ヨハネによる福音書

2010年10月31日 (日)

「信じる者は幸いである」

(MP3音声、公開中!冒頭2分半ほど無音です)

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ヨハネによる福音書20・24~31

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」

今お読みしました個所は今年のイースター礼拝でも取り上げたところです。しかし、皆さんの多くはそのとき私が何を話したかをすっかり忘れておられると思いますので、私は安心して同じ話をすることができると思っています。いま、少し意地悪なことを言いました。しかし、今日はイースターのときに申し上げたこととは別の点に強調を置いてお話ししたいと願っています。

全くお恥ずかしい話なのですが、今日が何の日であるかを、先週まで私自身がすっかり忘れておりました。そのため先週の週報では予告も出しておりませんでした。今日は宗教改革記念日なのです。完全に忘れていましたことをお詫びいたします。1517年10月31日、宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会への激しい批判を記したいわゆる95カ条の提題、その原題は「贖宥の効力を明らかにするための討論」という文書をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に掲げたとされる日です。そのルターの勇気ある行為が全世界の宗教改革運動の事実上の幕開けとなったため、全世界のプロテスタントの教会がこの日を「宗教改革記念日」として覚えるようになったのです。

なぜルターは10月31日にその貼り紙を教会の扉に掲げたのかという点については定説があります。ご承知のとおり、明日11月1日は教会の暦ではオールセインツと呼ばれ(※)、日本では「聖徒の日」とか「万聖節」などと訳されて重んじられています。それは、松戸小金原教会ではイースターにおこなっている召天者記念礼拝と同じ意味を持っており、遺族を含めて大勢の人が教会に集まる日です。教会に集まる人は当然、教会の扉の前を通って中に入ります。つまり、教会に大勢の人が集まる日に教会の扉に貼り紙をすれば、大勢の人の目に触れます。だからこそ、ルターはその聖徒の日の前日である10月31日を選んだのだと言われています。

しかし、ルターは、ただ単に目立つことをしたかったからその日を選んだというだけではなかったと思われます。ルターがローマ・カトリック教会を批判したその内容とその日を選んだこととは関係していると考えるべきです。ルターが批判したのは、よく知られているとおり、ローマ・カトリック教会が信徒向けに販売していた日本での通称「免罪符」、正確には「贖宥券」と呼ばれるものは無意味かつ有害であるという点でした。それを買うことは当然、教会に献金することにもなるわけですが、そのお金を支払うことによって、すでに亡くなっているがまだ天国に迎え入れられていない中間状態(煉獄)の中で漂っている魂が天国まで「飛び上がる」と、ローマ・カトリック教会が教えていたのです。そのような教えには聖書的な根拠は無く、全くのでたらめであると、ルターは批判したのです。

ですから、このことから分かるのは、ルターが10月31日に教会の門に貼りつけた文書の中で問題にしたことは要するに「人間は死んだ後どうなるのか」という点にかかわることであったということです。だから、ルターがその文書を「聖徒の日」の前日に貼りだしたのだと考えれば辻褄が合います。聖徒の日に教会に集まる人の中にはすでに亡くなった方々の遺族が多く含まれていたわけですから、人間の死と死後の状態について多少なりとも関心を持っている人々であったはずです。別の言い方をすれば、493年前の今日から始まった宗教改革運動がいちばん最初に取り組んだのは「人間は死んだらどうなるか」という問題であったということにもなると思います。それは、少し難しい言い方をすれば、「終末論的な問題意識」と呼ぶことができるものかもしれません。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは死んだ後どうなるのでしょうか。この問いに対して、わたしたちは躊躇なく間髪入れず「わたしたちは復活する」と答えなければなりません。イエスさまが復活されたのだから、わたしたちも復活するのだと。それこそが聖書の教えであり、わたしたちの信仰です。わたしたちは、かつてのローマ・カトリック教会が教えていた意味での「煉獄」という魂の中間状態があるなどということをそもそも信じていません。中間状態とは天国にも地獄にも入っていない状態であり、最後の審判の座に引き出されるのを待っている未決の状態のことです。そのような状態にある先祖の魂が、地上にいる遺族が献金箱の中に投げ込むお金のチャリンという音でピョンと天国に飛び上がるのだとローマ・カトリック教会が教えていたというのです。

そんなのはでたらめだとルターが批判したわけですが、私にとって気になることはローマ・カトリック教会も「教会」であるということです。16世紀の話はともかくとして、少なくとも今、21世紀のわたしたちがローマ・カトリック教会を名指しして異端呼ばわりすることはありえません。彼らもまたキリスト教会の仲間です。事情がそうであるとき、私にとって最も気になることは、「わたしたち人間が死んだらどうなるのか」という問題について正しい答えを出すことができるのも「教会」であるとわたしたちは信じてよいわけですが、それと同時に、この問題についての間違った答えを出すのも「教会」であるということを認めざるをえないということです。

ローマ・カトリック教会は、その間違ったでたらめな教えを、事実上の献金集めの手段として利用しました。亡くなった方の遺族の心は多少なりとも傷ついているわけですが、まるでその弱みにつけこむようなことをしていたのです。しかし、たとえそれが事実であったとしても、今のわたしたちがしなければならないことは、16世紀の誰かを批判することではありません。わたしたちがしなければならないのは、今の自分たちはどうなのかという点についての深い反省です。それは、わたしたちもまた「教会」である以上、いつ何どき16世紀の教会と同じ過ちに陥ってしまうか分からない存在でもあるということを強く自覚しつつ、その過ちに陥らないように気をつけることです。

しかしそれはわたしたちがどのようにすることでしょうか。この点をよく考えなければなりません。教会に献金をすれば亡くなった人の魂が天国まで飛び上がって救われるという話がでたらめであるという点については、皆さんには直感的に「間違っている」と理解していただけるものがあるでしょう。しかし、そのような教えにだまされた人たちが信じていた事柄の本質をよく考えてみると、要するに、わたしたち人間は死んだ後、肉体は滅びても、魂は永遠に生きていて、いわば空中のどこかに漂った状態にあるというようなことだったはずです。そのような、いずれにせよ、魂と肉体が分離している状態、魂だけが漂っている状態というものが思い描かれていたはずです。

もしそうであるとするならば、今ここにいるわたしたちにとっても決して他人事ではないはずです。皆さんの中に、「肉体の復活」ということを関口牧師が声を大にし、口を酸っぱくして語っているほどには信じきることができないという方がおられるのかどうかは聞かないでおきます。「あとでこっそり教えてください」とも申しません。何も聞かない代わりに、私は今日、「肉体の復活」という信仰は、「わたしたちが騙されないためにも重要である」ということを強調しておきたいと思います。今日、最も大きな声で言いたいことは、魂と肉体が分離して、魂だけがどこかの空中に漂っている状態というようなことを聖書は全く教えていないということです。もし肉体が死んだのなら魂も死んだのです。たとえそうであっても、わたしたちの信仰は、そのことでびくともしません。なぜなら、肉体の復活と共に魂も復活するからです。肉体と魂はばらばらに切り離されたり、別々に分かれたりしませんし、そうなる必要がないのです。

ですから、たとえば、「鎮魂」という考え方がわたしたちには全くありません。肉体から切り離された魂が救われるために祈るという意味の「死者のための祈り」なども全くしませんし、信じていません。わたしたちがどれだけ祈ろうが、どれだけご祈祷料を支払おうが、それによって死者の魂がどうなるということはありえないと信じているからです。わたしたちが何をどのようにしようが、何もどうにもなりません。そもそもわたしたちには、死者の魂だけがどこかで漂っているという観念そのものがないのです。そのような観念は、わたしたちにとってはオカルト以外の何ものでもないのです。

しかし、いま私が申し上げていることは他の宗教の批判ではありませんし、関口牧師は冷たいことを言っているなどと思われてしまいますと困ります。冷たいことを言っているつもりはないのです。「わたしたちは復活する」と言っているのです。「復活の日には、肉体も魂も同時に復活するのだ」と言っているのです。

だからこそ、先週も確認したとおり、イエスさまの復活の体は傷だらけでした。その体はイエスさまの苦難の生涯がどれほど激しいものだったかを如実に物語っていました。イエスさまの復活には夢見心地な要素は皆無であり、厳しく生々しい現実そのものを映し出していました。そして、トマスには、御自分の体に残る十字架の釘跡、槍で刺された釘跡を指さされ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と言われました。電源スイッチの切れたロボットにもう一度スイッチを入れて再起動させるように、すっかり抜け殻となった肉体の中に魂が戻ってきて息を吹き返したというような話ではありません。死よりも前の体験と記憶が、イエスさまの人格そのものが復活されたイエスさまにおいても連続していたのです。魂の復活とは、いわばそのようなことです。

イエスさまはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(同上)、また「(見ないのに)信じる人は、幸いである」(29節)と言われました。この場合「信じる人」の意味は「復活を信じる人」です。復活を信じる人は幸せであると言われているのです。

皆さんにぜひお考えいただきたいことは、「復活を信じて損することはありません」ということです。復活を信じることで誰かが不幸になることはありません。復活を信じないほうが損します。肉体から切り離された魂のようなものを想像し、追い求めることは、どこか騙されやすく、得体のしれないものを恐れやすくなります。それは宗教改革の精神に全く反することです。復活の信仰がわたしたちをあらゆる迷信やオカルトから解放してくれるのです。

(2010年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

※実際の説教では「明日11月1日はハロウィーンですが」と説明してしまいましたが、これは間違いでした。ハロウィーンは「万聖節の前夜祭」なので「今日10月31日はハロウィーンですが」と言わねばなりませんでした。お詫びして訂正いたします。事実関係を訂正したうえで本文からは削除させていただきました。

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2010年10月 3日 (日)

「亜麻布を残して イエスの復活(1)」

(MP3音声、公開中!)

