フィリピの信徒への手紙

2008年12月28日 (日)

「あなたがたの必要をキリストが満たしてくださる」

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フィリピの信徒への手紙4・15~23(連続講解第16回・最終回)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。キリスト・イエスによって結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」

フィリピの信徒への手紙を、今年9月初めから半年にわたって学んできました。今日は最後の個所を学びます。この個所にパウロが書いていることも、基本的には先週の個所と同じようなことです。フィリピの教会の人々がパウロの伝道活動を経済的ないし金銭的に支援してくれたことに対する感謝の言葉です。

この件に関してパウロは大きなスペースを割いています。新共同訳聖書の中でこの手紙は6ページとちょっとあります。そのうちほぼ1ページ分がこのことのために割かれています(4・10~20、2・25~30)。つまりこの手紙の6分の1が献金への感謝の言葉なのです。

フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれてきました。喜びという言葉が繰り返し出てくるからです。しかし私は、この手紙の中には喜びについてだけではなく苦しみや悲しみや涙についても書かれているということに皆さんの注意を促してきたつもりです。キリスト教信仰の肯定的・積極的な要素だけではなく、否定的・消極的な要素についても多く書かれていました。この手紙には「苦しみの手紙」とか「涙の手紙」とも呼ばなければならない面もあると申し上げてきました。

そしてこの手紙にはパウロを助けてくれた教会への「感謝」の言葉もたくさん書かれています。しかも、その感謝はフィリピの教会の人々がパウロと苦しみを共にしてくれたことへの感謝です。それはまさしく苦しみへの感謝、涙への感謝です。

このことを見ながら私が考えさせられることは、やはりどうしてもわたしたちの教会の現実です。松戸小金原教会だけのことにはしたくありません。日本キリスト改革派教会のこと、そして日本のキリスト教会全体のことを考えさせられるのです。

松戸小金原教会は昨年と今年の二年間、「主の日の礼拝を楽しみ、日々、生き生きと過ごそう」という標語を掲げてきました。そして目標聖句は「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8・10)というものでした。この標語と目標聖句を提案したのは私です。キリスト教信仰における喜びや楽しみの要素を強調したいと願ったからです。そのことは皆さんに十分に理解していただいたと感じています。

しかしまた、二年間の歩みの中で同時に感じてきたことを一言で表現するとしたら、教会の伝道が思うように進まないということでした。喜んでばかりはいられないと感じさせられてきたのです。

この点については何一つ開き直って言うべきことではないことはよく分かっています。しかし一つだけ申し上げておきたいのは、伝道が思うように進んでいないのはわたしたち松戸小金原教会だけのことではないということです。日本の教会全体が苦しんでいます。ある先生の言葉をお借りすると、今の日本の教会の伝道は「惨憺たる有様」です。それが日本の教会全体の共通認識です。

なぜそのような状態なのかについてはいろんな分析もなされています。しかし今日それをお話しすることは控えます。何となく言い訳がましくなってしまうからです。

そのことよりもむしろ今日お話ししたいのは、「惨憺たる有様」であると指摘されている今の日本の教会の現実を直視しつつ、これからなおしばらくの間、わたしたち自身が、一つの重大な覚悟ないし決意を持つことが必要であるということです。それは、わたしたち一人一人が伝道の困難なこの時代の中にあって、キリストのため、教会のため、伝道のために苦しむことを引き受けることへの覚悟ないし決意です。

ここでぜひ思い起こしていただきたいのは、次の言葉です。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1・29)。パウロはこの言葉を「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と信じることができたフィリピ教会の人々への励ましの言葉として書いています。

パウロの時代の教会も、右肩上がりに成長していたわけではありません。伝道の伸び悩みに関してはわたしたちが感じているのと同じような、あるいはわたしたち以上の苦しみがパウロの時代の教会にありました。そしてパウロの認識のなかには、教会の伝道が思うように進まない原因の少なくとも一つとして、教会の外側には「反対者たち」がいるという点がありました。そのことを無視できないのです。

しかし、です。パウロは、教会の外側で伝道を妨げている人々のことを強く非難したりその人々の責任を問うたりするようなことには、ほとんど言及しません。むしろパウロは、どんなに反対されても妨げられても救い主イエス・キリストへの信仰を持ち続け、教会にとどまり続けている人々を励ますことにひたすら集中するのです。それがパウロの信仰の特質であると言えるかもしれません。伝道が思うように進まないことを教会の外側にいるどこかのだれかのせいにして問題を片づけるのではなく、「キリストのために苦しむことは神から与えられた恵みなのだ」という言葉をもって、教会の人々を力づけるのです。

日本の教会の場合、伝道が進まない理由を日本古来の宗教のせいにしたり、今の日本の政治のせいにしたり、今の時代風潮のせいにしたりすることは、ある意味でいとも簡単なことです。そうだと言ってしまえば誰も反対できないでしょう。しかしわたしたちの意識をそこに持って行くのではなく、別のところに持って行く。しかしまた、ただ自分自身を責め続けるだけでも意味がないでしょう。今こそわたしたちが考えるべきことは何なのかということを、私はこの手紙を読みながらいろいろと考えさせられてきました。

その中で注目させられたことがあります。それは、パウロが、キリスト者に与えられる恵みとしての苦しみの中に、教会とその伝道を支えることに伴う苦しみという点を加えていることです。もっとはっきり言っておきます。4・14に書かれているとおり、パウロは、このわたしのためにたくさんの贈り物や献金をしてくれているあなたがたは「よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言って、自分の生活を切り詰めてまで教会とその伝道を支援してくれている人々を激励しています。

もちろんパウロは「物欲しさにこう言っているのではありません」(4・11)とも書き、また今日の個所では「贈り物を当てにして言うわけではありません」(4・17)とも書いています。明らかに、変な詮索をされることを嫌がっています。しかしパウロは、この点では非常に現実主義者です。物やお金の問題で人がどれほど苦しみを味わうかを熟知しています。この問題についてパウロは無頓着ではありません。なぜなら、他ならぬパウロ自身が、伝道旅行の最中、そのようなことで苦しみ抜く経験をしたからです。

ここから痛烈に考えさせられることがあります。それは、教会の伝道が思うように進まないのは、教会の活動に参加することそのものに大きな苦しみが伴うからでもあるからではないかということです。不況の中で厳しい生活を強いられている人々がいます。その人々が「教会に参加することによって今以上の負担を負うことになるのは勘弁してほしい」と言いたくなる気持ちを持つことを誰が否定できるでしょうか。この点についてわたしたちがあまりにも無頓着であることはできないだろうと思っています。

今日の個所の最初のところでパウロは、フィリピの教会の人々への感謝の言葉を述べています。「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」これが事実であるとしたら、パウロにとっては厳しいことであったに違いありません。はっきり分かることは、当時のキリスト教会の中にはパウロの伝道を助けようとする人々と、助けたくないと考える人々とがいたということです。

これはパウロのフィリピ伝道が第二回伝道旅行の中で行われたことと関係しているのではないかと思われます。第二回伝道旅行はエルサレムの使徒会議(使徒言行録15章)の直後に行われました。使徒会議では「人が救われるためにもはや割礼を受ける必要はない」と主張したパウロたちと「割礼を受ける必要がある」と主張した人々が激突しました。パウロの言葉や行いを信用しない。そう考えた人々は、彼のことを助けようとしなかったのです。

しかし、そこから先はパウロの性格にも関係していると思われます。パウロという人は、自分を支持してくれる人が少ないから、物やお金の面で助けてくれる教会が少ないから、伝道旅行自体を取りやめるというようなことは、おそらく考えもしなかったのです。何は無くとも出かけなければならない。イエス・キリストの福音によって救われるべき人々がこの世界にいるかぎり。そのような覚悟と決意とをもって出かけていったのです。無謀と言えば無謀、危険と言えばこれ以上の危険はないほどの旅行であったと言えるでしょう。

ところが、なんと幸いなことに、パウロにとっては旅先で出会っただけであるような人々が彼の伝道を支えてくれることになりました。それがフィリピの人々でした。

そのフィリピ教会の人々に対してパウロは、もしかしたら誤解を生むかもしれない言葉を書いています。「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(17節)。何が「あなたがたの益となる豊かな実」なのでしょうか。はっきりしていると思います。あなたがたフィリピ教会の人々がささげてくれている献金そのものが、あなたがた自身にとっての利益であり、豊かな実りなのだと言っているのです。

ここで考えなければならないことは、伝道旅行中のパウロが伝道している相手は、どう考えてもフィリピの町に住んでいる人々ではなかったということです。その意味は、彼らが献金した分だけフィリピ教会の会員が増えるというような事情にあったわけではないということです。パウロが言っていることは、明らかにもっと広く大きなことです。世界に広がるキリストの体なる教会全体の成長と発展という大目標のために貢献することこそが、あなたがた自身の利益なのだということです。

急に身近な話をします。わたしたちの教会の会計報告をご覧いただきますと、かなりの部分が日本キリスト改革派教会の大会や中会、また神学校のためにささげるものであるとお分かりいただけるはずです。私は松戸小金原教会の牧師でもあると同時に大会や中会の議員でもある者として、その面からも皆さんに感謝を述べなければなりません。そして、パウロと共に、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)という言葉で、皆さんを激励しなければなりません。

今日この2009年の最初の礼拝において私が最後に申し上げたいことは、「どうかみんなで苦しみましょう」ということです。キリストのため、教会のため、伝道のために苦しみ抜いた人を、わたしたちの神は、決してお見捨てにならないからです!

(2008年12月28日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年12月21日 (日)

「苦しみを乗り越える力、それがキリスト」

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フィリピの信徒への手紙4・10~14(連続講解第15回)、ルカによる福音書2・15~20

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」(フィリピ4・10~14)

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2・15~20)

クリスマスおめでとうございます。先週の日曜学校クリスマス礼拝・祝会に引き続き、今日もクリスマス礼拝・祝会を行います。神の恵みを豊かに味わい、楽しく過ごしたいと願っております。

今年のアドベントは、フィリピの信徒への手紙とルカによる福音書を同時に学んできました。とくにフィリピの信徒への手紙については、パウロがそろそろこの手紙を終わりにしようとしている個所を学んできました。

今日の個所に書かれていることは、伝道旅行中のパウロを経済的ないし金銭的に支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝の言葉です。以前学びましたとおり、フィリピ教会の人々は、旅先で物資が尽きてしまい苦しんでいたパウロの状況を知ったので、教会の中で献金を集め、また必要な物を集めて、それらすべてをエパフロディトという男性に託しました。エパフロディトはその大きな荷物を抱えて、パウロのもとまで長い旅をしたのです。ところが、エパフロディトはその旅の最中にひん死の病気にかかりました。彼自身も非常に大きな苦しみを味わったわけです。しかし彼はとにかく自分自身に託された使命を全うし、預かったものすべてをパウロに届けることができました。

このことをパウロはフィリピ教会の人々への感謝の言葉として今日の個所に書いているのです。いやそれどころか、客観的に眺めてみますと、実はこの手紙全体が、パウロからすれば自分の生活を支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝を表すために書かれたものであると見ることも可能なほどです。実際にそのように主張する聖書学者もいます。その主張とは、パウロがこのフィリピの信徒への手紙を書いた目的は、教会の人々がささげてくれた「献金」に対する感謝を述べるためであったというものです。

私はなぜこのような話をしているかについては説明が必要でしょう。わたしたちが毎年行っているクリスマス礼拝がいつも一年の終わりの時期に行われることは意義深いことであると感じます。クリスマス礼拝においてわたしたちが思い巡らすべきことは、神の御子イエス・キリストが来てくださったことの意味であり、その恵みの豊かさです。神が独り子をお与えくださったほどに世を愛された、その愛の大きさです。クリスマスと言えば巷では「プレゼントをもらう日」ということになっていますが、そのすべてが悪いということはありません。しかし、ただもらうだけで終わるなら、ちょっと悪いかもしれません。プレゼントをもらった人は、くれた人に対して感謝しなければなりません。クリスマスは「プレゼントをもらったことへの感謝を述べる日」でもなくてはならないのです。

教会の牧師たちは、クリスマスだけではなく、まさに一年中、教会の皆さんから生活を支えていただいています。教会の皆さんのプレゼントによって牧師の生活が支えられています。そのことについて牧師がクリスマスのときだけ感謝を述べるというのでは足りないとは思いますが、こういうことはなかなか口にする機会がないものです。感謝が足りていないとしたら、どうかお許しください。この場をお借りしてお礼を申し上げます。いつも助けていただき、本当にありがとうございます!

