思われます。イエスさまが回られた町や村にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)は存在した。これは明言されています。そして、それならば、そこで働く祭司や律法学者や長老たちもまた存在したということも当然考えられるのです。

しかし、それにもかかわらず、です!その町や村の中に「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群集、すなわち大勢の人々がいたと言われているわけです。

その町には教会の建物がある。伝統のある古い建物である。またそこには牧師も長老もいる。「いない」わけではないのです。それなのにそこには「飼い主がいない」と言われる。これはなんだかものすごく深刻な状況ではないでしょうか。

少なくとも私自身は、このような個所を読みますと、とても激しく胸が痛くなるものを感じます。

私は、今年で牧師という仕事を始めて14年目になります。そういう者として、ここで「群衆」と呼ばれている人々の立場や状況はよく分かるつもりです。しかしそれと同時に、ここで「会堂」と呼ばれている場所に住んでいる住人の気持ちも分かってしまうのです。

その町には「会堂」がある。牧師や長老もいる。もちろん信徒もいる。それなのに会堂の外側にも内側にも「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集」がいると言われる。これは会堂が、牧師や長老が、教会が、少しも人々の霊的なニード(必要)に応えていないということの何よりの証拠ではありませんか!

しかしそれが現実です。イエスさまの目は節穴ではありません。イエスさまの周りに集まってきた群集は、心の底から飢え渇き、助けを求めていた。ところが会堂の住人たちはこの群集の霊的ニードに少しも応えていなかった。そのことを鋭く見抜かれたイエスさまが十二人の弟子たちを、この群衆の中へと遣わされたのです。

だからこそイエスさまは、十二人を派遣するにあたり次のように命じられたのです。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」

「イスラエルの家」の中にはユダヤ教の会堂も含まれています。会堂の中に「失われた羊」がいるというのです。その人々のところに行きなさいとイエスさまは弟子たちに命じられました。

そしてイエスさまは言われました。

「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」

先ほども一度、仮定の話として、しかし、現実にはありえない話として申しました。もしそこに「弱り果て、打ちひしがれている」人々が一人もいなかったとしたらイエスさまによる弟子たちの派遣は不必要なことでした。しかし実際には一人もいないどころか大勢いました。だからこそ弟子たちの派遣が必要でした。

そのように考えますと、弟子たちが果たすべき役割ははっきりしたものになります。

イエスさまの弟子たちの仕事は、彼らの目の前にいる、現実に助けを求めている人々の(霊的)ニードに応えることです。病気の人がいればその病気をいやすことです。死者がいれば生き返らせることだと言われます。重い皮膚病を患っている人がいれば清くすることです。悪霊にとりつかれている人がいればその悪霊を追い払うことです。

このことも、逆の言い方をすればもっとはっきりするでしょう。

病気で苦しんでいる人々が求めていることは、間違いなく「その病気がいやされること」です。しかしそのとき、もしイエスさまの弟子たちが、その人々が少しも求めていないものを一生懸命に与えようとするなら、彼らは何を感じるでしょうか。

「そんなものはどうでもよい。わたしが今求めているものを与えてほしい」と思うでしょう。そして、それを与えてくれるところに出かけていくでしょう。自分のニードに応えてくれない人々には何も期待しないでしょう。それが現実なのです。

イエスさまは弟子たちに対し、続けてこうも言われました。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。」

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」わたしたちは、これを文字通りのこととして理解すべきです。ここでイエスさまがお語りになっていることと同じようなことをユダヤ教も教えていたと言われます。ただしユダヤ教ではこんなふうに言いました。

「律法学者たちが律法の知識を私利私欲のために用いることは間違いである。なぜなら律法は金儲けの道具ではないからである。」

わたしたちの場合は「律法学者」という部分を「牧師」や「長老」あるいは「神学者」、そして「律法」という部分を「聖書」と読み替えることができると思います。

「牧師や神学者たちが聖書の知識を私利私欲のために用いることは間違いである。なぜなら聖書は金儲けの道具ではないからである。」

おそらくこれがイエスさまのお語りになる「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」の意味です。

ここで考えさせられることは、イエスさまが弟子たちになぜこのようなことを言わなければならなかったのかということです。その理由については、ここでは何も書かれていません。しかし、思い当たることがないわけではありません。

それは、繰り返しになりますが、イエスさまの周りに集まってきた群集がなぜあれほどまでに飢え乾いていたのかという点です。

彼らの町や村には会堂が存在しなかったわけではなく、祭司や律法学者や長老たちがいなかったわけでもありませんでした。ですから、もちろん彼らが聖書の御言の説教を耳にする機会が無かったわけではありませんでした。

それなのに、です。彼らは非常に飢え乾いていました。会堂で語られる説教、会堂の住人たちが提供する宗教的な行事や行為によって彼らの霊的ニードが満たされることは無かったのです。

その原因は何だったのでしょうか。少なくともその一つとして思い当たることがあります。

それがまさに、律法の知識を私利私欲のために用いる律法学者があまりにも多すぎたのではないかという点です。律法を悪い意味での金儲けの道具にしていた人があまりにも多すぎたのではないかという点です。

どうでしょうか。わたしたちの目も節穴ではありません。聖書の知識を私利私欲のために用いる教師、聖書を金儲けの道具にする教師の説教がどんなものであるかをわたしたちはすぐに見抜くことができるはずです。

そのような説教には人を救う力がないのです。それは助けを求めている人々に何も与えず、ただ奪うだけです。力を与えるどころか力が抜けていくのです。

イエスさまがおっしゃっていることは、助けを求めている人々には与えなければならないのであって、奪ってはならないということです。

イエスさまの弟子となり、またとくにイエスさまの御言葉を宣べ伝える者になることをわたしたちは、特別な意味で「献身」と呼びます。「献身」の一般的な意味を、これも広辞苑で調べてみました。「一身を捧げて尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲」と書かれていました。

意味はこのとおりで良いと思います。この意味のままわたしたちは、とくにイエスさまの弟子たちであるわたしたち自身に当てはめるのです。わたしも「ただで」救われたのだから、「ただで」与える人生を送るということです。

こんなふうに真剣に考え、生きていた人がイエスさまの時代にはいなかったのではないでしょうか。誰も彼もが自分の利益のために生きている。宗教家たちでさえそうである。だからこそ、さまよう人々も後を立たない。

わたしたちの時代はどうでしょうか。「飼い主のいない羊のように弱り果てている人々」はどこにいるでしょうか。わたしたち自身がそうでしょうか。

わたしたちの一度しかないこの人生をイエスさまの弟子として生きること、そして目の前にいる困っている人々を助けること、すなわち「献身」のために用いることができる人は幸いです。

新浦安伝道所のこれからの歩みのためにお祈りさせていただきます。

(2004年8月29日、新浦安伝道所主日礼拝)

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