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2010年9月19日 (日)

「イエスの死」

(MP3音声、公開中!)

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2010年5月16日 (日)

「あなたがたはわたしの友である」

ヨハネによる福音書15・11~17

関口 康

「『これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。』」

わたしたちは今日、3名の新入会員をお迎えすることができました。1名の方の加入式、また2名の方の洗礼式を行うことができました。本当にうれしいことです。

さて、まさか計算して決めたわけではないのですが、今日の聖書の個所は、読めば読むほど今日のこの日にふさわしい内容であると思いました。ここに記されていますことを一言でいえば、イエス・キリスト御自身とイエス・キリストを信じて生きる者たちとの関係は何かということです。ですから、この個所に記されていることを正しく理解することができれば、キリスト教の入門講座は卒業です。心から喜んで、確信をもって、教会生活を送ることができるようになります。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)とあります。「これらのこと」とはもちろん先週の個所に記されていた例え話のことでもあるでしょう。しかし同時に、イエスさまが弟子たちに話して来られたすべてのことが含まれていると考えることもできるでしょう。イエスさまは弟子たちに多くのことを話して来られました。そのイエスさまのみことばには一つの明確な目的があったのだと考えることができるのです。

その目的とは何でしょうか。それが「わたしの喜びがあなたがたの内にあること」であり、「あなたがたの喜びが満たされること」であるというわけです。それはどういうことでしょうか。それは結局のところ、イエスさまの心の中に満たされている喜びをあなたがた弟子たちの心の中に満たすためであるということに他なりません。別の言い方をすれば、イエス・キリストの心の中の喜びを弟子たちの心の中に移しかえる手段は、イエス・キリストのみことばであるということです。そしてそのことは同時に、イエスさまがこの地上に来られた目的そのものでもあります。イエスさまが御自身の言葉によってイエス・キリストを信じて生きている人々を「喜ばせること」、このことこそが、イエスさまがこの地上に来られた目的そのものなのです。

このように申し上げることによって私が皆さんにお伝えしたいことは、次のことです。「キリスト者」とは要するに「喜んでいる人」のことであるということです。悲しい顔をしている人はキリスト者ではないと、そんなことまで言うつもりはありません。しかし、いつまでも悲しい顔をし続けている人はキリスト者でしょうかとお尋ねしなければならなくなります。なぜなら、キリスト者の心の中にはイエス・キリストの喜びが確実に伝えられているからです。そういうわけですから、わたしたちは、たとえどんなことがあっても、いつまでも悲しみ続けることはありません。

「いや、そんなことはありません。わたしはいつも悲しくて悲しくて仕方がありません」と思われる方がおられるでしょうか。そのような方にお勧めしたいことは、キリストの言葉をたくさん学び、それを心の中に豊かに蓄えていただきたいということです。そのために教会があるのです。悲しくて悲しくて仕方がない人こそ、教会で聖書を学び、賛美歌をうたい、祈りをささげていただきたいのです。

使徒パウロのコロサイの信徒への手紙には、次のように記されています。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ3・16~17)。

「教会」と名のつくところであればどの教会も同じであると、そのように本当に言えるかどうかは分かりません。しかし、「松戸小金原教会は大丈夫です」と申し上げておきます。わたしたちは教会で何をしているのかといえば、聖書を学び、賛美歌をうたい、祈っているのです。このことをとにかく繰り返しているのです。「お前たちはそれだけしかやっていないじゃないか」と言われても仕方がないほどです。しかし、このことがわたしたちの心に喜びをもたらします。いつまでも悲しみ続けること、悲しみの悪連鎖の中から逃れることができます。落ち込んで落ち込んで、最悪の結果ばかりを考えてしまう、底なしの泥沼から抜け出せなくなってしまうことから解放されます。イエスさまはそのために来てくださったのです。そして、イエスさまはそのために地上に教会を建ててくださったのです。わたしたちの心に喜びが満たされるためです。このことをぜひ信じていただきたいのです。

「喜び」の次は「愛」です。次に記されていることは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)です。

とにかくこれだけははっきりしているということは、愛というものは、どう考えても一人では成り立たないものであるということです。そこには必ず複数の人が必要です。自分で自分を愛することも重要です。しかし、自分ひとりだけで完全に自己完結しているというだけでは正しい愛の形とは言えません。イエスさまが弟子たちを愛してくださいました。その愛に基づいて弟子たちは、そして教会は、互いに愛し合うのです。つまり、愛というものが成り立つために必要なのは、とにかくだれかと一緒にいることです。この点にも教会の役割と意味と使命があると言えます。教会に通わない、自分ひとりだけの信仰では、イエス・キリストの愛というものを正しくとらえることができないのです。

しかし、難しいことは、わたしたちはそれを教会でどのようにして実現するのかという点でしょう。たとえば私が教会の皆さん一人一人をつかまえて「わたしはあなたのことが大好きです」などと言いますと、ただ誤解されるだけでしょう。危ない人だと思われるだけでしょう。いつもお互いに気遣うこと、配慮すること、助け合うこと、励まし合うことならば、できますし、これまで実際にしてきたことでしょう。配慮とは微妙なものです、細心の注意と、デリカシーが必要です。ひどく落ち込んでいるときには、だれにも会いたくない、干渉されたくない、介入されたくないと考えるのも、わたしたちです。そういうときに、ずけずけ割り込んでいくことが愛ではないということを知っているのも、わたしたちです。そういう人を助けるにはどうするかということを慎重に配慮するのが教会の役割であり、とくに教会役員たちの責任でもあります。

幸いなことは、繰り返しになりますが、教会には聖書があり、賛美歌があり、祈りがあるということです。そして礼拝があります。いま皆さんは、前を向いておられます。そのことが問題解決の糸口になるかもしれません。今朝、教会に来られる前に夫婦喧嘩をされたばかりという方がおられるかもしれませんが、しかし、教会に来れば、お互いの顔を見るのではなく、前を見ることができるのです。お互いの顔を見るだけで、互いに対峙するだけで、にらみ合うだけでは、和解のときは訪れません。しかし礼拝では、お互いの顔を見るのではなく、神を見るのです。神という方が、対峙するお互いを仲裁してくださり、和解へと導いてくださるのです。ですから、今朝は激突した二人も、この礼拝が終わって家に帰られると、怒りが和らぎ、笑顔が取り戻されていることでしょう。

次に記されているみことばは、わたしたちの多くを驚かせるものであり、また恐れさせるものです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(13節)と言われています。

イエスさまはご自分の弟子たちを「友」とお呼びになりました。これは文字通りの「友人」という意味であり、その関係は「友情」です。弟子たちはイエスさまのフレンドです。その関係はフレンドシップです。これは驚くべき、また恐れ多いお言葉であることは間違いありません。しかし、イエスさまのほうからこのように言ってくださっているですから、恐縮する必要はありません。

とはいえ、イエスさまとわたしたちの関係を悪い意味でのお友達づきあいや馴れ合いの関係のようなものと考えることは、行き過ぎでしょう。イエス・キリストは「友のために御自分の命を捨てて」くださったのです。これこそがイエスさまの十字架の意味です。「これ以上に大きな愛はない」と言われています。イエスさまは、馴れ合いの関係のために命を捨てられたのでしょうか。わたしたちは、馴れ合いの関係のために命を捨てることができるでしょうか。そのようなことが「これ以上に大きな愛はない」とまで言われるようなことなのでしょうか。いくらなんでも、それはないと思います。

しかし、それでも、イエスさまは、この個所で「友」という言葉を「僕」という言葉と対比させて語っておられます。この点はイエスさまが「友」という言葉をどのような意味でおっしゃっているかを正しく理解するために重要です。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(14節)と。どのような対比であるかということも、割合はっきりしています。「僕」が上下関係を表す言葉であるとしたら、「友」は対等の関係を表す言葉であると言えるでしょう。垂直関係か水平関係か、でもよいかもしれません。あなたがたとわたしの関係は、これまでのような上下関係ではない。これからは対等の関係であるとイエスさまが言われていると読むことも可能でしょう。

しかしこのように言いますと、皆さんの中には心理的な抵抗を感じる方々がおられることでしょう。実は私自身もかなり抵抗を感じています。イエスさまとわたしが全く一般的な意味での「対等の関係」であるとか「水平の関係」であるはずがないと言いたくなります。わたしたちが抱く心理的な抵抗は決して間違ったものではないと申し上げておきます。イエスさまが「あなたがたはわたしの友である」と言われていることの意味は、たとえば、戦前の権威主義的な日本人が戦後の民主主義的な日本人に変わったというような話と全く一緒くたにしてしまうことはできないものです。