この個所でパウロは自分の働きのために献金してくれたフィリピ教会の人々に対して、読み方によっては何となく奇妙な感じに響いてしまうような言葉を書いています。「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と。

何となく奇妙な感じと言いますのは、このように書いているパウロがまるで、わたしは別にあなたがたの献金を当てにしているわけではありませんとでも言っているかのようだという点です。献金が少なければ少ないなりに何とかしますので、どうぞご心配なくと。おやおやパウロ先生、教会の人々にしっかり助けてもらっていながらこのような言い方をするのは、教会の人々に対して失礼ではないかと感じなくもありません。

しかし、牧師の仕事をしている者たちからすれば(その中には私も含まれるわけですが)、パウロがこのように書いていることの意味はよく分かるものです。やや俗っぽい言い方かもしれませんが、「わたしたち(牧師たち)は、お金のためにこの仕事をしているわけではない」という自覚と自負を持っているからです。パウロは「物欲しさにこう言っているのではありません」と書いています。今の牧師たちなら「格好をつけてこう言っているのではありません」と書くかもしれません。無ければ無いなりに何とかする。このような考え方を全く持っていないような牧師には、この仕事を続けていくことは不可能です。

パウロは続けて「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と書いています。「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を知っています」と。もちろんこのことが今のわたしたち牧師たち全員に当てはまることかどうかは分かりません。しかし、私自身が本当に幸せであると感じてきたことは、牧師の仕事をするということは、まさにパウロが書いているとおり、実にさまざまな状況を体験することができるということであり、神から与えられた人生の中でいろんな変化やいろんな苦しみを味わうことができ、しかしまた同時に、その苦しみを乗り越える「すべ」もしくは「秘訣」を身につけ、強くなっていくことができるということです。

私の長男は、1994年のクリスマス礼拝の次の日に生れました。翌年のクリスマスは同じ場所で迎えましたが、その翌年のクリスマスは、私が次に働くことになった教会で迎えました。さらにその翌年のクリスマスは神戸改革派神学校で迎えました。その翌年は山梨県でクリスマスを祝いました。そのとき子どもは二人に増えていました。長男は4歳になるまで、ほぼ毎年違う場所でクリスマスと自分の誕生日を迎えました。親の都合で引きずり回されているという感覚を、幼心に抱いていたかもしれません。本人に聞きますと「何も覚えてないよ」と言ってくれますが、私自身は申し訳ないことをしたという気持ちを未だに持っています。

しかし、そのような大きな変化の中で子どもたちも妻も、そして私も非常に鍛えられてきたと感じています。とくに長男はその町に友達ができたと思ったらまた引っ越しという体験をまだ十分に物心がつかないうちに、何度も繰り返させてしまいました。そのことを本人は「覚えていない」と言うのですが、友達を大切にする人間になってくれたと思っています。長女のことも言わないと不公平なので言いますが、長女も同じです。妻のことは本人に聞いてください。

わたしたち牧師たちとその家族は、自分が仕えている教会に生活を支えてもらうことによって、まさにいろんな人生を体験することができます。今の日本の牧師たちが豊かさを体験するということはあまりないかもしれませんが、それでももっと大きな苦しさの中にある人々のことを考えるならば、わたしたちなりの豊かさを体験もし、しかしまた厳しい生活も体験する。体験できるのです。そしてそうしているうちに、実にさまざまな、ありとあらゆる状況のなかで生きていくことができる「すべ」または「秘訣」を身につけることができます。これらのことは、願ってもなかなか得ることができない貴重な体験であり、まさに神の恵みであると信じることができるものなのです。

そして、そこからさらに、パウロの言葉を借りれば「習い覚える」、つまり「レッスンを受ける」ことができるのは、次のようなことです。

すなわち、わたしたちは、まさにこの世界全体の中に生きている人々が体験しているいろんな苦しみを理解することができます。その人々の悩みや叫び、また愚痴のようなものに共感することができます。しかしまた、そのような人々がどうしたら喜びや幸せを見出すことができ、感謝の人生を始めることができるのかについて自分たち自身の体験に基づく言葉を語ることができます。「牧師たちは世間知らずである」とは言われたくありません。「苦しみも涙も知っているよ」と言いたいです。「それでもどっこい生きているよ」と言いたいです。わたしをも強めてくださる方、わたしたちの救い主イエス・キリストのお陰で、わたしにもすべてが可能ですとパウロと共に言いたいです。本当に、真実に、そのように語ることができるのです。

イエス・キリストがお生まれになった夜に天使がベツレヘムの羊飼いに語ったことは、「救い主」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であることが「あなたがたへのしるし」であるということでした。この天使の言葉の趣旨はどう考えてもやはり「あなたがた貧しい人々へのしるし」であるということです。通常、豊かな人の子どもが飼い葉桶の中に寝かされることはありえないからです。貧しさの中で苦しんでいる人々のところに救い主が来てくださった。救い主は貧しい姿をしておられる。天使の言葉はそのように理解することが可能です。

逆に考えてみて、満ち満ちた豊かさを持った人が「わたしが救い主です」と言いながら登場するとしたらどんなふうだろうかと思わされます。たとえば、自分に与えられた権力を思いのままに振い、贅沢三昧の暮らしをしていたローマ皇帝が、あるいは当時のユダヤの王たちが「わたしが救い主です」と言っている姿は、彼らの暴力的支配のもとで苦しみを味わわされていた人々からすれば、何とも滑稽に見えたでしょうし、怒りや憎しみさえ覚えたでしょう。「わたしたちはあなたに救ってもらいたくはない。あなたから救われたい」と願ったことでしょう。ベツレヘムの羊飼いたちの前で起こった出来事を理解するために、今申し上げた点は重要であると思います。

クリスマスは贅沢三昧にふるまってよい日ではありません。正反対です!貧しさの中で苦しんでいる人々を助けてくださるために、救い主イエス・キリストが、御自身も貧しい姿をとって来てくださったことを感謝する日です。わたしたちの救いはお金に代えがたいものであることを知る日です。わたしたちがたとえどのような状況にあっても、救い主がそのような方であることを信じることができるときに絶望することがないと信じる日です。

今の世界的な経済不況の中で絶望している人は、どうか私の言葉に耳を傾けてください。

あなたの人生は、まだ終わっていません!

キリストがあなたを救ってくださる。そのことを信じていただきたいのです。

(2008年12月21日、松戸小金原教会クリスマス礼拝)

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2008年12月14日 (日)

「平和の神はあなたがたと共におられます」

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フィリピの信徒への手紙4・8~9(連続講解第14回)、ルカによる福音書2・13~14

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(フィリピ4・8~9)

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(ルカ2・13~14)

「終わりに」と書いてパウロは、今度こそ手紙を締めくくろうとしています。もちろん実際にはまだ終わりません。なお続きがあります。しかしそれでもパウロの気持ちの中では、とにかくこのあたりでそろそろ終わろうとしたのです。

手紙にせよ、論文のようなものにせよ、最後に書くのは、たいていの場合は、これまで書いてきたことのまとめであり、結論です。わたしは要するに何が言いたいのか、です。そのようなことをパウロは、ここにまとめているのです。

「すべて」の真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさいとパウロは書いています。また、「徳や称賛に値すること」もそうだと言っています。

ここにパウロが数え上げているのは、いわゆるギリシア的な美徳です。旧約聖書的な、ヘブライズム的な美徳ではありません。ヘレニズム的な美徳です。別の言い方をすれば、これらのことは、必ずしも聖書に書かれていない、聖書とは別の要素です。ユダヤ人が、イスラエルの民が、長年語り継いできたこと、信じてきたこととは別の要素です。もっと別の言い方をすれば、あるいは事柄をはっきりさせる言い方をするとしたら、異教的要素です。教会の伝統とは異なる要素です。教会の外にあるものです。

それらのこと「すべて」を心に留めなさいとパウロはフィリピ教会の人々に勧めているのです。もちろん心に留めるということには、それらを大事にすること、重んじることが含まれています。「はい分かりました、覚えておきます」というだけでは済みません。無視したり、軽んじたりすることの反対です。軽蔑したり、泥を塗ったりすることの反対です。

ですから、パウロが書いていることの趣旨をくみとりながら大胆に翻訳し直すとしたら、「教会の皆さん、あなたがたは教会の外側にあるすべてのものをきちんと重んじなさい」です。馬鹿にしてはいけません。「くだらない」と言って見くだしたり、「そんなのは異教的なものだからわたしたちとは関係ない」と言って切り捨てたりしてはいけませんということです。

このように言うことにおいて、パウロは、教会の人々に不信仰を勧めているとか、無理難題を吹っかけているわけでは、もちろんありません。彼は至極当たり前のことを言っているだけです。すべてのキリスト者は「教会の内側」だけで生きていないからです。言葉の正しい意味で「教会の外側」においても生きているからです。

牧師だってそうです。牧師の家族もそうです。もし牧師や牧師の家族が教会の内側だけで生きているとしたら、そして教会の内側だけでしか通用しない言葉ばかりを語っているとしたら、伝道は不可能です。伝道とは、教会の外側にいる人々に語りかけることだからです。それは教会の内側にいる者たちが固い砦に引きこもることの正反対です。外に出て行かなければ、外の人々と触れあわなければ、伝道は不可能なのです。

しかもその場合問題になることは、外に出て行き、外の人々と触れ合って、そのとき何をするかです。けんか腰で出て行き、啖呵を切って「あなたがたのしてきたこと、考えてきたことはすべて間違っている。わたしたちが持っているもの、教会の中にあるものだけが正しいものである。だから、ここに、教会にどうぞおいでなさい」と大声で叫び続けることが伝道でしょうか。そのように言われて教会に通い始める人が何人いるでしょうか。多くの人々は、ただ反発を感じるだけでしょう。「もう二度と教会には足を踏み入れません。決して近づきません」と、多くの人が心に誓うでしょう。

パウロが勧めているのは、そのような行き方の正反対です。もちろんパウロ自身も伝道者としての歩みの中で、何度となく失敗や挫折を繰り返してきました。けんか腰の態度や相手を傷つけるやり方もしました。しかしそれでは伝道が進まない。福音が前進しない。そのことにも気づかされてきたに違いないのです。

もちろん、次のような意見が必ず出てくることも私は知っています。「朱に交われば赤くなる。ミイラ取りはミイラになる。不信仰な人々の異教的なやり方に近づきすぎると、我々の確信が鈍り、教会の進むべき方向を間違ってしまう。守るべきものを守りぬくために、頑丈な砦が必要である。そのようなものがないかぎり、我々はあっという間にすべてのものを失ってしまう」。そうだと言われれば、そうなのかもしれません。全く間違っているとも言い切れません。しかし、それでもやはり私はそのあたりでとても慎重な気持ちにならざるをえません。

私は自分がとても弱い信仰の持ち主であると自覚しております。だからこそ、私のこの信仰をしっかりと守ってくれる頑丈な砦があればよいのにという強い憧れを持っています。それは喉から手が出るほど求めてきたことでもあります。しかしその願いは、少なくとも私にとっては未だに叶っていません。未だに叶っていないのですが、しかしまた、それが未だに叶っていないということ自体に意義を見出している面もあります。もし本当にそのような固くて頑丈な砦が手に入ってしまい、その中だけで生きて行くことができるようになり、その砦の外側には一歩も出ないで済むようになったとしたら、果して私はどのような人間になってしまうのだろうかということに不安を抱く面もあるからです。