それではそれは何なのかということについて詳しくお話しすることができる時間は、もう無くなりました。キーワードだけをお伝えしておきます。それは「和解」です。本来は罪人であり、神の罰を受けなければならない人間が、イエス・キリストの救いのみわざによって、その罪が赦されることによって、神と和解するのです。この「和解」こそ、イエスさまのおっしゃる「友情」なのです。

(2010年5月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2010年5月 9日 (日)

「わたしはまことのぶどうの木」

ヨハネによる福音書15・1~10

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関口 康

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

いまお読みしました個所に記されていますのは、もちろん一つの例え話です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、まず最初に御自分を指さして「わたしはまことのぶどうの木である」と言われ、「わたしの父は農夫である」と言われています(1節)。そして、イエスさまは、御自分と弟子たちとを指さして「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と言われています。

これで分かることは、この例え話が明らかにしていることは、父なる神とイエス・キリスト御自身とキリストの弟子たちとの三者の関係であるということです。イエス・キリストはぶどうの木であり、キリストの弟子たちはぶどうの木の枝なのです。父なる神は、それを手入れする農夫なのです。

しかし、ここでよく考えてみなければならないと思いましたことは、今日この礼拝に集まっているわたしたちは何なのかということです。

おそらく誰でも最初に考えることは、わたしたちもキリストの弟子の仲間なのだから、この中では当然「ぶどうの木の枝」がわたしたちのことだろうということでしょう。しかし、もう一つの見方が成り立つと思いました。「あなたがたはぶどうの木の枝である」と言われているのは、イエスさまの目の前に集まっている最初の弟子たちだけのことかもしれないと考えられるではありませんか。もしこの読み方が正しいとすれば、わたしたちはむしろ「実」である、つまり、ぶどうの木の枝である最初の弟子たちが結んだ「実」のほうであると考えることができるでしょう。私自身はこのように読むほうがこの個所の意図を正しく理解できるだろうと考えています。

この点にこだわることには、もちろん理由があります。私にとって非常に気がかりなことは、この個所に記されているイエスさまの御言葉は、読み方を間違えますと非常に危険な結果を招くであろうということです。この中で目立つのは、たとえば、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2節)という御言葉です。あるいは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分で実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)という御言葉です。さらに「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)という御言葉です。そして、極めつけは「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)という御言葉です。

これらの御言葉に一貫しているのは、ぶどうの木につながっていないぶどうの木の枝には恐ろしい裁きがなされるということです。しかし、わたしたちは、この個所をできるだけ丁寧に読むべきです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな父が取り除かれる」というわけです。つまり、この枝は、とにかく一度はぶどうの木につながっていたのです。しかし、それは実を結ばなかった。そのため、農夫である父がその枝を除かれたのです。これで分かることは、ここで例えられているのは、いまだかつて一度もぶどうの木につながったことがない枝、つまり、イエス・キリストの弟子になったことがない人々のことではないということです。この例えばなしの中の否定的な言葉が言おうとしていることは、とにかく一度はたしかにイエス・キリストの弟子仲間に加えられたが、その後でイエス・キリストから離れた人、のことを指しているということです。

しかしそうなりますと、かえってますますわたしたちが心配になるであろうことは、洗礼を受けたわたしたちはもう二度と逃げられないということなのか、もし逃げようとするとどこまでも追いかけられてきて捕まえられて、火あぶりの刑(?)に処せられるということなのか、というようなことかもしれません。もしわたしたちがこんなふうなことを少しでも考えているとしたら、そのわたしたちの様子を外側から意地悪な見方をする人々の目には「あそこに集まっている人々は、ただ逃げ遅れただけの人々なのだ」というふうに見えるかもしれないということになるわけですが、そのような目で見られることが本当によいことなのでしょうか。

あるいは、「実を結ばない枝は取り除かれる」という御言葉を読んで、おびえる。「実」というのは、たぶん伝道の成果のことだろう。つまり、何人を教会に誘い、何人を信者にしたかという、数字的な結果のことだろう。しかし、私は今まで一人も教会に誘ったことがない。あるいは、たくさん誘いはしたが、その人たちの誰も教会にとどまってくれなかった。ああ、私は「実を結ばない枝」である。私は枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、火に投げ入れられて焼かれてしまうのだ、と。

このような読み方が正しいでしょうか。「いや、正しくない!」と私自身は考えていますし、信じています。この例えばなしの中で、わたしたちは「実」です。「ぶどうの木の枝」は、今このときこの話をなさっているイエスさまの目の前に集まっている弟子たちのことです。それでは、「実を結ばない枝」とは誰のことでしょうか。それは、とにかく一度は間違いなくイエス・キリストの弟子になったが、その後でイエス・キリストから離れていった弟子のことです。それは誰でしょうか。もうお分かりでしょう。イスカリオテのユダです。

もちろん、教会の中にはとても優しい人がいて、ユダの話を読むと「ああ、ユダは私だ」とすぐに共感できるし、すぐに同情できるという人がいることを、私は知っています。そのような優しさには大切な面もありますが、危険な面もあります。ユダとは違うと思われるかもしれませんが、たとえば、どこかで起こった凶悪犯罪の話を聞くと、その犯罪によって傷を受けた人々のほうに同情するのではなく、犯罪をおかした人のほうに共感したり同情したりする人がいますが、そういう感情には非常に危険な面があります。それと同じようなことを申し上げる必要があります。

少し前の説教で私は、ユダがしたことは「イエス・キリストに対する裏切り」という点ではペトロがしたことと本質的に同じであると申し上げました。しかし、内容的には全く違うことをしたということも明言しておく必要があります。ペトロはイエス・キリストが逮捕された後、イエスさまのことを「知らない」と三度否定しました。それも裏切りといえば裏切りです。しかし、ユダは違います。ユダはイエスさまをユダヤ人たちに文字通りお金で売り渡したのです。そしてユダはユダヤ人たちがイエスさまを殺そうとしていることを知っていました。そのことを知りながら、ユダはイエスさまを売り渡したわけですから、事実上ユダはイエスさまを殺すことに加担したのです。

もちろんユダ自身はイエスさまに向かってつばを吐きかけたり、槍で刺したり、イエスさまの体を十字架の板の上に釘ではりつけたりはしていません。しかし、彼のしたことは、事実上の殺人です。少なくとも殺人の協力をしました。この点ではユダがしたこととペトロがしたことを一緒くたに扱うことはできません。ペトロのしたことにはかなりの面で同情の余地がありますが、ユダのしたことには同情の余地はありません。ユダは、厳しい裁きを受けなければなりません。しかし、ユダのことと、わたしたち自身のことは、区別して考えるべきであると申し上げたいのです。

「わたしはまことのぶどうの木である」(1節)という御言葉の中で強調されているのは、「まことの」という点であると説明する人がいます。「まことの」とは「本物の」という意味ですが、この言葉には裏があるというのです。つまり、ここでイエスさまがおっしゃっていることを噛み砕いて訳すとしたら、「ある人々は『わたしたちこそがまことのぶどうの木である』と言っているが、彼らは嘘をついている。彼らは偽物のぶどうの木であり、わたしこそが本物のぶどうの木である」というのです。

誰が嘘をついているのでしょうか。すぐ分かることは、イエスさまは明らかにユダヤ人たちを意識しておられるということです。たしかに旧約聖書の中でユダヤ人たちは「ぶどうの木」に例えられています(イザヤ書5章など)。それはそのとおりです。しかし、イエスさまは、彼らではなく、わたしこそが「まことのぶどうの木」であると言われているのです。「豊かな実を結ぶ枝」がつながるべきは、彼らではなく、このわたしであると。つまりこのときイエスさまは、わたしの弟子であるあなたがたの依って立つべきところは、このわたしであると、彼らの信仰の根拠をお示しになることによって、ユダヤ教団からの決別をうながしておられるのです。

それでは、イエスさまの弟子たちが結ぶ「豊かな実」とは何でしょうか。これが教会です。現時点で二千年に及ぶ歴史と伝統を築いてきた、世界中に広がるわたしたちのキリスト教会です。イエス・キリストの十字架を前にしたときには怯えたり、逃げたり、イエスさまを否定したりした弟子たちではありましたが、イエスさまの復活後、イエスさまの愛にとどまり、再び一つところに集まり、教会の礎を築くことができたので、彼らは「豊かな実」を結ぶ枝になることができました。

しかし、ユダはそうではありませんでした。ユダは、偽物のぶどうの木につながろうとし、本物のぶどうの木を殺すことに加担しました。彼は、しなければならないことをせず、してはならないことをして、自分の身に正しい裁きを招きました。

ここまで申し上げてもなお「ユダは私だ」とおっしゃりたい方々を責めようとは思いません。ある意味でユダを反面教師としながら自分の罪を強く意識し、悔い改めの心を忘れないようにすることは大切なことかもしれません。しかし、その方々にぜひお願いしたいことは、今日私がお話ししたことを憶えておいてくださいということです。イエスさまがおっしゃっていることは「信者を何人集めたかのノルマを果たせない教会員は火あぶりだ」という話ではありません。教会とは、脅迫や恐怖心にかられて集まるところではないのです。

(2010年5月9日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2009年11月 1日 (日)

「信仰とは諦めることの反対である」

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ヨハネによる福音書9・1~12

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム――「遣わされた者」という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。そこで人々が、『では、お前の目はどのようにして開いたのか』と言うと、彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、「シロアムに行って洗いなさい」と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。』人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と言った。」