かつてのヨーロッパはたしかにそのような時期を何世紀も過ごしました。国民のすべてが洗礼を受けている。キリスト教信仰が国民の常識である。そのような中に一度でいいから私も生きてみたいという憧れや願いが、私のなかに確かにあります。しかしまた、その憧れや願いは、私にとっては今の現実から逃げ出したくなる誘惑のようなもの、あるいは大きな落とし穴、危険な罠のようなものに近いと感じられるのです。

パウロがその中にいた現実は、どちらかというと、かつてのヨーロッパが体験した状況のほうではありません。むしろ今のわたしたち日本のキリスト者たちが置かれている状況のほうに近いものがありました。周りを見渡しても、キリスト者はきわめて少数である。文字どおり一握りの人しかいない。いつもさびしい思いを味わっている。理解してくれる人は少なく、むしろ危険視されたり異端視されたりするばかり。

しかし、そのような中であっても、あるいはそのような中であるからこそ、パウロは、教会の内側にあるものだけでなく、教会の外側にある「すべてのもの」も心に留めなさい。それらのものを十分に重んじなさいと勧めていることは、やはり特筆すべき点です。それは教会の中だけで自己完結してはならないという勧めでもあるでしょう。あるいは教会の外なる世界ないし社会との接点を持ち続けなければならないという命令でもあるでしょう。

自分たちの要塞の中にあるものだけが真実であり、気高く、正しく、清いものであり、愛すべきものであり、名誉なものであり、それ以外のすべてはそのようなものではありえないというような絶対的で排他的で独善的な確信を持つことを慎むべきであるという戒めでもあるでしょう。

もし我々がそのような確信を持ってしまうならば、なるほどたしかに、我々の存在は、外側から見ればとんでもなく鼻もちならないものに映るでしょう。また、もし我々がそのような要塞の中に立てこもってしまうならば、自分たち自身はこの上ない安心を得て満足できるかもしれませんが、外側から見ると我々の存在は、どこかしら自信のない、ひ弱な人間のように映るでしょう。

教会の外側の社会ないし世界の中にあるすべての善きものを心に留め、大切にすべきであるという教えには、この個所でパウロ自身がそのことに直接触れているわけではありませんが、間違いなく重要な信仰的・神学的な根拠があります。それは、わたしたちの神は全世界を創造された方であるという点です。

わたしたちの神は、教会だけを創造されたのではなく、世界を創造されました。信仰をもって生きている者たちだけを創造されたのではなく、いまだ信仰に至っていない人々も、神が創造されました。教会の中に生きている者たちは神によって創造されたが、それ以外の人々は悪魔によって創造されたというような事情には全くありません。そのような思想は異端的なものです。創造者なる神への信仰は、わたしたちが教会の外側にあるすべてのものに目を向けるべき明確な根拠を提供しているのです。

パウロは次のように続けています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。

ここで勧められていることは「教えられたことを実行すること」です。理解はできても行動に移せないことの反対です。自分の砦、自分の要塞の中に立てこもってしまい、外側には一歩も出ることができないことの反対です。

大切なことは、言われているとおりに実際にやってみることです。自分の砦の外に出て行くとき、まるで丸腰で戦場に出ていくかのような不安や恐怖心を感じるかもしれません。しかし、そのときわたしたちを神御自身が守ってくださる。そのことを確信し、またそのことに安心すべきなのです。「平和の神」とは「わたしたちを平安で満たしてくださる神」また「安心させていただける神」なのです。

今日はもう一個所の御言葉を読みました。ルカによる福音書です。わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった日に、ベツレヘムの羊飼いたちに主の御使が語った言葉です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

ここにもまた「平和」という言葉が出てきます。神の御子イエス・キリストがこの地上に来てくださいました。それは、この地上の世界に平和をもたらすためでした。ただし、御使が語っているように、その平和は「御心」すなわち「神の御心」に適う人々のところにもたらされるのです。

今日私がお話ししたことは、次のように誤解されたくはありません。教会も社会も同じであるとか、社会の人々に嫌われないように教会は敷居を低くすべきであるとか、教会か社会かそのどちらかを選ばなければならないような場面がもしあるとしたら、迷わず社会のほうを選ぶべきであるとか、そのようなことを言おうとしているわけではありません。申し上げている重要な点は、ただ一つ、わたしたちが伝道する相手は教会の外側にいるということです。教会の外側に出て行かないかぎり神の救いを必要としている人々に出会うことはありえないということだけです。

パウロはこの手紙の中にすでに書いていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。

このようにパウロが書いていることこそが、クリスマスの出来事の本質です。イエス・キリストもまた御自身の砦の中に引きこもられなかったのです。そこから出てきて、地上の人々を救う働きに就いてくださった!それがクリスマスの出来事なのです。

(2008年12月14日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年12月 7日 (日)

「主において常に喜びなさい」

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フィリピの信徒への手紙4・2~7(連続講解第13回)、ルカによる福音書2・10~12

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4・2~7)

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」(ルカ2・10~12)

今日は聖書を二個所読みました。一つは、先週まで学んできたフィリピの信徒への手紙の続きです。もう一つは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった日に起きた出来事を描いているルカによる福音書の言葉です。

この二個所に共通している一つのキーワードがあることに、すぐにお気づきいただけると思います。それは「喜び」という言葉です。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」

前者は使徒パウロがフィリピ教会に書き送った言葉です。後者は天の御使がベツレヘムの羊飼いたちに伝えた言葉です。別の言い方をすれば、これはベツレヘムの羊飼いたちが天の御使からこのように伝えられたと信じた言葉でもあります。つまりこれは羊飼いたち自身の信仰を告白する言葉でもあるのです。

今申し上げた点はともかく、今日取り上げた二つの個所には、両者に共通する「喜び」というキーワードが埋め込まれているということを確認することができます。しかも私が考えさせられたことは、二つの個所の「喜び」という言葉に含まれている深い意味も実はかなり共通しているようだということです。私が今何を言おうとしているのかを、もう少し説明してみたいと思います。

前者の「喜び」について、すなわち4・4に出てくる意味での「喜び」について、前後の文章を読むかぎりで分かりますことは、パウロはこのことを必死に、一生懸命に言い聞かせているようだということです。「常に」とか「重ねて言います」と書いています。読み方によっては、くどくて、ねちっこい表現です。もしかしたら腹を立てる人が出てくるかもしれないほどに執拗です。子どもたちは親から何度も同じことを言われると腹を立てます。「ハイハイ、分かった分かった。うるさいよ」と。それと同じような反応を引き起こしかねないほどの、くどくてねちっこい反復があると言えます。

これらの表現は、パウロにとっては意図的なことでもあったようです。そのことに私ははっと気づかされました。パウロが書いていることは、カメラマンが写真を撮影する前にみんなに向かって「はい笑ってください」と言うのに似ています。緊張で顔がこわばっている、笑っていない人々に「笑ってください」と、「喜んでください」とパウロは命令しているのです。パウロは「喜び」という言葉を用いながら、そのなかに一種独特の意味での批判を述べています。この点にはっと気づかされたのです。

パウロが「喜び」という言葉を用いて何を、あるいは誰を批判しているのかについては、はっきり分かります。批判の対象は、名前が出てくるエポディアとシンティケという二人の女性です。この二人を名指ししながらパウロが書いていることは「主において同じ思いを抱きなさい」です。逆転させて考えることができるでしょう。短く言えば、この二人は同じ教会に属しながら同じ思いを抱いていなかったのです。二人は対立していたのであり、もっとはっきり言えば、けんかしていたのです。同じ教会の中での女性同士の対立であり、戦いであったとも言えるでしょう。

「真実の協力者」と呼ばれているのは、エポディアとシンティケが教会の中で対立しているということをパウロに告げた人のようです。この人の名前をパウロが伏せているのは、「あの人がパウロに告げ口した」とその人自身が二人の女性から、あるいは教会の他の人々から非難される結果を招いてしまうことを防ぐためであると考えることができそうです。おそらくは、このときすでに、パウロがその人の名前を伏せなければならないほどに事態は深刻なものに発展しており、危険きわまりない状態に陥っていたのです。

ここまで申し上げれば、皆さんには、ぴんと来るものがあるはずです。問題は、パウロが用いている「喜び」という言葉に込められている批判的な意図とは何のことかです。

その答えは単純明快です。「けんかをやめなさい」です。「教会のなかでけんかするのはやめなさい」です。「教会は喜ぶために存在するのであって、けんかするために存在するのではない」です。「教会員同士がけんかしあうことで、どんな良い結果があるのだろうか。良い結果などありえない。けんかなど直ちにやめなさい。教会に混乱をもたらすことは、厳に慎みなさい」です。

この件に関して私は、現実の教会のなかでの実例は挙げないでおきます。そういうことをすること自体、どこかの火に油を注ぐ結果を生みかねないからです。

また、女性同士の対立の場合だからどうだとか、男性の場合はどうだとか。そういう話もしたくありませんし、すべきではないと考えています。何か分かること、感じることがあるとしても、そういうことは決して口にすべきではありません。女性に対しても男性に対しても失礼なことです。皆さんはどうか、そういう分類や割り切り方はおやめください。教会の中でけんかをしてはならないことに関しては、男も女もありません。

ここで、今日二番目に読みました、ルカによる福音書の言葉のほうに話題を移していきたいと思います。私が申し上げたいことは、ベツレヘムの羊飼いたちに向かって天の御使が告げた「喜び」の中にも、ある独特の意味での批判が述べられているように思われるということです。

その根拠ないし理由は、天使の言葉の中にあります。すなわちそれは「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」です。

ここで「あなたがたへのしるし」と呼ばれているのは、明らかに「喜びのしるし」です。つまり、あなたがたに告げるこの喜びの知らせが、あなたがたにとって本当に喜ぶことができる内容をもっているかどうかを判断するための材料ないし根拠としてのしるしです。天使が語っているのは「あなたがたへのしるし」、つまりあなたがたベツレヘムの羊飼いにとって、これは本当に喜ぶことができるものだとはっきり分かってもらえるはずのしるしであるということです。

逆に言えば、もしそのしるしを見て「いや、これは、このわたしにとっては喜ぶことができないものである」と判断する人がいるとしたら、それはそれだということです。その判断そのものは、ある意味で尊重されるべきものでもあるでしょう。

それはともかく、いずれにせよはっきりしていることは、天使が告げているベツレヘムの羊飼たちにとっての「喜びのしるし」とは、すなわち「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」のことです。となりますと、内容的に見れば、このしるしは、明らかに「貧しさのしるし」であると思われるものです。豊かな人、裕福な人、そのような家庭に生まれる人は、通常の場合、飼い葉桶のなかに寝かされたりはしません。そのようなことは、通常ありえません。飼い葉桶のなかに寝かされる可能性があるのはそれとは正反対の人々です。豊かさの反対である貧しさの中にある人々です。

そうなりますと、今申し上げた意味での「貧しさのしるし」としての飼い葉桶のなかに寝かされた乳飲み子の姿を見て「喜び」を感じると見ている天使たちの考えのなかに前提されていることは、明らかに「ベツレヘムの羊飼たちは貧しい人々である」という点です。そして、そこからさらに分かることは、貧しい人々にとって、救い主イエス・キリストのお生まれになったときの姿は「喜びのしるし」でありうるのだと、天使たちが言っているのだということです。

それでは、先ほどから申し上げている「喜び」の批判的な意味とは何かです。明らかに批判されているのは豊かな人々です。豊かな人々が「これはわたしの喜びだ」と感じたり語ったりしているそれは本当の喜びではない。本当の喜びは別のところにあるのだと天使たちが言っているのです。「あなたがた豊かな人々は、本当に喜ぶべきものを喜んでいない。喜ぶべきでないことを喜んでいる」。非常に厳しくはっきり言うとしたら、このような感じになります。天使たちによる批判の矛先は、豊かな人々に向けられているのです。

なるほどたしかに、聖書には、どう読んでも豊かな人にとっては厳しいと感じられる、あるいは不愉快とさえ感じられる言葉がたくさん出てきます。たとえばイエス・キリスト御自身がお語りになったなかでも最も有名な言葉のひとつ、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19・24、マルコ10・25、ルカ18・25)をどのように解釈すれば、豊かな人々にとっても満足できる説教ができるでしょうか。私には無理だと感じます。しかし、あきらめてしまうつもりはありません。この件についても具体的な実例を挙げることはやめておきますが、ごく一般論として考えてみるときに思い当たることがあります。

それは要するに次のようなことです。豊かな人がいつまでも豊かであり続けることは、無いとは言えないが、非常に困難なことであるということです。また、ひとりの人の人生の中で、貧しかった時期もあり、かつ豊かだった時期もあるという感じに両方を経験するということのほうが現実的には高い可能性としてありうるということです。地上に生まれてから死ぬまでのあいだに一度も貧しさを経験しなかったという人は、いないとは言えないが、多くはないだろうということです。

私が申し上げていることのなかにもし少しでも当たっているところがあるとしたら、天使が告げている「しるし」を見て一度も喜びを感じることがないままで死ぬ人は、いないとは言えないが、多くはないかもしれないというようなことを考えさせられるのです。

豊かな人に向かって「貧しくなりなさい」と語ることは難しいことですし、無理な面があります。しかしそんなことを誰かから言われなくても、わたしたちの人生(それが長いか短いかはともかく)の中では、一度ならず何度となく、貧しい生活に転じることがありうるはずです。かつて貧しかった人々が豊かになった。しかし再び貧しくなるということが十分、または当然ありうるのです。

バブルはいつかはじけます。夢が現実の前に打ち砕かれるときがくるのです。そのとき、わたしたちは天使の言葉に対してもっと素直に耳を傾けることができるかもしれません。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」はあなたがた“貧しい人々”にこそ与えられた喜びのしるしである。救い主イエス・キリストを信じて生きる人々に与えられる「喜び」は、金銭的に豊かな人々が「喜び」としているものとは違うものなのです。

(2008年12月7日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年11月30日 (日)

「わたしたちの本国は天にあります」

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フィリピの信徒への手紙3・17~4・1(連続講解第12回)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」

前々回の説教の中で申し上げましたことは、パウロはこの手紙を3・1の「では、私の兄弟たち、主において喜びなさい」という言葉で締めくくろうとしたということです。「では」という言葉は手紙などを締めくくるときに用いられるものだからです。

しかしパウロは、実際にはそうしませんでした。その理由として考えられることについてもお話ししました。パウロはこの手紙を「喜び」というキリスト教信仰の肯定的な側面を語ることだけで済ますことに、おそらく躊躇を覚えたのです。

実際のパウロは「あの犬どもに注意しなさい」(3・2)と続けました。キリスト教信仰に敵対する人々がいるということを、強く激しく語りはじめました。あからさまに書かれているのは当時のユダヤ教徒のことです。しかしキリスト教信仰に敵対してきた人々はユダヤ教徒だけではありません。あらゆる国の、あらゆる時代の、そしてあらゆる宗教の持ち主たち、あるいはいかなる宗教をもまじめに信じようとしない人々もまたキリスト教信仰に敵対してきました。あらかさまに敵対しない場合でも、危険視する、禁止する。無視する、右から左へ聞き流す、無関心を決め込む。あるいは軽く見る、笑うというような態度をとってきました。

最近はあまり聞かなくなったような気がしますが、日本でも私が子どもだった頃には「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」だのと言われることがありました。実に嫌な気分を味わいました。多勢に無勢でしたので食ってかかることはしませんでしたが、何も言いたくないと思わされました。教会に通っているということを誰にも言いたくありませんでした。トラブルに巻き込まれるのが嫌でした。

しかしまた、私の場合は、だからこそ牧師という仕事を選んだという面もあります。トラブルのようなことに巻き込まれたくはないのです。しかし、教会に通っているということを誰にも言いたくないという気分を味わわされていること自体が嫌でした。「私は悪いことをしているわけではない!」という思いがあったからです。

教会に通うことが悪いでしょうか。わたしたちはここで何かひどいことをしているでしょうか。どうして悪口を言われたり、けんか腰で食ってかかられたり、冷たい目で見られなければならないのでしょうか。そのような何かをわたしたちがしているというならば話は別ですが、何も悪いことをしていないのにひどいことを言われるのは理不尽だと感じました。

“隠れキリシタン”のままでいることは神さまに対して申し訳ないことだと思いました。教会に通っていること、洗礼を受けていること、キリスト者であることを早く“カミングアウト”したかった。そのための、当時の私にとっては“唯一の”と感じられた方法が「牧師になること」でした。

なんだか私の話になってしまっていることをお許しください。しかし、この機会にまとめてお話ししておきたいことがあります。

それは、私にとって「牧師になること」は、自分の弱さのゆえであったということです。早い話、味方になってくれる人々が欲しかったのです。私はこの世のなかで、ひとりでキリスト者であるわけではないということを確認したかったのです。多勢に無勢のなかで孤立していました。トラブルに巻き込まれるのが嫌でした。しかしそのような理由で「教会に通っていること」を隠している状態を続けて行くことに耐えがたいものを感じたのです。

そういうのは自己目的的であると非難されるかもしれません。動機が不純であると思われるかもしれません。しかし、私が牧師になることを決心したのは高校生のときでした。自慢するわけではありませんが、高校生がたったひとりで戦っていたのです。

私の卒業した高校は、創立134周年になる古い学校です。数万人の名前が記されているであろう分厚い同窓会名簿の中で、牧師という仕事を選んだのは私を含めて3人か4人くらいです。

進路指導の先生に「牧師になるための大学に行きます」と伝えましたところ、「はあ、そうですか。どうぞご勝手に。そういう話は凡人の私には分かりません」と突き放されました。「はい、勝手にします」と言い残して立ち去りました。私のクラスの担任の先生でもありましたが、その日から二度と口を聞きませんでした。伝道的な態度ではないかもしれませんが、高校生としての精一杯の抵抗でした。

わたしたちが教会に通っていること、洗礼を受けていること、キリスト者であることで「世間を狭くしている」という面が無いかと言えば、「ある」と言わなければならないかもしれません。信仰者としての人生には喜びや楽しみの要素ばかりではなく、苦しみや失望の要素もたくさんあるということを率直に認めなければならないことも知っているつもりです。

私はけんかが嫌いなので、たとえ売られても、買いません。泣き寝入りもしませんが、我慢していることのほうが多いです。しかし、黙っていることができないときがあります。私のことならば何を言われても構いません。しかし、教会のこと、神さまのことを馬鹿にするようなことを言われると、黙っていることのほうが罪深いと感じてしまいます。自分の父親を他人から馬鹿にされるときに感じるのと似たような感情が芽生えます。

私の話はこれくらいにします。今日の個所をパウロは、泣きながら書いています。そのように彼自身がはっきり書いています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。これは大げさに書いていることではありません。おそらくパウロは本当に泣いていた。このあたりの字が、涙でにじんでいたのではないかと思うくらいに。

しかし、パウロが泣いていたのは、自分が信じている宗教を馬鹿にされたからとか、自分のしていることを貶されたからというようなこととは少し違うように思います。続きを読みますと「彼らの行き着くところは滅びです」とあります。「彼らは腹を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません」。

ここでパウロが考えていることは、救い主としてのイエス・キリストに、あるいは宗教としてのキリスト教に、敵対する人々の「先行きを案じている」というのが最も近い。要するにパウロは、彼らのことを心配しているのです。

余計なお世話であると言われれば、それまでです。他人の心配をするよりも自分の心配をしなさいと言われるだけかもしれません。あなたがたの切り口から世界をとらえて、信仰を持たない人の行く先は滅びであるとか、あなたがたは腹を神としているだけだと言いだすのは一方的すぎるし、傲慢であると反論されるだけかもしれません。

「腹を神とする」とは何のことでしょうか。これと同じ意味の「腹」という言葉をパウロはローマの信徒への手紙16・18にも用いています。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」(ローマ16・18)。

この「自分の腹に仕える」と「腹を神とする」は同じ意味です。自分の腹をまるで神であるかのように礼拝することです。もちろんこれは比喩であり、また皮肉です。パウロが書いている意味での「腹」は間違いなく欲望の象徴です。食欲だけではなく性欲や所有欲などすべてがその中に含まれます。

欲望を満たすことのすべてが悪いと言いたいわけではありません。そのようなことを私が言っても説得力はありません。しかし問題は、自分の腹と神を引き換えにすることです。自分の腹を選ぶか、それとも神を選ぶかという二者択一を迫られる場面がもしあるとしたら、そのとき迷わず腹を選ぶということになるならば、それは自分の腹と神とを引き換えにすることを、事実上意味しています。

しかし、よく考えてみれば、わたしたちが自分の欲望ないし欲求を満たすことと、神を信じること、教会に通うこと、礼拝に参加すること、洗礼を受けてキリスト者になることとは、それほど激しく対立することではないはずです。欲望だの欲求だのといいますと、まるでそのすべてが罪深くて悪いことであるかのように響いてしまうのですが、わたしたちが毎日生活していく中で間違いなく必要な要素でもあるはずです。

そしてまた、わたしたちが神を信じて生きるとは、神の祝福のもとに置かれること、神の恵みが豊かに注がれることを意味しているのですから、それは言葉の正しい意味での幸福な人生であり、満足できる人生でもあると言ってよいものです。満足することと、欲望ないし欲求が満たされることは、矛盾することでも対立することでもありません。

ところが、両者がまるで対立するものであるかのようにとらえ、神か腹か、宗教か欲望か、教会か社会かというような二者択一を考え、神と教会とを切り捨てる選択肢をえらんでいくときに、パウロの言う意味での「自分の腹を神とする」という批判の言葉が該当しはじめるのです。

もちろん、どの宗教を信じても同じという意味ではありません。そのようなことを私が言うはずがありません。パウロもそのようなことを言っているのではありません。彼は、ただひたすら心配しているのです。あの突然のイエス・キリストとの神秘的な出会いを体験して以来、神と教会から離れて生きることができなくなった者として。彼自身が深く大きな罪をもっていることを自覚している者として。自分は弱い人間であることを知り、神と教会に頼らなければ、このわたしはどんなふうになってしまうのかを悟っている者として。誰が何と言おうと。

「わたしたちの本国は天にあります」と、パウロは書いています。文脈的にはやや唐突に出てくる言葉ではありますが、パウロの意図は分かります。「本国」と訳されているギリシア語(ポリテューマ)は、「コロニア」というラテン語に訳されてきたものです。コロニーという言葉をご存じの方は多いでしょう。「植民地」などと訳されます。しかし、このパウロの言葉を「わたしたちの植民地は天にあります」と訳してしまいますと、ちょっとおかしいし、誤解を生むと思います。

この手紙の最初の読者、フィリピの教会の人々はローマ帝国の植民地(コロニア)に住んでいました。彼らがローマ帝国に逆らうことはそのまま死を意味していました。ローマ帝国は支配下の人々に対し、ローマ皇帝を神のごとく崇拝すること、皇帝礼拝を行うことを強制しました。キリスト教信仰に敵対していたのはユダヤ教徒たちだけではなく、ローマの皇帝礼拝を強制する人々でもありました。

しかし、「キリスト者のコロニアは天にある」。このパウロの言葉には、ローマ帝国が強制する皇帝礼拝への明確な拒絶があります。わたしたちの真の支配者は、父なる神と、救い主イエス・キリストだけであって、ローマ皇帝ではない。真の神がわたしたちを愛してくださり、守ってくださる。そのことを信じて生きていこうではないか。神の他に何も恐れるものはない。そのようにパウロは彼らを励ましているのです。

(2008年11月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

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「あなたの人生の目標は何ですか」

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フィリピの信徒への手紙3・12~16(連続講解第11回)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」

今日の個所にパウロが書いていることは、単純明快なことではありますが、深くて重い意義があります。語られていることは、ただ一つです。まとめていえば、わたしパウロはまだゴールにたどり着いていないということです。まだ走っている最中である。何ひとつ諦めないで、投げ出さないで、わたしはまだ走り続けている。一等賞をもらってもいないが、ビリでもない。何の決着もついていない。勝敗は決していないのです。