今日から何回かに分けて、ヨハネによる福音書の9章を学んでいきます。この章は、時間をかけて学ぶ価値があります。私はこの章がヨハネによる福音書の一つの絶頂点であると信じています。ここではっきり分かることは、救い主イエス・キリストが父なる神のもとから地上に遣わされた目的です。そのことが見事に描かれています。ひとがイエス・キリストによって救われるとはどのようなことであるのかがよく分かります。ヨハネによる福音書を学び始めて以来、「この書物は難しい、難しい」と頭を抱えながらお話ししてきました。皆さんに我慢を強いてきたことをお詫びする必要があります。しかし、この9章は面白い!そのことをお約束いたします。

イエスさまが歩いておられたとき、その道の脇に「生まれつき目の見えない人」と呼ばれていた男の人が座っていました。その人を見たイエスさまの弟子たちが、イエスさまに次のような質問をしたというのです。「ラビ」とは教師のことです。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と彼らは言ったのです。

この質問の意図は、わたしたちにとって馴染み深いものです。「わたしたち」とは日本人のことです。それは、「生まれつき」の病気や障がいの持ち主はいわゆる何かのばちが当たった人なのだという考え方です。私はこういう考え方がとにかく大嫌いです。聞くたびに嫌な気持ちにさせられます。絶対に受け入れるべきではない、非常に間違った考え方です。いわば「異教的な因果応報論」です。しかし、わたしたちはこの言葉を何度となく聞かされてきました。その意味で馴染み深い言葉です。

ただし、このとき弟子たちは、少しくらいは慎重に物事を考える力を持っていたようです。この人の生まれつきの病気は、何かのばちが当たった結果であるに違いないと、このような考え方を彼らはしました。しかしまた、このとき弟子たちは、いくらなんでもこの人が生まれる前にこの人自身が罪を犯すということは、たぶんないだろうと、これくらいのことは頭に浮かんだ様子です。「お腹の中で罪を犯す人間」というのがいて、そのような本人が絶対に自覚しようのない罪に対する罰を神さまがくだされたその結果が「目が見えない」という彼の生まれつきの病気であるというような奇妙な三段論法を思い描くことは、いくらなんでもできないと思ったようです。

それで彼らがその次に考えたことは、本人の罪でないならば、やはりあの人の両親かということでした。しかし、彼らがたどり着いた結論は、本人かそれとも両親かの二者択一であったということは間違いなさそうです。だからこそ彼らはイエスさまにこのような質問をしたのです。

いま申し上げたことは、もちろんあくまでも私の想像です。彼ら自身がイエスさまに期待した答えは、彼が受けている罰の原因は、彼自身の罪ではなく、彼の両親の罪にあるということではなかっただろうかと私は考えます。本人が生まれる前に罪を犯すということは、どう考えてもありえないことです。ばかげているとしか言いようがありません。

しかし、両親の罪であると言われる場合には、どうでしょうか。もしかしたら多くの人が納得してしまうかもしれません。単に宗教的な「神の罰」という話としてだけではなく、たとえば遺伝の話、あるいは今の人が言うところの薬害の話、あるいは妊娠中にかかった病気や怪我や事故の話、あるいはいわゆる「生活習慣病」と呼ばれるようなものを両親またはどちらかの親が持っていて、そのせいで子どもが苦しみを味わっているのだというような話。あえて名づけるとしたら「医学的な因果応報論」です。このような話になっていきますと、そのような子どもたちを持っている親たちの中には、とても肩身の狭い思いにどんどん押しやられていくものを感じる人が出てくるでしょう。

こういう話になってきた場合には、「全く身に覚えがないか」と問われると、そうとも言い切れないと感じるであろう親たちは決して少なくないはずです。いまさら責められても自分たちから生まれた子どもに対して何をどうしてあげることもできないのだけれども、「お父さん、お母さん、あなたがたにも責任があります」と指摘する人がいれば、心の中で悲鳴をあげながらではありますが、「なるほど言われるとおりかもしれない」と認めざるをえないものを持っている親たちはいるのだと思います。

しかし、まさにいまさら責められてもどうしてあげることもできないと思うのが親でもあります。生まれてきた子どもが自分に似ていると、親たちはたいてい喜びますが、子どもたちには迷惑な話かもしれません。子どもたちが思春期になる頃に「あなたの子どもとして生まれてきたことが残念だ」と言われてしまう日が来る(すでに?)かもしれません。

しかし、そんなことをお互いに言いあってみても何一つ状況は変わりませんし、幸せになる要素は何にもありません。ただ傷つけあい、ただ嫌な思いをし、子どもたちも親たちも、泣きわめくくらいしかなすすべがありません。「あの人の病気はだれの犯した罪のばちですか。本人ですか、両親ですか」。誰のせいなのか。誰が悪いのか。こういう問いかけ自体が大きな落とし穴であり、罠です。問うことそれ自体を禁じることはできませんが、問うてみたところで、誰も幸せになりません。

もしこの問いにイエスさまが「それは本人ですよ」と、あるいは「それは両親に決まっていますよ」とお答えになったとしても、それによって弟子たちに何が分かるというのでしょうか。そもそも彼らはこの質問によって何を知りたかったのでしょうか。生まれつき目の見えないという人がもう二度と生まれないように、再発防止策(?)でも考えたかったのでしょうか。そのような医学的関心からでしょうか。いや、そんなはずはありません。おそらくはただの興味本位です。あるいは、イエスさまの弟子である人々は同時に聖書を学ぶ人々でもあったわけですから、「この障がい者の問題」を聖書的に考えるとしたらどのような答えが出るだろうかというようなことを考え始めたのです。私自身は、そのような考え方や態度や物の言い方が、本人に対しても、親たちに対しても、いかに失礼で迷惑なものであるかと、常日頃から感じています。

弟子たちの言葉をお聞きになったイエスさまが怒りを覚えられたかどうかは分かりません。しかしイエスさまがおっしゃった言葉は、かなり激しい勢いで、弟子たちの前にまるで仁王のようにお立ちになっておっしゃっているように思います。そして、イエスさまは、生まれつき目の見えない人と、その人の両親が置かれた苦しい立場を強く弁護し、かばおうとして、おっしゃっています。そのように捉えることは間違ってはいないだろうと私は信じます。

仮に百歩譲ってそれが本人の罪によるものであろうと、両親の罪によるものであろうと、共通しているのは、そのことが分かったところで、だれも幸せにならないという点です。たとえば、こういう話を聞くことがあります。「あの人は熱心なクリスチャンなのに、どうしてあんな重い病気にかかっているのだろうか。やはり神などおられないのか。それともあの人は自分や家族が犯した罪の罰を受けている、とでも考えるべきなのか」。もちろんこういうことを“考えること”が絶対に許されないとは思いません。“考えること”は万人に許された自由です。しかし、問題はこの先です。わたしたちは、自分の頭で考えたことを何でもかんでも口に出して言ってよいわけではありません。こういうことを言うと、いつ・だれが・どのような形で傷つくだろうかと、それこそ深く考えなければなりません。

弟子たちが「神などおられない」と考えることは無かったかもしれません。そのように考えることは、神を信じる彼らにはできなかったでしょう。その選択肢を選ぶことは、弟子たちにはなかったでしょう。しかし、その選択肢を選ぶことができないからこそ、的外れな責任追及の矛先が本人や両親に向かってしまうことはありえたでしょう。「神」を疑うことはできないゆえに、とことん「人間」を責め続ける。そのような「神中心的因果応報論」に陥ることがありえたでしょう。

すべての不幸は人間の罪の結果であると考えることが全く間違っていると申し上げているわけではありません。しかし、そのことと、何か特定の病気や障がいが、あの人・この人が犯した罪の結果として起こったことなのだと、そのような結び付け方をして誰かを傷つけることとは、全く違うことなのです。しかし、このような一種独特の歪んだ考え方、間違った信じ方が弟子たちの中に染み付いてしまっていたかもしれない。この個所を読む限り、そのように考えてみることもできそうなのです。

病気や障がいの中で苦しんでいる人々の側からすれば、それはあなたのせいだ、自業自得だと言われることに反論するのは難しいと感じるでしょう。あるいは、誰かのせいだ、親のせいだと言われることにも、言い知れぬ苦痛を味わうことでしょう。この病気が、障がいが、動かしがたい事実として、自分の目の前に立ちふさがっているかぎり。責められれば責められるほど絶望するしか道が無くなるのです。明るく生きること、いや、生きることそれ自体を諦める以外の道を奪われてしまうのが、我々のよく知っている「因果応報」の考え方です。

しかし、イエスさまのお答えは、絶望の闇を払いのけるものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

もう時間ですので、続きは来週お話しします。最後に一言だけ申し上げておきたいことは、イエスさまがこの人の前でおっしゃったことは、「お上手な言い方をなさった」というような次元で捉えてはならないものであるということです。その人の苦しみの原因を美しい言葉で解釈してあげた、というようなことではありません。事実として神の業がこの人に現れました。彼は神を信じるようになりました。それによってこの人は「諦めること」をやめました。それが彼の救いになったのです!

(2009年11月1日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2009年10月18日 (日)

「わたしの命を守ってくださる方」

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ヨハネによる福音書8・1~11

「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者たちは、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

今日は松戸小金原教会の特別伝道集会です。毎年10月にこの集会を計画し、地域の方々にチラシを配ってご案内させていただいています。今日初めて教会の門をくぐってくださった方々を心から歓迎いたします。どうかよろしくお願いいたします。

さて、今日、皆さんと共に行いたいと願っておりますことは、聖書のみことばを学ぶことです。今お読みしましたのは、新約聖書のヨハネによる福音書8章のみことばです。この個所にはたくさんの人が登場します。まずわたしたちの救い主イエス・キリストが登場いたします。二番目にイエスさまのところにひとりの女性を連れて来た大勢の人たちが登場します。そして三番目にその人々に連れて来られたひとりの女性が登場します。

このときイエスさまがなさっていたことは、エルサレムの神殿の境内で、多くの人々の前で、聖書に基づいて神を信じて生きるとはどのようなことであるかをお話しすることでした。つまり、今ここで私がしていることと同じです。ただし、私は今、立ってお話ししていますが、イエスさまは座ってお話ししておられたと書かれています。

そのイエスさまの前に大勢の人々が、どやどやと押しかけてきました。イエスさまのお話を聞いていた人々ではありません。イエスさまが話しておられるのを多くの人々が静かに聞いているその場所に、その話の邪魔をするために、異様な雰囲気の人々が押しかけてきたのです。

その人々がイエスさまのところに来た目的が6節に書かれています。「イエスを試して、訴える口実を得るために」、つまり、彼らはイエスさまの話を聞く気などさらさら持っておらず、ただイエスさまを試すために、イエスさまを罠にかけるために、その場所に押しかけてきたのです。

そのためにこの人々がしたことは、ひとりの女性を連れてくることでした。連れてくるといっても、「どうぞこちらにおいでください」というような紳士的な態度ではなく、服かあるいは髪の毛かでもつかんで引きずって来るというような乱暴な態度で、女性を引っ張って来たのです。

その女性は「姦通の現場で捕らえられた女」(3節)であったと書かれています。捕らえられたとき、あるいはイエスさまの前に引きずって来られたときに、この女性がどんな姿であったかは書かれていませんので分かりません。もしかしたら裸同然だったかもしれません。どのような連れて来られ方をしたかにもよりますが、多くの人々の前に立たされること自体が、本人にとっても、彼女を見る人々にとっても、耐えられないような姿だったのではないかということは容易に想像がつきます。

連れて来た人々は、得意そうな顔をしていたはずです。現行犯逮捕でしたと。疑いの余地はありませんと。また、この女性が連れて来られたときに、イエスさまのお話を聞いていた人々の中にもその女性の姿を興味津津で眺めた人々もいたはずです。ゴシップ記事に興味が集まることは今に始まったことではなく、いつの時代にもあることです。

そして彼らは言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

彼らが言っていることは正しいことです。正しすぎるくらい正しい。なるほどたしかにイスラエル社会では、いわゆる姦通罪は重罪でした。法律的には死刑に値するものでした。しかも、この女性は現行犯でした。現場を押さえられたとなると、言い逃れの余地はありません。

この女性を連れて来た人々の言い分としては、こいつは最悪の罪を犯した人間であり、言い逃れの余地もない状態で押さえられたのだから、どんなに乱暴に扱おうと、公衆の面前にさらそうと構いやしないとばかりに、引きずり出したのです。

しかし、彼らの関心は、この女性をどうするかということ自体には無かったということは、先ほど申し上げたとおりです。彼らの関心は、イエスさまを試すことでした。別の言い方をすれば、イエスさまの化けの皮をはがすことでした。このイエスという人は、なんだかきれいごとを言っているようであるが、本当は違うのだと。

そして、そのことは、この現行犯で捕まった、死刑に値する罪を犯した人間をどのように扱うかを見れば分かる。もし「死刑にすればよい」と言えば、このイエスがいつも言っている愛だの罪の赦しだのというきれいごとは、たちまち崩れてしまうであろう。また、「死刑にしてはならない」と言えば、この男もこの女と同罪である。法律を無視し、罪人に加担する、ひどい人間であると告発することができる。さあ、どっちだと、彼らは手ぐすね引いてイエスさまがどう答えるかを待ちわびたのです。

さて、イエスさまの答えは何だったでしょうか。ここには二つのことが書かれています。私はそのように理解します。第一に書かれているのは「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」ということです。これがイエスさまの答えであると私は理解します。何も答えていないではないかという見方も、当然ありえます。実際、イエスさまは何も答えておられません。私が申し上げたいことは、要するにそういうことです。つまり、「何も答えない」という答え方があるということです。

イエスさまはしゃがみこまれ、指で地面に何か字を書かれ始めました。何を書かれたのでしょうか。はっきり言いますが全く分かりません。ここにはイエスさまがどんなことをお書きになったかを証明するための根拠は何一つありません。

ところが、実はいくつか説があります。それは、私に言わせていただけば全くデタラメな説です。その中で「こんなことをよく思いついたものだ」と感心しながら読んだ説を、一つだけ紹介します。それは、このときイエスさまがお書きになったのは、旧約聖書の次の御言葉であるというものです。それは「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人になってはならない」(出エジプト記23・1)と「罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない」(出エジプト23・7)であると。

しかし、これは本当にデタラメな説です。彼女の罪は、現場を押さえられたと言われている以上、疑いの余地のないものだったはずです。彼らは確かなる根拠をもって連れて来たのであり、罪ある人、正しくない人を連れて来たのです。そのことを、詭弁を使って、ごまかしてはいけません。

事実として言えることは、このときイエスさまが何をお書きになっていたかはわたしたちには全く分からないということです。そしてそれに加えて申し上げたいことは、わたしたちはそれを知る必要もないということです。私も今からデタラメなことを言います。最も考えられる可能性として言えることは、おそらくイエスさまは、何か意味のあることをお書きにならなかったのではないかということです。昔のイスラエルに「へのへのもへじ」は無かったと思いますが、それに似たようなことではないでしょうか。そのように考えるほうが、はるかに当たっていると感じます。意味ある言葉を書く必要など全く無かったはずです。彼らを無視すること、相手にしないことこそが、イエスさまの目的であったと思われるのですから。

それどころか、イエスさまは彼らのほうを向いてさえおられません。目を合わせることもしておられません。下を向いて、地面に落書きをされていたのですから。わたしたちなら、アンパンマンの絵でも描いたらいいのです。そのような“抵抗”の仕方が、わたしたちには可能です。

もう一つの点に進みます。今度こそはイエスさまがきちんと口を開いてお答えになった言葉です。彼らがしつこく問い続けるのでイエスさまは身を起こされ、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とお答えになりました。

このお答えは、これを聞く人々の側でいろんな意味を持ちはじめる言葉だったと思われます。どうとでも解釈できる言葉です。ただし、この場面で直接問題になっていることが姦淫でしたから、その意味で考えた人もいたはずです。「あなたたちの中で、おくさん以外の女性に興味を持ったことが一度もないと言える人がおられるのであれば、どうぞその人から順にこの女性に石を投げて、この女性を打ち殺しなさい」と。

このイエスさまのお答えは「あなたがたに、この女性についてとやかく言う資格がありますか」という逆質問であると理解することも、もちろん可能でしょう。しかし、もう少し深く考えてみる必要がありそうです。なぜなら、ここで問題になっていることは死刑だからです。死刑とは、一人の人間の命を断つことです。「もう二度とこんなことはしません」と反省する余地を与えないことです。そのことを、あなたがたにできますかと、イエスさまは問うておられるのです。ただ単に、どうせあなたたちにもやましいことの一つや二つあるのだから、人を裁く資格などないはずだと言っておられるのとは違うものがあると思われるのです。

ここまでお話ししますと、皆さんの中には、さあこれから関口さんは死刑反対の演説でも始めるのではないかと思われる方がおられるかもしれませんが、今日はそういう話をしたいのではありません。もう少し身近なこと、あるいは日常的なことです。それは、わたしたちが毎日のように体験していることです。

それは、ある人が誰かから責められているときに、どうしたら助けてあげることができるかです。もちろんその場合、責められても仕方がないようなことをした人のことも含まれます。しかし、その人々の中には、死刑にならない場合でも、自分で命を絶とうとする人もいるはずです。責められて、責められて。生きている価値もないと罵られて。周りのすべての人に追い詰められて。

もちろん、わたしたち自身にも、どうしても赦すことができない人がいるという場合もあります。徹底的に責め抜くこと。わたしたちの追及によってその人が追い詰められようと、その先どうなろうとお構いなしに。あるいはまた、わたしたち自身が責められる立場に立つこともあります。長い人生の中で、何度となく。

しかし、そのときに、体を張ってわたしたちの命を守ってくださる方がおられるとしたら、どうでしょうか。イエス・キリストは、この女性の命を守ってくださったのです。悪意に満ちた人々と興味本位の野次馬たちと、このわたし、彼女自身との間に挟まってくださることによって。

彼女もまた、多くの人々の前で罪を暴露された以上、人々が死刑にしなかったとしても、自分で命を断つという道を選んだかもしれません。もし、彼女をかばってくれる人が誰もいなかったとしたら、です。彼女の言い分に耳を傾けてくれる人が一人もいなかったとしたら、です。