もちろんこれは、パウロの人生そのものについて彼自身がそのようにとらえていたことを表わすものです。彼の人生観であると言ってもよいでしょう。人生とはいわばひとつのレースである。スタートがあって、ゴールがある。そのあいだをひたすら走り続けるのがわたしたちの人生であるということです。

もちろん、人生の時間の長さには人それぞれの面があります。客観的・時間的な意味で短かったと言わざるをえない人生もあり、長い人生もあるでしょう。しかし言い方は少しおかしいかもしれませんが、人生は長ければ長いほど必ず良いというわけではなく、短い人生が必ず悪いというわけでもありません。レースには短距離走も長距離走もあります。重要なことは、スタートからゴールまで走り切ることです。やるべきことは、すべてやる。途中で諦めないこと、嫌にならないこと、投げ出さないことです。すべての道を自分なりの力を尽くして走り終えることができたと思えるなら、人生の時間的な長さそのものは、あまり大きな問題ではないのかもしれません。

ただし、今申し上げましたことの中では「やるべきこと」と「やりたかったこと」とは一応区別しておく必要がありそうです。「やりたかったこと」とは、主にわたしたちの欲求に属することです。あれもやりたかった、これもやりたかった。しかし、その欲求を満足させることができなかった。この意味での欲求不満は誰にでもあるものですが、あってもよいものですし、なければならないものでさえあります。一人の人間が抱く欲求のすべてを人生の中で満たし尽くす。そのことをどこまでも、とことんまで追求しようとする人がいるとしたら、はっきり言えばモンスターです。

やりたかった。だけど、できなかった。そこにはもちろん、地団太を踏みたくなるほどの悔しさもあるでしょう。しかしその悔しさは、わたしたちの人生の中で与えられる宝物であると信じなくてはなりません。すべての欲求を満たし尽くすことはできないし、してはならないことです。それを最後までやり遂げようとする人はモンスターなのです。

しかし、今の点は横に置きます。「やるべきこと」については、しなければなりません。わたしたちの人生がたとえどれほど短かろうとです。ごく幼いうちに、あるいは生まれて間もなく命が奪われる場合もありますので、その場合は親たち大人たちが「やるべきこと」という意味でご理解いただきたいところです。

わたしたちの人生には「やるべきこと」があります。果すべき役割があり、目指すべき目標があります。「そんなものはありません」と感じている人がおられるかもしれません。「今それを探している最中である」と考える人もいるでしょう。「人生の目標を探すことがわたしの人生の目標です」と、ちょっぴり格好をつけて言いたくなる人もいるでしょう。それらの考えはすべて尊重されるべきです。

しかし、今日取り上げておりますのはパウロの手紙です。彼が書いている、キリスト者としての人生の目標は何かという問題です。それについてパウロはどのように書いているのでしょうか。

注目していただきたいのは、12節の「既にそれを得たというわけではなく」の「それ」が指している内容です。それは10節から11節までに書かれています。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

これがパウロの人生の究極目標です。彼自身の目標は、はっきりしています。ところが、そのことをパウロは、やや遠慮がちに書いているように感じられます。

今申し上げましたことの根拠は、15節です。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」。

「このように考えるべき」とある「このように」の中に、パウロがここまで書いて来たこと、とくに彼が10節以下に記している「わたし」の人生の目標の内容がすべて含まれています。ということは、パウロの意図は明らかに、「わたし」の目標は「わたしたちの中で完全な者」のすべてにとっての目標でもあるべきだということです。

ところが、ここから先が遠慮がちです。あなたがたには「わたし」とは「別の考え」もあるかもしれませんと続けています。わたしが確信していることをあなたがたに何が何でも無理やり押しつけるつもりはありません。ここから先はどうぞ各自で判断してくださいというくらいの意味ではないかと思われます。

しかし、パウロの本音は、どうやら違います。彼自身のなかでは、すべてのキリスト者が、いえいえ、地上に生きているすべての人、まさに全人類(!)が人生の目標とすべきことはこれであると、はっきり言いたいものをもっているのです。それが先ほど一度読みました10節から11節までに書かれていることです。それは四点に分けられます。

第一は「キリストとその復活の力を知ること」です。

第二は「キリストの苦しみに与ること」です。

第三は「キリストの死の姿にあやかること」です。

第四は「何とかして死者からの復活に達すること」です。

何のことでしょうか。書いてあることをただ読むだけでは、ほとんど意味が分からないと思います。それでもわたしたちにとって少しくらいは引っかかりがありそうなのは第二と第三の点です。すなわち、キリストの苦しみにあずかること、そしてキリストの死の姿にあやかることです。

なぜこの点が、わたしたちに引っかかるのでしょうか。そうです、わたしたちの人生にも多くの「苦しみ」があるからです。また、わたしたちは人生の最後に必ず「死」の日を迎えるからです。皆さんの中にも「死ぬほどの苦しみを味わったことがある」と自覚しておられる方は少なくないでしょう。人生のなかで二度や三度は、そのようなことを体験します。それがわたしたちの人生の現実なのです。

しかしまた、今申し上げたことのすぐ後に言わなければならないことがあります。それは、パウロが書いていることは、わたしたちが人生の中で体験するのと全く同じ意味での単なる苦しみ、また単なる死でもなさそうだということです。なぜなら、ここで語られているのは「キリストの苦しみ」だからであり、また「キリストの死の姿」だからです。

「キリスト」とは、もちろん、わたしたちの救い主イエス・キリストのことです。このお方は歴史上に実在した人物です。この方が地上の人生において深く味わい続けなさった苦しみ、そしてこの方が多くの人の前にさらされたあの十字架上の死の姿、この苦しみと死とにこのわたしも与るのだ。それが、それこそが、このわたしの、わたしたちの人生の目標であると、パウロは語ろうとしているのです。

「与(あずか)る」とは、第一義的には「参加すること」です。参加するとは、英語でparticipate(パーティシペイト)と言います。その意味は、パートになること、パートを受け持つことです。全体の中の一部分を構成する要素になるということです。

このことがパウロの言葉にもそのまま当てはまります。キリストの苦しみにわたしたちが与るとは、キリストの苦しみの一部をわたしたち自身が受け持つことです。

もちろん、わたしたちはキリスト御自身ではありませんので、キリストが味わわれたのと全く等しい苦しみをわたしたち自身が味わうことはできないし、そこまでのことがわたしたち自身に求められているわけではありません。しかし、キリストの苦しみの一部を分け与えられていただき、その一部を受け取ることができ、味わうことができる。そのことをわたしたちの光栄とし、誇りとし、喜びとする。それこそが「キリストの苦しみに与ること」の意味なのです。

これは難しい話ではないはずです。キリストが苦しまれた理由を、わたしたちは知っているからです。父なる神の御心に忠実であり続けることにおいて、赦しがたい人類の罪を赦すことにおいて、助けを求める人々のもとを訪ね、力を尽くして助けることにおいて、わたしたちの救い主イエス・キリストは、苦しみ続けられたのです。つまり、「キリストの苦しみ」とは、イエス・キリストが現実に働いてくださったこと、まさに働きに伴う苦労や疲労と決して無関係ではないし、むしろ、まさにそのことを指していると言ってよいものであるということです。

これなら十分に理解可能でしょう。「キリストは労働者である」と表現するのはおかしいかもしれませんが、ある意味でそのとおりです。わたしたちもまた、その意味での労働者です。教会のなかで、教会を通して、さまざまな奉仕を行うことにおいて、苦労があり、疲労があります。わたしたちが教会のなかで、教会を通して味わう苦労や疲労は、歴史のなかで活躍されたキリストから受け継いだものなのです。

実際たとえば、わたしたちが聖書を読んで正しく理解すること、この中に描かれているイエス・キリストが地上でなさったのと全く同じことを真似してみることは一苦労です。イエスさまは、毎週会堂で説教なさいました。また病気の人々を訪問なさいました。信仰に反対する人々と戦われました。集会を開くこと、団体を運営すること、それらすべてのことをイエスさまもなさいました。それを今、わたしたちもしているのです。

それらの苦労や努力を避けて通らないことです。それをやってみたらよいのです。教会活動に参加することによってそれが十分可能です。それこそが「キリストの苦しみに与ること」なのです。

しかしまた、それは単に教会のなかで、教会を通して、ということだけに限定すべきものではありません。ご本人を前にして申し上げるとちょっとお困りになるかもしれませんが、たとえば佐々木冬彦長老のハープコンサートのことを考えるとよいでしょう。また、先週は千城台教会の田上雅徳長老(慶應義塾大学法学部准教授)が立教大学でオランダのカルヴィニズムについての講演をしてくださいました。私はその講演会の司会をしました。

教会の外へと出て行くこと、社会のなかで、多くの人々の前でキリスト者としての証しを立てること、喜んでもらうこと、このこともわたしたちにとっては多くの苦労を味わうことですが、やりがいのあることです。

あなたの人生の目標は何ですか。パウロの場合は、はっきりしていました。わたしたちも、はっきりしています。「まだ分からない」という方は、ぜひ教会に通ってください。

(2008年11月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年11月16日 (日)

「キリストはどのように生きられたか」

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フィリピの信徒への手紙3・1~11(連続講解第10回)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者に警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

注解書を調べていまして非常に興味深く感じましたことは、最初の「では」の意味です。この「では」は手紙を締めくくるときに用いる言葉であるというのです。「というわけで」、「要するに」、「結局」、「とどのつまり」などと訳すことができる言葉なのです。

このことが意味することは明白です。パウロは3・1の前半、すなわち「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」という言葉をもってこの手紙を書き終えようとしたのだということです。書きたいと思っていたことはすべて書き終えた。そろそろ筆を置くことにしよう。そのような気持ちが表れている言葉が、この「では」なのです。

しかしまた、今申し上げました事実にもかかわらず、わたしたちが知っていることは、実際の手紙はここで書き終えられることはなかったということです。続きが書かれました。ここにパウロの揺れる思い、微妙な心の動きを読み取ることが可能です。

この点にこだわってみたいと思ったことにはもちろん理由があります。フィリピの信徒の手紙は、これまで多くの人々から「喜びの手紙」と呼ばれてきました。理由は単純です。この手紙には「喜び」という言葉が繰り返して出てくるからです。

しかし私が感じてきたことは、事柄はそれほど単純ではないということです。この手紙の中には苦しみや悲しみを強調している個所も、たくさんあるからです。これは「喜びの手紙」であると言われることに絶対的に反対したいわけではありませんが、「苦しみの手紙」とか「悲しみの手紙」と呼ばなければならない面もあると思われてならないのです。

わたしたちが知っている事実は、この手紙は喜びを勧める言葉をもって書き終えられることはなかったということです。しかも、続けられたのは、非常に衝撃的な言葉であり、ぞっとするほど恐ろしい言葉です。「あの犬どもに注意しなさい」。喜びという要素を繰り返し強調して語ろうとする同じ人の言葉とは思えないような、まことに辛辣な、人の胸をえぐるような言葉が続けられたのです。

1節の後半に「これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と書かれています。しかしこの文章はちょっと意味不明な感じです。翻訳の問題があるような気がします。「煩わしい」と訳しますと「同じことをもう一度書くこと」に関して言われていることであると感じられます。何度も同じことを書くことは私にとって煩わしいことではない。面倒でも億劫でもない。これでも意味は一応通じます。

しかし問題は、煩わしいことではないと言われている「これ」は、本当に「同じことをもう一度書くこと」を指しているのかです。私は違うと思います。「これ」という代名詞が指しているのは「主において喜ぶこと」です。救い主イエス・キリストの救いに与った者として喜びの生活を送ることは、わたしには煩わしいことではないと言われているのです。

しかしここから先は日本語の問題です。「喜ぶこと」について煩わしいとか煩わしくないと言われますと私にはぴんと来ない面が残ります。それでも私の場合、「喜ぶこと」をもう少し具体的に「笑顔を絶やさないこと」くらいに言い換えてみる。そして「煩わしい」を今の若者言葉の「ウザい」などに言い直してみる。これならば少し分かるものがあります。「笑顔でいることはウザい」。何か無理しているようだし、どこか引きつっているところがある。感覚的に分かります。しかしパウロはそうではないと言っているわけです。「笑顔でいることは、わたしにとってはウザくない」。これならぴんと来るものがあります。