私が今日皆さんにお尋ねしたいことは、皆さんは、そのようにして皆さんのことをかばってくれる方を持っておられるでしょうかということです。おくさん、またはだんなさんは、どうでしょうか。子どもさんたちはどうでしょうか。私は別に、皆さんのご家庭に不和をもたらそうとしているわけではありません。けんかしないでください。しかし、家族は最後の最後に頼れますか。頼れるならば、もちろん幸いなことです。しかし、わたしたちが知っている現実は必ずしもそれだけではありません。むしろ決して少なくないケースは、家族の誰かのことで家族全員が第三者から責められる立場に立たされたりすることになるというようなことだったりする。あるいは家庭内に不和があり、互いに責め合うことこそが日常茶飯事になっていたりする。

会社はどうでしょうか。町内会はどうでしょうか。学校時代の同級生や同窓生はどうでしょうか。最後の最後まで皆さんをかばってくれるでしょうか。

私に限ってはそういう人が思い当たりません。友達が少ないなあと思っています。家族は味方してくれると信じていますが、甘いかもしれません。他でもない私自身が家族を傷つけている張本人かもしれませんので。

しかし、私は、それでも生きていくことができます。イエスさまを信じているからです。最後の最後までイエスさまは私をかばってくださると信じているからです。このイエスさまの前で生きているかぎり、ひどい罪を犯すことはできないと自分に言い聞かせることができる。そして私もイエスさまにかばっていただいている者なのだから、責められている人をかばって生きていこうと決心することができます。

困ったときには、どうぞ教会を訪ねてください。皆さんにとって耳触りのよい話ばかりできるわけではありません。罪は罪です。イエスさまがこの女性に最後におっしゃったように「これからはもう罪を犯してはならない」と言わなくてはならない場面もあるでしょう。自分の罪を悔い改めることからしか始めることのできない新しい人生というものがあるのです。

しかし、ひとりで思い詰めないでください。絶望しないでください。生きることをあきらめないでください。わたしには教会があると信じてください。

責める人々の前で、私が地面に何の絵かを描いてみても、それ自体が何の解決にもならないことは分かっています。しかし、皆さんと共にイエスさまが生きておられます。そのことを信じていただくときに必ず道は開けます。イエスさまが皆さんの側に立ってくださり、皆さんの命を守ってくださいます。そのことをどうか信じてください。

(2009年10月18日、松戸小金原教会特別伝道集会)

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2009年10月11日 (日)

「アブラハムが生まれる前から」

(音声の録音に失敗しました)

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ヨハネによる福音書8・48~59(連続講解第39回)

「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』と言い返すと、イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光を求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。』ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』イエスはお答えになった。『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じく私も偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。』ユダヤ人たちが、『あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」

今日の個所に記されていますのは、いささか野次馬的な言い方をお許しいただきますなら、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ人たちとの激闘の様子です。両者は激しく言い争っています。論争というよりは口論に近い。ただし、イエスさまはいたって冷静です。ボルテージが上がっているのはユダヤ人のほうです。彼らはついに石を手に取り、暴力に訴えようとしました。しかし、イエスさまは暴力に対して暴力で立ち向かうような方ではありませんので、その場を去って行かれました。

ユダヤ人たちがイエスさまに「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言っている意味については、先週ちょっとだけ触れました。それは、彼らが「わたしたちの父はアブラハムです」(8・39)と言い、また「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(8・41)と言っていることに直接関係しています。これは彼らのいわゆる純血思想です。我々ユダヤ人はあの偉大なる信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継いでいる民族なのであって、他の民族の血はいささかも混ざっていないのであるということを彼らは固く信じていました。そしてその点にこそ彼らの民族としての誇りを持っていました。そして彼らユダヤ人たちは、そのような純粋な我々と比べて、あのサマリア人たちは他の民族の血が混ざってしまっているという意味で純粋でない人々であるとも信じていました。サマリア人たちの血が不純であるということを指してユダヤ人たちは「姦淫」という言葉で表現したわけです。

ところが、彼らはこのときイエスさまがおっしゃったことに非常に腹を立てました。イエスさまがおっしゃったことは「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」(8・44)ということでした。これは、ユダヤ人たちがイエスさまのことを殺そうとしていることを指しておられる言葉です。

この言葉は、逆の方向から考えるとその意味が見えてくるものです。あなたがたは、今まさにこのわたしを殺そうとしている人殺しである。人を殺したいという思いは、神から与えられるものではなく、悪魔からのものである。ところが、あなたがたは、自分たちの父はアブラハムであると言い、アブラハムが信じた神御自身から生まれたものだと主張する。これはおかしい。まるで、あなたがたがこのわたしを殺そうとしているその思いは悪魔から与えられたものではなく、神とアブラハムから与えられたかのようだ。その理屈を突き詰めていけば、神とアブラハムを殺人犯に仕立て上げることになる。それは、あなたがたにとって都合のよい自己正当化の理屈にすぎない。イエスさまの思いを深く汲みとるとしたらこんな感じになるだろうと思われます。

しかし、彼らはイエスさまの言葉に耳を傾けようとしませんでした。それどころか、ますます腹を立てました。そして、悪いのはこのイエスという男のほうであって、我々は悪くないと考えました。この男を我々が殺すのは当然であり、この男が犯した罪に対する正当な裁きを行わなければならないと信じたのです。彼らが石を手にとって投げつけようとしたのは、怒りに任せて衝動的にそうしようとしたのではありません。これが当時の法律に定められた死刑の方法だったから、そうしたのです。

彼らがイエスさまに見出した罪の具体的な内容は、冒瀆罪でした。このイエスという男は神を冒瀆している。そのように彼らは確信するに至りました。彼らの確信の根拠となったイエスさまの言葉が、この個所に二つあります。第一は「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(8・51)です。第二は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(8・58)でした。「わたしはある」とはモーセの前で示された神のお名前である(出エジプト記3・14)ということは、既に説明しましたとおりです。

先に申し上げておきたいのはこのイエスさまの御言葉の真の意図です。まことの救い主であられるイエス・キリストのお語りになる御言葉を守る人は、死ぬことがない。アブラハムが生まれる前からイエス・キリストは「わたしはある」という方である。この御言葉の意味は、ただ単なる生物学的な不老長寿の話ではないということをわたしたちは知っています。「イエスさまの年齢は二千歳でした」というような話はただのオカルトです。イエスさま御自身はそのような意味でおっしゃっているわけではないのです。

ここから先、深刻な話だからこそ冗談めかした言い方をするのをお許しください。皆さんとふだんお話ししているときにしょっちゅう出る話は「わたしはあまり長生きしたくない」ということです。自由に動けなくなり、また自由に考えたり喋ったりできなくなることに多くの方々が恐れさえ抱いています。私はそのようなお話を伺うたびに「まあまあ、そんなこと言わないで長生きしてくださいな」と内心では思っているのですが、しかしまた、全く理解できないと感じているわけでもありません。

このことで私が申し上げたいことは、そのような生物学的な意味(というよりはオカルト的な意味)で考えられる「不老長寿」が仮に実現したからといって、それによって我々が幸せになるのだろうかという真剣な問いかけです。そんなことはないと多くの人々が考えています。長寿の方々を不愉快な思いにさせる意図はありません。しかし、です。人生の時間が長ければ長いほどよいと思っている人は多くありません。そこに何か別の要素が加わらないかぎり、時間が長いだけでは幸せにならないと思っています。

それでは「別の要素」とは何でしょうか。そのことを、わたしたちは知っています。それは、神の愛と憐みと赦しの力によってわたしたち人間が罪の中から救い出されるという要素です。神を知らず、救いを知らず、罪の状態のままで過ごす人生には牢獄の中にいるのに近いものがあるとさえ感じます。そのような人生なら一刻も早く終わりにしたいと願わざるをえないと言いたくなることさえあります。しかし、そのようなときにこそ、わたしたちはイエスさまの御言葉を思い起こすことができるのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。

この場合の「決して死ぬことがない」の意味は、神と共に永遠に生きる者となるということです。罪によって破壊された神との関係が修復され、神と人間との間の関係が正常化するのです。対立関係にあった神と人間との関係が永遠の和解に至るのです。永遠に生きておられる神と共に永遠に生きる者となるのです。これこそがこの御言葉の真の意味です。「わたしの言葉を守るなら」、すなわち、神の御子なるイエス・キリストの御言葉を通して父なる神の御心を知り、それに従う人生を始めるならば、「その人は決して死ぬことがない」、すなわち、神との関係が永遠に修復されて和解に至り、神を喜ぶ人生を永遠に続けることができるのです。

しかし、このような次元の話を、そこにいたユダヤ人たちは全く理解できなかったし、理解しようとしなかったのです。彼らは言いました。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。」アブラハムは死んだし、預言者は死んだではないか。あの偉大な人々も死んだのに、お前は、自分の言葉を守るなら、その人は決して死なないと主張する。お前は何様なのか。我々の父アブラハムよりも偉いとでも言いたいのか、ふざけるなと言っているのです。

これで分かることは、ユダヤ人たちが「永遠の命」ということをどのようにとらえていたかです。それは、先ほど申し上げたとおりのただ単なる「不老長寿」です。しかも、それは、彼らにとっては「ありえないこと」としてだけ考えられています。つまり彼らは「永遠の命」と「不老長寿」を同じものと考えたうえで、そういうことはありえないと思っていたわけですから、要するに彼らは「永遠の命」など全く信じていなかったのと同じであるということが分かります。たとえそのようなことが聖書に書いてあろうとも、宗教家たちが何度説教しようとも、彼らはそれを信じていなかったのです。ただの絵空事のように思っていたのです。

繰り返しになりますが、イエスさまがお語りになる場合の「永遠の命」の意味は不老長寿ではありません。ただし、その一方で我々が誤解すべきでないと思いますことは、それでは「永遠の命」とは何なのかと考えたときに、この世から離れた「あの世」、あるいは物質世界から隔絶された精神世界で、ふわふわとした霊のような状態になっていつまでも生き続けることであるというようなイメージを抱くことも間違いであるということです。しかし、この問題に立ち入る時間が今日はもうありません。イエスさまがおっしゃっていることの核心は、「神との関係」というこの一点にあるとだけ申し上げておきます。神との関係が永遠に続くこと、それこそが「永遠の命」の内容です。

イエスさまが「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とおっしゃったのも同じことです。神の御子は、父なる神と共に永遠に生きておられる方であるゆえに、「アブラハムが生まれる前から」父なる神のもとにおられた方なのです。つまり、イエスさまがおっしゃっていることは、わたしは神であるということなのです。

このことはもちろん信仰の問題です。イエスさまを「わたしはある」と称する方として、すなわち、真の神として、神の御子として、御子なる神として信じることがわたしたちに求められているのです。

(2009年10月11日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2009年10月 4日 (日)

「神に属する者は神の言葉を聞く」

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ヨハネによる福音書8・31~47(連続講解第38回)

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。』彼らが答えて、『わたしたちの父はアブラハムです』と言うと、イエスは言われた。『アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。』そこで彼らが、『わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です』と言うと、イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。』」

先週の個所の最後に記されていた言葉は、わたしたちにとって慰めを感じるものでした。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(8・30)。イエスさまが御言葉を一生懸命語っておられるのに、なかなか聞く耳を持つ人がいない。聞く耳を持つどころか、あることないこと、やいのやいの言われる。そもそもイエスさまの命を虎視眈々とつけ狙っている人々が見張っている中でもある。イエスさまの説教を妨害したい人々が言いたい放題のことを言い出す。しかし、そのような中でイエスさまの御言葉に耳を傾け、信じる人々がやっと現れた。これは本当に素晴らしいことだと、ほっと胸をなでおろしたくなるようなことが書かれていました。

ところが、です。そのようにして御自身の言葉にやっと耳を傾け始めた人々に対して今日の個所でイエスさまがおっしゃっていることは、かなり厳しい内容であるということが、読むとすぐに分かります。イエスさまのなさることに文句を言うことは慎まなければなりませんが、物事の進め方としては、かなり勿体ない感じもします。せっかく仲間になってくれそうな人々が見つかったのに、その人々に対してイエスさまが痛烈な批判を述べておられるわけです。このようなやり方は、人々を集めようとするやり方であるというよりも、散らそうとするやり方ではないかとさえ感じられます。

しかし、ここでやはりわたしたちが考えなければならないことは、このようなイエスさまのなさり方が間違っているわけではないということです。大雑把な言い方ですが、イエスさまは単なる人集めや政治的な票集めをなさっているのではないということです。イエスさまが父なる神さまのもとから遣わされてきた目的は「真理を語ること」であると自覚しておられました。真理とはしばしば耳触りの悪いものでもあるということを、わたしたちは考えざるをえません。

御自分を信じたユダヤ人たちにイエスさまがおっしゃった言葉は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というものでした。これがさっそくユダヤ人たちの気に障るものになりました。「真理があなたたちを自由にする」と言われると、今の我々は不自由であると言われているかのようだ。まるで奴隷扱いだと感じて反発したのです。我々は奴隷になど一度もなったことはないと。

それに対してイエスさまが言われたのが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(8・34)という御言葉でした。そして、彼らユダヤ人がいかに罪深い存在であるかを示している動かぬ証拠は、このわたし、イエス・キリストを殺そうとしていることであるということを語られはじめたのです。次のように語られています。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(8・37)。

イエスさま、ちょっとお待ちくださいと言いたくなる場面です。「多くの人々がイエスを信じた」(8・30)と書かれているではありませんか。信じた人々がせっかくたくさん与えられたのに、その人々に「あなたたちはわたしの言葉を受け入れない」とおっしゃるのはひどいではありませんかと。しかし、イエスさまは、彼らの信仰は本心ではなく、うわべだけであると見ておられたに違いありません。

さて、この個所で説明が必要であると思われる部分は、ユダヤ人たちがイエスさまの前で繰り返し「わたしたちはアブラハムの子孫です」(8・33)「わたしたちの父はアブラハムです」(8・39)と主張し、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(8・41)と言い張っていることの意味は何だろうかということです。とくに「姦淫」とは何を意味するのかを考えておく必要があるでしょう。

彼らが言っていることを簡単に言い直せば、我々はいわゆる混血ではないということです。混血、これは今では全くひどい差別用語ですので、口にするのも嫌な表現ではあるのですが、要するに複数の民族の血が混ざっている状態を指して言うものです。ユダヤ人はそうではないと言いたいのです。我々は信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継いでいる者たちであると。我々だけがそうであって、我々以外の民族、とりわけサマリア人には異邦人たちの血が混ざっている。アブラハムの血を純粋に保とうとしない彼らは「姦淫」の罪を犯したのであると言いたいのです。全くうんざりさせられます。

もう一つ考えてみたいのは、「信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継ぐ」とは彼らユダヤ人たちにとって何を意味するのかという点です。その内容ははっきりしています。それは、我々ユダヤ人こそがアブラハムが信じた神から生まれた神の子であるということです。「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」(8・41)と彼ら自身が言っているとおりです。

この理屈がわたしたちにとっては非常に分かりにくいものになるはずです。なぜ分かりにくいかと言いますと、彼らが言っていることを突き詰めると、まるで信仰とは血から血へと(自動的に!?)遺伝するものであると言っているかのようになってしまうからです。この点は、わたしたちには全く受け入れられません。理屈の上でも体験的にも受け入れられません。信仰者の子どもたちが自動的に信仰者になったという例を、わたしたちはいまだかつて一度も見たことがありません。そんなふうになるくらいならば、わたしたちが自分の子どもの信仰のことで苦労することなどは全くありません。これほど苦労して毎週教会に通う必要もない。これほど苦労して子どもたちを教会に通わせる必要もない。そもそも地上の教会など不要です。伝道集会など行う意味がありません。もしわたしたちが何もしなくても、自動的に血から血へと信仰が遺伝するならば、です。そのようなことはありえないと信じているからこそ、わたしたちは自分の子どもたちを教会に通わせてきたのです。信仰の継承には血のにじむような努力が必要であるということを、わたしたちは痛いほど知っているのです。

しかし、彼らユダヤ人たちが、自分たちの血が偉大なる信仰者アブラハムの血を純粋に受け継ぐものであるということに民族としての誇りを持つこと自体が間違っているとか、迷信であるなどと言う必要はありません。しかし彼らはやはり致命的な過ちを犯しています。その自分たちの純血性を強調するあまり、自分たち以外の人々をひどく見くだし、毛嫌いし、退けるところに罪があると言わなければなりません。「わたしは誰々の子孫である」ということを誇りにすること自体については「どうぞご自由に」と言う他はありません。しかし、そのようなことを言う人々が勢い余って、自分たちと比べて他の人々の血は汚いだの醜いだの罪深いだの言いだしはじめるときには「どうぞご自由に」などと言っている場合ではなくなります。全力を尽くして反対しなければならなくなります。そのような馬鹿げた考えは今すぐに捨てるべきであると、強く激しく戒めなければならなくなります。

ところが、この個所でイエスさまがユダヤ人の言動について問題にしておられることは、いま私が申し上げた点ではありません。問題にしておられるのは、あなたたちユダヤ人は差別主義者であるということではありません。問題にしておられるのは「あなたたちはわたしの言葉を聞こうとしない」という点です。「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」(8・47)とおっしゃっているとおりです。

先ほど申し上げました、ユダヤ人たちが言っていることが、まるで信仰というものが血から血へと自動的に遺伝するものであるかのように聞こえてしまうこと(読めてしまうこと)に彼らの間違いがあるという点を、イエスさま御自身が(この個所で)指摘しておられるわけではありません。しかしこのことも全く無関係とは思えません。もし信仰というものが血から血へと遺伝するものであるならば、教会に通う必要はないし、説教を聞く必要はないからです。このことを逆に考えてみれば、信仰とは遺伝によって(生物学的に?)受け継がれるものであると思い込んでいたユダヤ人たちがイエスさまの説教どころか、だれの説教をも真面目に聞こうとしなかったとしても、当然すぎるほどであるということに気づかされます。

ましてそのような人々が、イエスさまがお語りになる「真理」などというものに興味を持つはずがありませんでした。真理とはしばしば耳触りの悪いものだからです。彼らにとって耳触りのよい話は、自分のグループに属する人々が他のグループの人々に比べていかに純粋であるかということであり、他の人々はいかに醜く、汚らわしいかということだったことでしょう。そのような悪魔的な話題には食指を動かし、イエス・キリストの語る「真理」は無視する。それが当時のユダヤ人の姿でした。