「あなたがたにとって安全なことなのです」のほうは、どうでしょうか。「いつも笑顔でいることは、あなたがたにとって安全なことなのです」で、理解できるでしょうか。いやむしろ危険ではないかと思わなくもありません。「うれしそうにしている人を見ると無性に腹が立つ」と言いだす人々がいるからです。しかし、「安全」という訳は間違っていません。パウロの意図は、「あなたがたが喜びの生活を送ることは、あなたがたの“身を守る”ための最善の方法である」というようなことだからです。

ややこしい話になっているかもしれません。願っていることは、今日の個所に書かれている事柄を掘り下げて理解することです。ここでも指摘したいことは、この手紙が教会に宛てて書かれたものであるという点です。「主において喜ぶこと」が求められているのは、教会です。いつも笑顔を絶やさないでいることは、教会にとって安全なことです。

思い起こしていただきたいのは、わたしたちが初めて教会に足を踏み入れたときのことです。あるいは、わたしたちが信仰をもつ前に、教会を外側から眺めていた頃のことです。教会を外側から見たとき、そこにいる人々が喜んでいた。このわたしが初めて教会に来たとき、喜んで迎えてくれた。そのときわたしたちが感じたことは何だったかです。

(もちろんそのときの虫の居所によるかもしれませんが)、通常の感覚からすれば喜んでいる人々を見て腹を立てる人は多くはないでしょう。いないとは言えませんが、おそらく少ない。むしろ好意をもつ。「安全である」の意味はおそらくこのあたりに関係しています。喜んでいる人々をどこまでも責め立てようとする人の姿は、第三者から見れば狂っている感じです。喜んでいる人々には好意をもって味方してくれる人々が現れるでしょう。

パウロが勧めていることは、「無理して笑え」ということではないでしょう。しかしまた、いつも笑顔でいることは、周囲の人々に好意をもってもらえることでもあり、親しい仲間を増やせることでもあるでしょう。それは、恐ろしい顔で人々を遠ざけ、むやみやたらな反発を招くこととは反対であるという意味で「安全である」と言えることでもあるのです。

しかしパウロは、ここでこの手紙を終わらせませんでした。キリスト者が喜んで生きている姿を快く思わず、むしろ反発し、攻撃する人々のことを書き始めました。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と。これは明らかに当時のユダヤ人です。ただしユダヤ教徒だけに限定できるかどうかは微妙です。「働き手」は、もしかしたらキリスト教の伝道者のことを指しているかもしれないからです。使徒言行録の学びの中で確認したことは、キリスト教の伝道者の中に「割礼を受けなければ救われない」と主張してパウロと対決した人々がいたということです。その人々が「あの犬ども」の中に含まれているかもしれません。

キリスト者として生きていこうと決心し、約束し、実際にそのような生活を始めた人々は、パウロが「犬ども」と呼んでいるような人々とも向き合わなければならない。これはどう考えても嫌なことであり、煩わしいこと、面倒なことです。しかしそれでもそのことを指摘せざるをえないパウロがいることを思うとき、この手紙を「喜びの手紙」と呼んで単純化して済ませることができないものを感じるのです。

パウロが辛辣な言葉を書きはじめた理由は理解できるものです。ここで彼が痛烈に批判しているのは、一言で言えば、彼の元同僚たちです。もう少し広く言えば同胞たちです。パウロは彼らのすべてを知り抜いていますし、逆に、彼らはパウロのことを知り抜いています。パウロの側に甘えのような感情があったとは思いません。しかし、パウロはその人々に対しては遠慮なく語りました。どんなに厳しいことを言ってもあの人々は許してくれるに違いないという意味ではなく、むしろ事実は逆なのですが、しかしパウロの側の思いとしては、彼らに対する独特の意味での“愛情”があったことを否定することはできません。

パウロは彼らに変わってもらいたかったのです。5節以下に書かれているパウロの出自に関する記述の意図は、もともとわたしはあなたがたの側に属する者であったということを明らかにすることです。しかし、わたしは変わりました。キリストを信じる者となり、教会の側に属する者となりました。わたしが変わったのだから、あなたがたにも変わってもらいたい。そのような思いがパウロの中にあったことを否定することができません。

「喜び」の強調にも裏面があると思われてなりません。今のわたしはキリストにあって喜びの生活を送っている。しかし、かつてはそうではなかった。昔の同僚であったあなたがたの生活にも、今のわたしが感じているような喜びはないはずだ。あなたがたが求めているのは「律法から生じる自分の義」であろう。しかし今のわたしは「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられている義」を求めることにおいて喜びの根拠を得ている。ここにわたしとあなたがたの違いがある、と言いたいのです。

このように書いているパウロの心の中に満たされていたのは「喜び」だったでしょうか。そうは思えません。かつての同僚を「この犬ども」呼ばわりしながら喜んでいるとしたら、パウロは相当ひどい人です。彼の心は傷ついていたはずです。悩みながら、苦しみながら、この個所を書いていたはずです。そうでなければ、説得力も生まれないでしょう。

はっきり分かることは、パウロにとってユダヤ人たちは敵ではなかったということです。他人でもありませんでした。むしろ、彼にとってユダヤ人は、鏡に映して見る自分自身のようなものでした。パウロの敵はユダヤ人ではなくユダヤ人たちが求めている「律法から生じる自分の義」でした。それはどんなに求めても手の届かないものである。なぜなら、わたしたち人間には罪があり、律法を完全に行うことはできないからである。そのことがなぜ、あなたがたには分からないのかという思いがパウロの中にあったに違いありません。

10節にやや唐突な感じに出てくるのは、新しく生まれ変わったパウロが求めているものです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

さっと読むだけでは理解しにくい言葉です。しかしここでパウロが言わんとしていることは「わたしはこれからも苦しみ続けます」ということです。パウロの関心は「キリストはどのように生きられたか」です。イエス・キリストが十字架の上で苦しまれたように、わたしも苦しみます。今も愛しているかつての同僚たち、また同胞であるユダヤ人の救いのために。彼らの無理解にもかかわらず。彼らの救いのために苦しんで死んでも構わない。イエス・キリストと同じように、このわたしも復活させていただけるでしょうと。

この手紙は「喜びの手紙」であるだけではなく「苦しみの手紙」でもあるのです。この点を見落とすと、大きな間違いを犯します。昨年から二年目に入っている松戸小金原教会の標語「喜びに満ちあふれる教会」は、「キリストの死の姿にあやかる教会」でもなければならないのです。

(2008年11月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年11月 9日 (日)

「再会によって悲しみが和らぐ」

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フィリピの信徒への手紙2・25~30(連続講解第9回)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」

今日の個所にパウロが詳しく書いているのは、エパフロディトのことです。男性でした。年齢は分かりませんが、想像できるのは若い人です。この手紙をパウロが書いているとき、エパフロディトはパウロの近くにいました。その人を目の前に見ながらこの手紙を書いていたかもしれません。

しかしこの人をパウロはフィリピ教会のみんなのもとに帰さなければならないと考えています。パウロの側から言えば、淋しいけれどエパフロディトとはそろそろお別れしなければならないということです。エパフロディトはフィリピ教会のメンバーだったからです。パウロを助ける役目を果たすために、フィリピ教会から送り出された人だったからです。そして彼はその役目を立派に果たしました。その彼を、パウロとしてはいつまでも自分のところに引きとめておくのではなく、フィリピ教会に帰す責任があると考えているのです。

しかしまた、この話には、今申し上げたようなことだけではなく、もう少し複雑な事情があったようです。エパフロディトはパウロを助けるためにフィリピ教会から送り出され、その務めを果たしているなかで「ひん死の重病」にかかってしまったというのです。その病気が具体的にどのようなものであったのかは記されていません。しかし、高い可能性として考えられることは、その病気はエパフロディトが具体的に担った役割そのものと深く関係していることだったであろうということです。もしそうであるなら、エパフロディトがかかった病気は何だったのかを考えるためにわたしたちが問うべきことは、彼はパウロのために具体的にどんなことをしたのだろうかということです。

ヒントはこの手紙の中に二個所あります。一つは「彼は・・・あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」(2・25)です。またもう一つは「わたしはあらゆるものを受け取っており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(4・18)です。

これでエパフロディトの果たした役割の内容がほぼ分かります。要するに彼はパウロが伝道のためのお金や物資に行き詰ったとき、フィリピ教会のみんなから献金や献品を集め、それをパウロのもとまで持ち運ぶ仕事をしたのです。

このようなことは、言葉にして言うと少し変なふうに受けとられてしまうことかもしれませんが、現実の教会においては非常に大切なことです。しかし、気になることは、そのような働きがなぜ、エパフロディトをひん死の状態にまで追いやってしまったのかということです。

いつ病気にかかったのかという点で考えられることは、まさか教会のみんなから献金や献品を集めるときではないでしょうから、その次の段階の、それをパウロのもとまで持ち運んでいるときであろうということです。おそらく彼は、とても長くてつらい旅をしたのではないでしょうか。もちろんこれは昔の話です。教会のみんなから預かった大切な献げものを抱えて。重い荷物をもって、海を越え、山を越え。体を張って盗賊からそれを守り抜き、また自分自身もまたそれをうっかりどこかに落としたり無くしたりすることがないように緊張しながら。人のお金を預かり、それを運ぶ仕事というのは今も昔も決して楽なものではありません。

しかしまたわたしたちが決して見誤ってはならないことは、エパフロディトが果たしたその仕事の意義です。

「教会も結局お金か」と、そんなふうには考えないでいただきたいのですが、それでもお金は重要です。パウロの場合もそうでした。伝道そのものがストップしてしまうのです。事柄が何一つ前に進んで行かないのです。伝道旅行は中断を余儀なくされたでしょうし、元いた場所に帰ることもできなかったでしょう。遠い外国の地でのたれ死ぬしかなかったでしょう。そのことをフィリピ教会の人々は十分に理解し、何とかしてパウロを助けたいと願い、彼らの力と思いを集めてそれをエパフロディトに託したのです。

エパフロディトもまた、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうとした」とパウロが書いているとおり、まさに教会の委託と期待を一心に背負いつつ、自分に託された使命はイエス・キリストの教会の宣教を支えるために重要なものであるという自覚とプライドをもって、その仕事に熱心に取り組んだに違いないのです。

ところがです。そのエパフロディトが、おそらく無理もしたのでしょう、ひん死の病気にかかってしまいました。そして、その情報がフィリピ教会の人々に伝えられたのです。それで彼は非常に苦しんだのだと思います。このわたしを信頼し、活躍を期待してくれた教会のみんなに申し訳ないという思いがあったでしょう。また大切な任務を彼に託した人々の側からすれば、旅先で彼が病気にかかったという話を完全には信用しない人もいたに違いありません。大げさに言っているだけではないかと考える人も当然いたでしょう。あるいは「パウロに渡す」と言いながら病気を装って使い込みや持ち逃げをしようとしている可能性はないのだろうかと疑った人々もいたかもしれません。そのような疑いをもつこと自体が完全に間違っているとも言いきれません。エパフロディトとしては、教会の人々からそのようなことを思われたり言われたりすることは責任上当然のことでもあるだけに、病気そのものよりもつらかったに違いないのです。

ですから、このように考えていきますと、今日の個所にパウロが書いていることの意図がだんだん分かってくると思います。

この段落のなかにパウロは、エパフロディトの病状の重さについて「ひん死の重病」と書き、また「死ぬほどの目にあった」と書いて、同じことを二度繰り返しています。このように書いてパウロが力説していることは「フィリピ教会の皆さん!エパフロディトさんは本当に病気にかかったのです!」ということです。