わたしたちはこのような過ちには決して陥るべきではありません。くどいようですが、信仰は血によって遺伝しません。信仰は、神の御言葉の説教によって、教会生活を通して受け継がれるものです。イエスさまの言葉をお借りすれば、御言葉を聞かない人々は「神に属していない」のです。

(2009年10月4日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2009年9月27日 (日)

「三位一体の神」

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ヨハネによる福音書8・21~30(連続講解第37回)

「そこで、イエスはまた言われた。『わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。』ユダヤ人たちが、『「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか』と話していると、イエスは彼らに言われた。『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。』彼らが、『あなたは、いったい、どなたなのですか』と言うと、イエスは言われた。『それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。』彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしも、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」

今日の個所に至って、ヨハネによる福音書の難解さが絶頂点に達すると言うべきかもしれません。一回や二回読むだけで「分かった」と言える人は少ないでしょう。ユダヤ人たちを含む大勢の人々の前でイエスさまがおっしゃっていることは何でしょうか。三つほどのポイントを挙げてみます。

第一のポイントは、「わたしは去って行くが、わたしの行く所にあなたがたは来ることができない」ということです。イエスさまは、どこに行かれるのでしょうか。それははっきりしています。イエスさまが「わたしの行く所」とおっしゃっているのは「父なる神のみもと」です。そのところにわたしは行くことができるが、あなたがたは行くことができないと言っておられるのです。

第二のポイントは、「わたしは上のものに属しているが、あなたがたユダヤ人たちは下のものに属している」ということです。補足として、あなたがたは「この世」に属しているが、わたしは「この世」に属していないと語られています。つまり「この世」が「下のもの」です。そして「上のもの」とは「下のもの」の反対ですので、「この世」の反対。ということは「あの世」のことかとお考えになる方も多いでしょう。しかし「あの世」とは何でしょうか。それはどこにあるでしょうか。今申し上げることができるのは、イエスさまのおっしゃる「この世」の反対は我々のイメージする「あの世」とは本質的に違うものであるということです。

ここで第一のポイントに絡みます。イエスさまにとって「この世」の反対は「あの世」というような所ではなく常に「父なる神のみもと」なのです。聖書の中で「天」ないし「天国」が意味することは常に「神がおられるところ」です。ですから、わたしたちはこのイエスさまの言葉を衝撃をもって聞かなければなりません。「父なる神のみもと」としての「天」もしくは「天国」に行くことができるのはイエスさまおひとりだけであって、他の誰も行くことができないと言われているのです。

第三のポイントは「わたしはある」という不思議な言葉の中に隠されています。これは何でしょうか。「わたしはある」という日本語はありません。支離滅裂な響きを感じます。しかし、イエスさまのおっしゃっていることが支離滅裂であると言いたいわけではありません。あるいは、新共同訳聖書の日本語がおかしいと言いたいのでもありません。イエスさまは確かに「わたしはある」と言われたのです。ただし、その意味は、当時の人々にとっても、今のわたしたちにとっても、よほど詳しい説明でも受けないかぎり全く理解できそうもないようなことを、イエスさまはお話しになっているのです。

これから申し上げることはいま挙げた三つのポイントに共通している問題に対する答えです。三つのポイントをまとめていえば、イエスさまがこれから行かれるところは父なる神のみもとであるが、そこに行くことができるのはイエスさまひとりだけであって、他の誰も行くことができない。そして、そこにイエスさまが行かれたときに初めて、イエスさまこそが「わたしはある」という存在であるということがイエスさま以外の人々に分かるということです。

ここで考えてみたいことがあります。それは、なぜわたしたちはこのイエスさまのお話を難しいと感じるのかというその理由ないし原因です。私にはすぐ思い当たります。それは主に第一のポイントと第二のポイントにかかわることです。

皆さんの中にも、「父なる神のみもとに行くことができるのはイエスさまだけであって、他の誰も行くことができない」という言葉を聞くと躓きを感じるという方がおられないでしょうか。手を挙げてくださいとは申しませんが、おそらくきっとおられるはずです。なぜでしょうか。私自身も含めて多くのキリスト者が長年聞いて来た教会の説教の中で「わたしたちが死んだら父なる神のみもとに行くのだ」ということを繰り返し教えられてきたからです。その教えが間違っているわけではありません。しかしそれにもかかわらず、「父なる神のみもと」に行くことができるのはイエスさまだけであって、他の誰も行くことができないのだというようなことを言われてしまいますと、「それでは我々はどこに連れて行かれるのか」という点で不安を感じたり、反発を覚えたりする人が出てくるわけです。それは無理もないことです。このイエスさまのお話を理解できない理由ないし原因は、わたしたちがこれまで聞いて来た説教の内容とは違うことが語られているように感じるという点にあるのではないだろうかと、私には思われるのです。

しかし、ここから先は励ましと慰めの言葉です。どうかご安心ください。わたしたちも間違いなく「父なる神のみもと」に行くことができます!「どこに連れて行かれるのだろうか」と心配することは全くありません。ただしそれはイエスさまがおっしゃっているのとは違う意味です。どこが違うのか。イエスさまの行かれる所と、わたしたちが行く所とは、同じ「父なる神のみもと」であっても、違う所なのだということです。ますますややこしい話をしてしまっているかもしれませんが、事情は今申し上げたとおりです。誤解を恐れず言えば、「父なる神のみもと」には二種類あるということです。イエスさまが行かれる所と、わたしたちが行く所は、違う所なのです。

しかし、どう違うのでしょうか。その説明をするためには、第三のポイントにかかわる答えを先に申し上げる必要があります。第三のポイントとはイエスさまがおっしゃる「わたしはある」とは何のことかという問題でした。すぐに答えを言います。このイエスさまの言葉には、明らかに旧約聖書的背景があります。お開きいただきたいのは出エジプト記3・13~14です。次のように記されています。

「モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エジプト記3・13~14)

はっきり言います。イエスさまはこの出エジプト記の個所を念頭に置きながら、御自身を指して、このわたしこそが「わたしはある」と呼ばれるものであるとおっしゃっているのです。つまりイエスさまは「わたしは神である」とおっしゃっているのだということです。

このイエスさまの御言葉は、当時の人々の耳には、ほとんど間違いなく衝撃的な言葉として響いたはずです。イエスさまのお姿はどこからどう見ても、ただの人間にしか見えなかったはずです。そのイエスさまが「わたしはある」、すなわち「わたしは神である」とはっきりおっしゃったのですから、この言葉の旧約聖書的な背景を知っていた人々の中に驚かなかった人はいなかったはずです。または、驚くというよりは激しい怒りを抱いた人々も少なくなかったはずです。ただの人間に過ぎないこの男が「わたしは神である」と最悪の暴言を吐き、神を著しく冒瀆したと見た人々は多かったでしょう。

しかし、これは信仰の事柄であると、申し上げなければなりません。ここでわたしたちが全く否定できないことは、イエスさまはたしかに「わたしはある」とおっしゃることによって「わたしは神である」と明言されたということです。そして、そのことを聞いてひたすら激しく怒り、拒絶し、最悪の冒瀆罪を犯したとみなして断罪するか、それともイエスさまのおっしゃるとおりであると信じるかは、あれかこれか、二者択一の事柄であるということです。

わたしたちキリスト者と代々のキリスト教会は、イエス・キリストを「神」と信じる信仰に立っています。つまりイエスさまが御自身を指して「わたしはある」と言われたことを否定するのではなく肯定する信仰に立っています。イエス・キリストは神なのです。この点を譲ることはできません。

そしてこの点から、先ほど触れたまま、まだ答えの出ていない問題に帰ります。同じ「父なる神のみもと」でも、イエスさまが行かれる所と、わたしたちが行く所は違うという問題です。どう違うのでしょうか。これもすぐに答えを言います。イエスさまは神です。神の御子であり、御子なる神です。そのイエスさまが「父なる神のみもと」に行かれるという意味は、神としてのイエスさまが本来の姿にお戻りになるということです。つまり、本来「神」であられるイエスさまが、まさに神になられること、それがイエスさまの父なる神のみもとへの帰還の意味であるということです。

しかしそれに対して、わたしたちが「父なる神のみもと」に行くという場合には、わたしたち自身が神になるわけではないという点が全く違います。わたしたちは死んでも神にはなりません。地上の人生においてどれほど立派な働きをしても、だからといってわたしたち自身が神になるわけではありません。わたしたちが父なる神のみもとに行くときに起こることは、永遠に神に仕える者になられるということです。その場合、わたしたちが仕える神は三位一体の神です。そこには父なる神がおられ、御子なるイエス・キリストがおられ、聖霊なる神がおられます。

ただし、三人の神さまであるとお考えにならないでください。ある神学者の説明を借りて言えば、三位一体の神は「1+1+1=1」(足し算)ではなく「1×1×1=1」(掛け算)なのだ、ということです。しかし、こんな言い方ではますます分かりません。別の言い方をすれば、おひとりの神が地上の人間に対して三回、異なる姿でかかわってくださったのだ、ということです。

わたしたちに問われていることは、あなたはこのことを信じるかということです。あなたはイエス・キリストは「わたしはある」と称される神御自身であるということを信じるか、ということです。

(2009年9月27日、松戸小金原教会主日礼拝)

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