皆さん、彼をどうか信頼してください。疑わないでください。彼についてあなたがたが聞いていることは、うそや誇張ではありません。距離が遠くなればなるほど不安が募り、疑心暗鬼になることもあるでしょう。しかし、エパフロディトさんはあなたがたのところにいたときと変わらぬ忠実さをもって、自分に託された使命を立派に果たすことができました。彼のおかげで、あなたがたの献げものはわたしのもとに届きました。それによってイエス・キリストの福音は今なお力強く前進しています。

このように、パウロは、エパフロディトの潔白を証明するために、事実と真実をもって弁護しているのです。それこそが今日の個所におけるパウロの意図であると理解することができるのです。

ここから先はやや余談的なことではありますが、私が考えさせられたことを申し上げておきます。三つほどあります。

第一は、パウロのような力強い弁護人を得ることができたエパフロディトは幸せであるということです。他人のお金を預かって管理する仕事をする人は、あらゆる疑惑や憶測、さらに中傷誹謗に至るまでを受けることが避けがたいからです。

第二は、わたしたちは、どんなことであれ、誰かがしていることや言ったことが真実であるか虚偽であるかを、どこかで聞いたような噂話や憶測のようなもので判断してはならないということです。

第三は、フィリピ教会の人々の前でエパフロディトの潔白を主張し、弁護するパウロのような人間に私もまた、なれるものならなってみたいということです。

言い方はおかしいかもしれませんが、パウロがこのように書いていることの裏側に秘められている思いは、フィリピ教会の人々は、このわたしパウロの言うことならきっと信頼してくれるだろうということです。本来ならばエパフロディトはフィリピ教会のメンバーなのですから、教会の人々が信頼すべきは彼自身です。またエパフロディトは本当に病気にかかっていたのですから、彼が疑われるのは酷なことであり、彼はむしろ十分な意味でかばってもらわなければならない存在であったわけです。ひん死の重病にかかったうえに愛する教会の人々から疑われるという二重の苦しみを味わうことがどれだけその人の心を傷つけるものであったかは想像に難くありません。しかし、その信頼関係に翳りや歪みが生じたときには、そのあまりよろしくない雰囲気を払拭するために、(相撲で言えば)行司役、(野球で言えば)審判員のような人が必要なのです。教会にとって牧師の存在は、そのようなものでありたいし、そのようなものでなければならないと思うのです。

しかしまたパウロは、いま私が申し上げた点に甘んじるような態度は取りませんでした。そのことも重要です。わたしの言葉を信頼してください。エパフロディトは本当に病気にかかりました。しかしそれにもかかわらず、きちんと役割を果たしましたと、そのようにフィリピの教会の人々に伝え、パウロ自身の言葉によって説得することだけで済まそうとしませんでした。エパフロディト自身をフィリピ教会に帰すことを願い、そのようにしました。それによってパウロは、エパフロディトが自分の口と自分の存在をもって、彼自身の証しを立てることを願ったのです。あなたの病気はもう治ったのだから、あとは自分で説明してくださいと、彼自身の説明責任を求めているのです。

「そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」とパウロは書いています。

今日の個所の読み方として重要なことは、ここにパウロが書いている「再会の喜び」の中身は、かつて教会員だった人と久しぶりに会うことができてああ嬉しい、というようなこととは全く違うことであるということです。何度も申し上げるようですが、今日の個所の大前提は、エパフロディトとは教会の人々のお金を預かってパウロのもとまで運ぶ仕事をした人であるということです。教会の大きな責任を託された人であるということです。その信頼関係の歯車が、少しおかしい状態になった。ねじが何本か外れているような感じになった。そのことをどのように解決するのかというテーマが裏側に隠されている個所であるいうことです。この点を抜きにして今日の個所を読むことは不可能なのです。

その解決策は単純です。とにかく顔を合わせることです。そして真実を知っている人がきちんと弁護してあげることです。また中立の立場にある審判者も必要です。もしどこかに弁護できない事実があるのなら、それを率直に示すことです。しかしまた、本人の反論や弁明の機会も確保されるべきです。そのようにして本人が説明責任を果たすことこそが重要です。

それが、そしてそれだけが、教会にふさわしい解決策なのです。

(2008年11月9日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年11月 2日 (日)

「親身になってあなたを思ってくれる人は誰ですか」

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フィリピの信徒への手紙2・19~24(連続講解第8回)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを思い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」

今日の聖書の個所からはっきりと伝わってくることがあります。それは、使徒パウロがフィリピの教会の人々のことを心の底から愛し、心にかけ、心配しているということです。彼は何とかしてフィリピに行き、教会の人々に再び会いたいと切望しています。しかし、その願いが叶いません。このときパウロは監禁されていたからです。

しかしそのような中で、パウロはある意味で潔い態度を取りました。彼自身が今すぐに獄中から出てフィリピの町に行くということだけにこだわりませんでした。もちろん本心では彼自身が行きたいと思っているのです。しかし今のわたしは自分の思いどおりにならない。そのことを静かに受け入れています。そしてパウロは彼の代理人を立てることにしました。フィリピの教会の人々の安否を気づかう役割を他の人に任せることにしたのです。何が何でもこのわたしが行かなければ気が済まないという態度を取らなかったのです。

このことはもしかしたら見過ごされてしまう点かもしれませんが、実はとても重要です。わたしたちが「教会とは何か」という問題を考えていくことにおいて重要です。単純な事実は、教会はだれか個人のものではないということです。どんなに間違っても教会は牧師個人のものではないし、長老のものでもありません。目立つ位置に立っている特定の個人のものではありません。教会とは第一義的にはイエス・キリストのものです。このことは声を大にして語る必要があります。この点はだれが何と言おうと決して譲ることができません。そして、そのうえで、教会はイエス・キリストを信じるすべての人のものであると語ることができます。このことを、パウロはよく知っていました。

そしてまた同時に言えることは、教会の働きもまた、この中の誰か特定の個人の働きではなく、教会にかかわるすべての人々の協力の中で行われるものであるということです。パウロとフィリピの教会の関係ということも、個人的な関係という面が全く無いとは言えませんが、その面だけで終わるものでもないと言わねばなりません。なぜなら、繰り返し申し上げてきましたように、パウロの伝道旅行もしくは海外派遣は、彼の個人的な活動ではなかったからです。それはどう間違えても、彼のスタンドプレーというようなものではありえません。あくまでも教会による正式で公的な任職と派遣行為に基づく活動なのです。

そのため次のように語ることができます。パウロがいちばん最初にフィリピの町に行き、そこで伝道したときでさえ、そこにいたのは個人としてのパウロではなく、教会の代表者としてのパウロであったということです。パウロにとって重要であったことは、フィリピに行くべき人が彼であるかどうかではなく、その人が教会の代表者であるかどうかでした。何が何でもこのわたしでなければならない理由は無かったのです。

さらに言い換えることができます。先ほど申し上げましたとおり、教会とは第一義的にはイエス・キリストのものです。ということは、教会の代表者であることの意味はイエス・キリストの教会の代表者であるということです。またその意味は同時にイエス・キリスト御自身の代理人であるということにもなります。パウロがフィリピに行ったとき、そこにいたのは、もちろんパウロです。しかしパウロにその役割を委ねたのはイエス・キリスト御自身です。パウロはイエス・キリストの代理人としてフィリピに行ったのです。代理人とは当の本人の意思と判断を伝えるために正式に任命された者ですから、そこにいたのは代理人に自らの意思と判断を委ねたイエス・キリスト御自身でもあったということです。

これは、わたしたち一人一人のこととして考えることができる内容です。わたしたちもまた、日常生活の中では、それぞれの置かれた場所に、教会の代表者として立っています。ということは、わたしたちが立っているその場所にイエス・キリストも立っておられるということです。また、わたしたちが言葉を発しているその場所でイエス・キリストも言葉を発しておられるということです。わたしたちの存在がイエス・キリストの存在を表わし、わたしたちの言葉がイエス・キリストの言葉を表わしているのです。

実際、わたしたちの周りにいる人々は、わたしたちの姿を見ながら、わたしたちの言葉を聞きながらイエス・キリストとはどのようなお方なのかを考えています。わたしたちを見てイエス・キリストは素晴らしいと称賛してくれる人もいるかと思えば、わたしたちを見てイエス・キリストはがっかりだと落胆する人もいるでしょう。代理人の責任は、それほどに重大なのです。

話が少し横道にそれてしまったかもしれません。今日の個所で重要なことは、パウロは何が何でも自分自身がフィリピの教会まで行かなければならないとは考えなかったということです。「何が何でもこのわたしでなければならない」ということにこだわりすぎるとき、教会の私物化が始まっているのではないかという点を疑わなくてはなりません。

しかし、です。今日の話は、今申し上げた点だけで終わってはなりません。加えて申し上げなければならないことがあります。それは要するに、パウロの代理人は誰でも良いというわけでもなかったということです。信頼できないと感じられる相手に自分の代理人を任せる人はいません。信頼できる相手を、だれでも探すでしょう。パウロも同じでした。わたしの代理人はわたしが心から信頼できる相手でなくてはならない。その相手はテモテであるとパウロは信じました。この点にはパウロ自身の個人的な判断が重要なのです。

このことはわたしたちにも十分に当てはまることでしょう。言い方はおかしいかもしれませんが、わたしたちはあまりにもお人よしすぎるべきではありません。人の本質を鋭く見抜く眼を持たなければなりません。この人が本当に信頼できる人なのかどうかを冷静に判断できる力を持たなければならないのです。

しかも、その判断だけは人任せにすることはできません。ある人にとっては信頼できる相手であっても、このわたしにとっては信頼できない相手であるということがありえます。それは別におかしいことではありません。職業的な弁護士の人々のことを考えるとよいかもしれません。ある人の弁護をするとき、他の人々から憎まれることがあります。それが弁護士の仕事でもあります。憎まれ役を買って出る仕事です。

パウロにとってこのわたしの意思と判断を委ねようと信じることのできる人は、彼自身が選ばないかぎり他の誰が選んでくれるわけでもないのです。その選択はきわめて主観的なものであってよいです。なぜならば、パウロが代理人に委ねる事柄の中には、教会の人々に対する批判的な要素をも含んでいたからです。パウロが選んだ人はフィリピの教会の人々から憎まれる可能性を含んでいたからです。誰からも愛される人、あるいは誰からも信頼される人というのは、実はあまり信用できない人かもしれません。

パウロは次のように書いています。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。」「ほかにいない」とパウロが書いているのを見たとき、テモテ以外の他の人々は腹を立てたかもしれません。パウロはテモテばかりをえこひいきする。冗談じゃない。わたしたちだってテモテ以上に親身になってフィリピ教会のことを心にかけている。しかしここから先は誰が何と言おうとパウロの判断です。ある人を選ぶことの裏側には他の人を選ばないという面が必ず付随します。選ぶ人も相当悩むでしょうけれど、選ばれた人は「なぜわたしが選ばれたか」に悩み、選ばれなかった人は「なぜわたしは選ばれなかったか」に悩むでしょう。しかし、ここから先は問うても仕方がない。答えは見つかりません。

この続きにパウロは非常に興味深いことを書いています。その内容は、パウロがテモテを代理人として選んだ理由ないし根拠です。テモテがパウロと同じ思いを抱いてフィリピ教会の人々のことを親身になって心にかけている人だからという点はすでに触れました。この点に関してはテモテ以外には誰もいないとパウロは断言しています。この件に関して大変興味深いと私に感じられましたのは21節以下です。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」とあります。そして「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり」とあり、続きに「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」とあります。

これのどこが興味深いのか。驚くべき言葉であるとも感じられました。ここに書かれていることの内容をよく考えてみていただきたいのです。考えてみていただきたいことは、ここでパウロが言っていることはわたしたちが通常の日本語で考えているようなこととはかなり隔たっているのではないかということです。

通常、わたしたちが「親身になって心にかける」という言葉を聞くときに連想することは、だれかのことに関心を持つこと、またその相手のことをひたすら考えることではないでしょうか。同情心をもつこと、そして共感することではないでしょうか。

しかし、です。続きに書いていることはパウロがテモテを選んだ理由です。その理由として挙げていることを裏側から言い直しますと、テモテは他の人とは違い、自分のことではなく、「イエス・キリスト」のことを追い求めているからだということです。またテモテはパウロと共に「福音」に仕えているからだということです。

わたしたちの通常の感覚は、おそらくこれとは大きく異なるものです。「あなたのことを親身になって心にかける」とはまさに「あなた」のことを追い求めることであり、「あなた」に仕えることであると考えるのではないでしょうか。「あなた」に関心を持ち、「あなた」に同情し、「あなた」に共感することです。

しかし、テモテが示した模範はそういうものではなかったのです。テモテが示した模範は、フィリピの教会の人々を「親身になって心にかけている」からこそ「イエス・キリスト」を追い求めることに熱心であり、また「福音」に仕えることに熱心であるというあり方でした。これは非常に重要な点であると私には思われるのです。

パウロの趣旨ははっきりしています。パウロが書いている意味での「親身になって心にかける」とは、ただ単なる同情心や共感とは明らかに異なるものであるということです。どのような例を挙げれば、このことをわたしたちが正しく理解できるようになるでしょうか。教会の中にはさまざまな立場の人やいろんな意見の人がいます。すべての人に対する同情心をもつことと「親身になって心にかけること」とは別の話であるということです。

「親身になること」の中には「親になること」、つまり息子または娘に対する父または母として「心を鬼にする」面が含まれて然るべきです。もっとも、「鬼」は不適切な表現かもしれません。申し上げたいことは、厳格な態度を貫くことも必要であるということです。同情できないことに同情しないこと、共感できないことに共感しないことも必要なのです。わたしたちは「信仰生活をやめたい。教会を離れたい」という願いをもつ人々に同情することはできないのです。

テモテのように、ひたすらイエス・キリストを追い求め、福音に仕えつつ、厳しい意見を言ってくれる人こそが、あなたのことを「親身」に思ってくれているかもしれません。わたしにとってそれは誰なのだろうかということを、ぜひ考えてみてください。

(2008年11月2日、松戸小金原教会主日礼拝)

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2008年10月26日 (日)

「人生は礼拝のために、礼拝は人生のために」

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フィリピの信徒への手紙2・14~18(連続講解第7回)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

今日の礼拝は宗教改革記念礼拝として行っています。1517年10月31日、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会を批判する九十五カ条の提題をヴィッテンベルクの聖堂の扉に張りつけたその日から、宗教改革運動が始まりました。その故事にちなんで、改革派教会を含むすべてのプロテスタント教会が毎年10月31日を「宗教改革記念日」として重んじてきました。また10月31日に近い日曜日に「宗教改革記念礼拝」を行ってきました。この説教の中で多く触れることはできませんが、とにかく今日は記念すべき大切な礼拝なのだということを覚えていただきたく願っております。

さて、今日もフィリピの信徒への手紙を学んで行きます。今日の個所の最初に「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とあります。これは直接的にはフィリピの教会の人々に言われていることですが、同時にすべてのキリスト者に言われていることでもあります。確認しておきたいことは「何事も」の内容です。意味は、イエス・キリストを信じる人々が教会の中でまたは教会を通して行うすべてのことです。これは明らかに「教会の奉仕」について語られていることです。重要な点は、これは「教会」を抜きにして言われていることではないということです。

わたしたちは、教会の奉仕をする際に不平や理屈を言ってはなりません。しかし、このように言いますと、日本の戦前・戦中の軍隊調の教育を思い起こす方がおられるかもしれません。上司の前で不平や理屈を言えば暴力をもって制裁される。どんなに理不尽なことであっても、おかみの命令に無条件で従わなくてはならない。パウロはそのような意味で言っているのでしょうか。まさか、決してそういう意味ではありません。

そういう意味ではないことの根拠を示しておきます。それはここでパウロが用いている「不平」という言葉には旧約聖書的背景があるという点です。出エジプト記の出来事です。イスラエルの民が、奴隷状態に置かれていたエジプトの地から指導者モーセと共に脱出し、約束の地カナンを目指して砂漠の旅を始めました。彼らがエジプトから逃げ出すことは、彼ら自身が願っていたことでした。ところが旅の途中、彼らは繰り返し「不平」を言いました。まともな食べ物がない、水がない、こんなにつらい思いをするくらいならエジプトにとどまっていたほうがましだった、など。そのような不平を彼らは直接的にはモーセに向かって言いました。しかし、彼らが不平を吐きだした本当の相手は、神御自身でした。

この意味での「不平」をあなたがたは言うべきではないと、パウロはフィリピの教会の人々に言っていると考えることができます。なぜならパウロが用いている「不平」を意味するギリシア語は、出エジプト記に用いられている「不平」を意味するヘブライ語の翻訳だからです。教会の奉仕において問題になる「不平」は、本質的に言えばこの意味です。つまり、神に対する不平です。

神はわたしたちを罪と悪の支配のもとから救い出してくださいました。神はわたしたちの救い主です。わたしたちは、神に救われた者として教会に集められています。救われた者たちは、その救いの事実を喜ぶべきであり、感謝すべきです。しかし、肯定的な思いを抱くことができるのはおそらく最初だけです。そのうち不平を言いだします。教会もまた人間の集まりであった。ここにも人間の醜さや過ちがあふれている。神に救われたことを喜びたい、感謝したいと願ってはいる。しかし、教会の現実を知れば知るほど、ちっとも喜ぶことができず、感謝することができない。「神さま、私はあなたの救いを求めて教会に来ましたが、教会がわたしを躓かせます。どうして私はこんな嫌な目に遭わねばならないのですか」。これこそが、パウロが言うところの「不平」の内容です。

パウロは、教会の中のそのような問題を知らずに、あるいは知っていても目をふさいで、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と書いているのではありません。彼はそのようなことは百も承知です。すべての事情を知り抜いています。

それどころか!パウロの目から見ると、教会の現実は、不平を言いたくなるようなことばかりでした。あれこれ理屈をつけて教会から逃げ出したがっている人々がいることも、分かっていました。しかし、だからこそ、です。パウロが勧めていることは、そのような教会の現実を、勇気をもって引き受けなさいということです。不平や理屈は、言いだせばきりがありません。その言葉をあなたのその口の中に飲み込んでしまいなさいということです。教会の中の人間に対する不平や理屈ではなく、このわたしを救ってくださった神への感謝と喜びを語りなさいということです。そのようにして教会の奉仕に熱心に取り組みなさいということです。

ここで16世紀の宗教改革者たちのことを考えることができそうです。彼らもまた、教会の現実に苦しんだ人々でした。当時のローマ・カトリック教会の現実が、彼らにとってはあまりにも耐えがたいものでした。しかし、宗教改革者たちは、ルターにせよカルヴァンにせよ、当時の教会の現実を憂い、批判し、攻撃することで終わるものではありませんでした。そもそも彼らは、教会の大掃除をしようとしただけであって、ローマ・カトリック教会にとって代わる新しい教会を作るつもりはありませんでした。それが彼らの偉大さでもあったのです。

不満があるから辞める、飛びだすで物事の決着をつけることは、いとも簡単なことです。しかしそれでは問題は何一つ解決できません。問題はある。だからこそ、その問題状況の中に踏みとどまって改革し続けること。その努力を惜しまない人々だけが、新しい時代を切り開いていくことができるのです。

「そうすれば」と続く次の文章に「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。このことも個人的な事柄としてとらえてしまうとパウロの意図が分からなくなります。「とがめられるところのない清い者」になることが求められているのは教会です。「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保つ」ことを求められているのも教会です。

一人一人の心の中に不平や理屈があることは、ある意味で仕方がないことです。しかし、そのような思いが心の中にあることと、それを口に出して言うことは別のことです。何でもかんでも言いたい放題をぶちまけて周りの人々を不愉快にし、教会の中に争いや分裂の原因を作りだすようなことがあってはならない。これこそがパウロの意図です。

もちろんこのようなことは今ここで私が口を酸っぱくして力説しなければならないようなことではないでしょう。わたしたちが体験的によく知っていることです。わたしたちが教会に来ると幸せを感じると言うとき、それが何を意味しているのかを考えてみればすぐに分かることです。それはやはり、教会のみんながいつも変らぬ笑顔で迎えてくれるとか、優しく温かく受け入れてくれると感じることでしょう。しかめっ面をした恐ろしい人々が、このわたしを睨みつける。そのような場所で幸せを感じるという人はいないでしょう。

「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことを求められているのは、教会です。教会の輝きは建物の輝きではありません。建物をぴかぴかに磨くことも大事でしょう。しかし、教会の輝きとはここに集まっている人間の輝きであり、わたしたち一人一人の笑顔の輝きです。罪の暗黒から救い出され、絶望の淵から救い出され、神への感謝と喜びに満たされた、このわたしの輝きです。

パウロの願いは、フィリピの教会がそのような輝きをもつ教会として立ち続け、保たれ続けることに他なりません。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」とあります。フィリピ教会がそのような教会であり続けることができるとき、パウロの人生に「誇り」が与えられるというのです。生きていて良かった、伝道者になって良かった、教会のために苦労して良かったと、感謝と喜びの生活を生涯送り続けることができるということです。

教会には、実に面白い(?)面があります。雰囲気がおかしくなるときがないわけではありません。しかし、良い雰囲気を再び取り戻すこともできます。その秘訣ないし鍵は、礼拝です。教会活動の中心は間違いなく礼拝です。そして礼拝の中心は神の御言葉です。聖書朗読であり、説教であり、神への賛美です。わたしたちが教会の中であるいは教会を通して行うすべての奉仕は礼拝という軸、また礼拝の中心である聖書朗読と説教と神賛美という軸の周りをぐるぐる回っているのです。

それが意味することは明らかです。もし教会の雰囲気がたとえどんなにおかしくなったとしても、すべての教会の奉仕の中心である礼拝へと、また礼拝の中心である神の御言葉へと教会のみんなが集中することができるならば、良い雰囲気を再び取り戻すことができ、明るく輝く教会を取り戻すことができるのだということです。わたしたちは、教会の中で争いや対立が起こるときには、教会のど真ん中に、聖書をどんと開くのです。そして聖書の周りにみんなで集まり、神の御言葉に聞くという仕方で、問題解決の道を探っていくのです。そういうことができるのが教会なのです。

宗教改革者たちが熱心に取り組んだのも「宗教の改革」というような抽象的な何かではなく、実は「礼拝の改革」でした。彼らは説教を改革し、礼拝音楽を改革し、礼拝式順を改革し、教会規程を改革しました。それが世界の歴史を動かす力になったのです。

17節にパウロが書いていることは一つの重大な決意です。ただし、用いられている表現には、明らかに象徴的な意味が込められています。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」とは、どういうことでしょうか。考えられるのは次のことです。

「あなたがた」とは教会です。教会が「信仰に基づいていけにえを献げる」とはユダヤ教的な意味での動物犠牲を献げることではありません。それは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」(ローマ12・1)、すなわち、わたしたち一人一人が神を礼拝することです。ユダヤ教の場合は、彼らの安息日である土曜日に、神殿または会堂に動物犠牲を携えていきます。わたしたちの教会の場合は、キリスト教安息日である日曜日に、わたしたち自身が自分の体をたずさえて出席するのです。

その礼拝にパウロの「血」が注がれるとは、どういうことでしょうか。彼は礼拝の中で殺されるのでしょうか。もう少し肯定的に言いなおすことができるでしょう。その意味は、パウロは神を礼拝するために生きているということです。このわたしの命は、またわたしの流す血は、礼拝において神の前に注がれるためにあるということです。それがわたしの人生の目標であり、その目標がまさに達成できるのだから、神の前に自分の命がいけにえとして献げられることを、わたしは喜ぶと、パウロは語っているのです。

パウロの人生は教会と礼拝のために献げられました。しかしまた彼は各地の教会の礼拝が健全かつ活発に行われていることを見聞きするたびに、人生の喜びを感じとりました。彼の人生は礼拝のために、また礼拝は彼の人生のためにありました。

わたしたちもまた、このパウロと同じ思い、同じ信仰を与えられたいものです。

(2008年10月26日、松戸小金原教会主日礼拝)

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